神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った。
1 九州には生贄の風習のある鬼八がいて渡来人を掠め取っていた。御毛沼命は常世国から渡来しようとする者に「朝鮮半島の辰韓を経由して倭国(鳥取県中部)に来るように」渡来ルートの変更をさせるために常世国(台湾やベトナムや中国雲南省)に渡った。
鳥取県中部の標高172mの四王寺山は周囲に太陽の光を遮る山などがなく、当時は家や船を造るため木を切り「つくし」ていたので日当たりの良い日向の地であった。神倭磐余彦4兄弟は日向(四王寺山)を出発した。
2 山口県光市より西は神倭磐余彦4兄弟の伝承がほとんどないが、島田川流域には磐余彦や御毛沼の伝承があるので、山口県光市から大分県の宇佐に渡ったと思われる。神倭磐余彦4兄弟は宇佐から岡田宮に移った。稲飯命は九州の西側から辰韓に渡り、鉄の鏃を作って半島の西側(馬韓)から出港し岡田宮で待っていた神倭磐余彦たちに武器を送った。
以下の鉄鏃は辰韓か加羅で稲飯命が作り、馬韓から岡田宮にいた神倭磐余彦たちに送られ、九州の鬼八に対して使われた。
※(2015-07-19) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。」
「昨年7~8月に『土坑墓』から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。
副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる」とある。
※ 私見
吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった紀元前100年頃の鉄鏃は神倭磐余彦たちが放った鉄鏃である。その先には吉野ヶ里遺跡があるので、そこでも鉄鏃を放っている。吉野ヶ里遺跡は奴隷を逃げられないようにしていた。柵と堀の位置が通常と逆である。
吉野ケ里を100名城の1つ(城のルーツ)として聖地にしているが、ここにいた略奪に喜びを感じる鬼八は藤原氏と同族である。本当の山城は大谷と北面の2集落からしか上がれないようにしてある倉吉市の四王寺山である。
鹿児島県でも紀元前100年頃の鉄鏃が見つかっているので紀元前60年に即位した神倭磐余彦たちは九州全域を平定している。五瀬命と神倭磐余彦は九州全域を平定して倭国(鳥取県中部)に帰ってきた。
3 古事記には「御毛沼命は、波の穂を跳みて常世国に渡りまし、稲氷命(稲飯命)は、妣の国として海原に入りました」と書かれている。
「稲氷命(稲飯命)は、妣の国(玉依姫は辰韓出身)として海原(海抜4m~20mの陸地)に入りました」という表現は「事代主は海の中に入られた」(日本書紀)と同じであり対岸に渡ったということである。
「倭人が腰にヒョウタンをつけて海を渡り、新羅に来て、瓠公(ホコ)と呼ばれた。彼は、初代王の赫居世(朴氏祖)~四代王の昔脱解(昔氏)まで、建国の重臣として活躍した」(三国史記)とある。「新撰姓氏録」において新羅の祖は稲飯命だとされている。赫居世居西干とは日向の王という意味であり、四王寺山(日向)にいた稲飯命(王子)を思わせる。
大臣が何代にもわたって仕えるのは日本書紀の武内宿禰や蘇我氏3代に例があり、藤原氏の手法である。稲飯命は紀元前57年に即位した新羅国の初代王であった。建国の重臣ではなく、建国者その者であった。