「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された

2020-11-03 15:20:29 | 火々出見と神武天皇4兄弟
1  鳥取県倉吉市大谷の中尾遺跡より弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟が見つかった。
 倉吉市ホームページより
教育委員会事務局 文化財課 ―弥生時代中期の集落跡発見!― 中尾遺跡発掘調査 
 「倉吉市教育委員会では、平成27年(2015年)8月より中尾遺跡(倉吉市大谷)の発掘調査を行っており、弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟、古墳時代後期の円墳1基などを確認しました」とある。

2  遺跡の位置
 
 中尾遺跡は神武天皇4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落を隠すように取り巻く丘陵地の上にあり神武天皇4兄弟と同時期に建てられたものであると解する。

3 私見では「神武天皇の即位年は紀元前60年であり、神武天皇の生年は紀元前112年である」としている。
 神武天皇の4兄弟は鳥取県倉吉市の四王寺山(四皇子山 )にいたのであり、4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落の近くの中尾遺跡で紀元前100年頃の12棟の建物跡が発掘された。発掘予定はないが、大谷集落の下にはもっと多くの紀元前100年頃の建物跡があるはずである。
 
4 神倭磐余彦(紀元前60年即位)が鳥取県倉吉市の四王寺山(山城)にいた証拠がまた一つ見つかった。長髄彦の一族が近くにいたので土塁を築いた。その土塁の上から国内最長の弥生時代中期(紀元前100年頃)の鉄矛が出土した。
 2020年11月3日付け日本海新聞に「国内最長の弥生鉄矛が出土した」の記事が載った。
 
5(1)「内陸部にある同所が日本海側と瀬戸内海側とを結ぶ南北の物流交流ルートの拠点的な集落」とあるが、火火出見の時代は北条砂丘が笠沙之御前になる海抜4mに海面があり、北面の前まで海岸が来ていた。
 鉄矛は新羅から日本海を船で四王寺山に運ばれた。
 海抜4mに海面があると、北条砂丘が笠沙之御前になるので、その頃は北面の前まで海岸が来ていた。山幸彦は新羅から一尋和邇に乗って一日で倉吉市北面まで帰ってきた。そして、四王寺山に上がり、本拠地にした。ウガヤフキアエズとは山幸彦のあだ名であった。四王寺山で神倭磐余彦の四兄弟を育てた。
(2)「見つかったのは実用品として使用されていない鉄矛・・・鉄矛は建物の柱穴の埋め土に突き立てられていたことから、儀式の一部として使用されたとみられる。・・・村上恭通センター長は『何らかの儀礼があったことはほぼ間違いない』と強調。・・・当時の祭祀研究が進展するとみる」とある。

 関金の日吉神社は川に船が出せるようになっているので、饒速日は日吉神社より船着き場のある清熊稲荷神社のある峰まで船で降った。清熊稲荷神社の峰が哮峰であったから、饒速日はしばらく哮峰にいた。四王寺山の土塁の向きから長髄彦の一族(出雲族)は倉吉市富海(鳥見邑)にいた。長髄彦(海幸彦)の一族は饒速日を信奉していたので哮峰の近くの倉吉市富海を本拠地としていた。
 四王寺山にいたのは火火出見(山幸彦)であり、土塁が向いているのは倉吉市富海なので、倉吉市富海には火火出見(山幸彦)と敵対していた長髄彦(海幸彦)がいた。火火出見(山幸彦)は3年間新羅に逃げていた。しかし、父の邇邇芸がここは良き地なりと言っていたので、鳥取県中部を取り戻すために帰ってきた。鉄矛は新羅から直接運んできた。
 鉄矛は細いし、近くに敵対していた海幸彦(長髄彦)がいたので祭祀ではなく実用品として使用されていた。竪穴建物を焼失させたのは、敵対していた長髄彦(海幸彦)である。
 饒速日(哮峰)を信奉していた長髄彦の一族は現在、富海の対岸の倉吉市生田に住んでいる。倉吉市は生田に移り住んでいる長髄彦(海幸彦)一族が中心になってできた自治体である。



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