1 香川県の水主神社の伝承などによると、倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は香川県に来られた時にはすでに、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方であったという。倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)が神意を伺い、まじない、占いをすることを覚えたのは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜であった。
2 古事記には、倭建命は歌を詠んで「出雲建が佩ける太刀、つづらさわまき、真身(さみ)なしに哀れ」とある。
長瀬高浜遺跡の円墳1号墓の箱式石棺から女性の遺骸と一緒に右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた。この太刀は小林行雄先生らによると、つづらさわまきの大刀である、とする。「つづらさわまき」とは巻き方のことであって、材料は絹紐でもよいわけである。
長さ1.01m・幅4.8cmの大振りの直刀 。 小林行雄先生らによるつづらさわまきの大刀(長瀬高浜遺跡発掘調査報告書より)
6は柄部。7は中央部。
1は中央部。2は先端部
倭建命が身に着けていた都豆良佐波麻岐(つづらさわまき)の太刀もこのような太刀であったのだろう。つづらさわまきの太刀は当時皇太子や皇女がみにつけていたものと思われる。
ここに埋葬されていた女性は皇女・あるいは皇女と同格の巫女であると思われる。天皇家の皇女は代々長瀬高浜で巫女になる習わしであった。天皇家は長瀬高浜に皇女・あるいは皇女と同格である巫女を置いていた。長瀬高浜遺跡1号円墳は5世紀中頃の築造である。私見では倭五王、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、436年~467年の時代であり、天皇の皇居は鳥取県中部にあった。但し、雄略天皇は滅びかけていた新羅を再興させたのだから、436年~467年の時代に新羅は滅びかけていた。高句麗・百済は新羅だけではなく、新羅から倭国(鳥取県中部)にまで船で出航し、襲ったのかもしれない。三天皇の帝紀・旧辞にはヒントらしきものを全く残していない。亡命百済人がそれほど自由に改ざんできたのは、百済は倭国天皇も殺害していたからかも知れない。3天皇で30年は短い。百済人2世の不比等に毒殺された天武天皇の皇子の3天皇の30年と同じくらいである。
大量の埴輪が壊されていたのも5世紀中頃である。
倭建命が身に着けていた都豆良佐波麻岐(つづらさわまき)の太刀もこのような太刀であったのだろう。つづらさわまきの太刀は当時皇太子や皇女がみにつけていたものと思われる。
ここに埋葬されていた女性は皇女・あるいは皇女と同格の巫女であると思われる。天皇家の皇女は代々長瀬高浜で巫女になる習わしであった。天皇家は長瀬高浜に皇女・あるいは皇女と同格である巫女を置いていた。長瀬高浜遺跡1号円墳は5世紀中頃の築造である。私見では倭五王、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、436年~467年の時代であり、天皇の皇居は鳥取県中部にあった。但し、雄略天皇は滅びかけていた新羅を再興させたのだから、436年~467年の時代に新羅は滅びかけていた。高句麗・百済は新羅だけではなく、新羅から倭国(鳥取県中部)にまで船で出航し、襲ったのかもしれない。三天皇の帝紀・旧辞にはヒントらしきものを全く残していない。亡命百済人がそれほど自由に改ざんできたのは、百済は倭国天皇も殺害していたからかも知れない。3天皇で30年は短い。百済人2世の不比等に毒殺された天武天皇の皇子の3天皇の30年と同じくらいである。
大量の埴輪が壊されていたのも5世紀中頃である。
3 長瀬高浜遺跡は孝霊天皇の皇居があった宮内(東郷池周辺の師木地方)の近くである。卑弥呼も小さいときから、長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていたものと思われる。長瀬高浜は道教(鬼道)を教える場所でもあった。大来皇女は倉吉の大御堂廃寺において1年半で道教を会得したから、卑弥呼も5歳のころから修行を始めれば道教(鬼道)を会得することができる。