八幡神社は藤原氏の神社である。
1 八幡宮は、八幡神を祭神とする神社。全国に約4万4千社あり、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社とする。
和銅元年(708)に鷹居社を造立し八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりといわれている。そして霊亀2年(716)には小山田社に遷座、さらに神亀2年(725)には、小倉山の丘陵(現在の亀山)にさらに遷座した。
八幡神社の祭神は応神天皇、比売神(宗像三女神)、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇、武内宿禰とともに祀っている神社もある。
2 私見
八幡神社の始まりが当時最大権力を持っていた藤原不比等の時代であることと、新羅を攻撃して勝った神功皇后を立派だとして祭神としていることと、応神天皇(私見では在位354年~394年)の時代に百済は倭国に始めて朝貢しているので応神天皇は特別な天皇であったことから、八幡神社は倭国を乗っ取った百済出身の藤原氏によって創建され広められたものと思われる。
現在では全国の神社(8万5千社ほど)の半数以上を占める。八幡神社でない神社(文部科学省の資料によると4万社くらい)よりも多い。八幡神社は日本各地の神社などに残るヤマト王権(紀元前60年~734年)の歴史・伝承を作り替え、あるいは消すために造られた神社と思われる。日本の本当の古代史や八幡神社の機能を知った徳川光圀は八幡つぶしをしている。徳川光圀の編纂した歴史書を読んだ京都の藤原氏は元禄時代に西日本のあちこちで徳川光圀に指摘されたところの辻褄合わせ(整合)をしている。伯耆国の大原神社もその一つである。元禄時代までは波波伎神社と称していたと由緒に残っている。八岐大蛇の伝承も残っていたものと思われる。台与(豊鋤入姫命)の伝承も神功皇后の伝承に置換えていった。それを完成させるためには、多くの八幡神社が必要であった。
伯耆国には八幡と名のつく神社は少ない(鳥取県神社誌による)。鳥取県中部に限っては、藤原氏にとって本当に消さなければならない場所の近くに八幡神社を建立している。
瓊々杵命の居た大宮神社の近くに高尾八幡宮。天忍穂耳のいた三輪山と大国主のいた茶臼山との間に北条八幡神社(周辺に大国主・大物主の本拠地と7天皇の皇居があった)。素戔嗚と須勢理姫(宇迦之御魂命)のいた倉吉の清熊稲荷神社の近くに八幡神社。あと一社が旧東郷町の小鹿谷桂男山八幡宮(秀尾神社だが祭神は八幡神)である。
3 高尾八幡宮
鎮座地 東伯郡栄村大字西高尾字八幡山
現在 鳥取県東伯郡北栄町西高尾340番
祭神 誉田別尊、帯中津彦命、気長足姫命、武内宿禰命、大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真
由緒 本社は陽成天皇元慶年中の創建にして石清水宮別宮種八幡宮として奉祭せられ、佐藤某なる者の献金によりて奉建せるものなり。爾来武門武将の崇敬甚だ厚く社領も亦多かりしか、平家追討の頃守護武士等社納米を抑留せる事ありしを、元歴二年源頼朝の令によりて是を停止せられ、事後一般の崇敬特に厚く、殷盛なる神社なりしが、群雄割拠の世に至り兵燹に罹り一時祭事微弱に陥りたるの時、本国の領主尼子晴久之を慨して社領を奉献して面目を革めたり。後尼子氏の滅亡とともに社領絶せり。下りて徳川氏天下一統の後も累代国主の祈願所として奉祭せられたり。
大正四年四月二十一日
(1)大宮神社 東伯郡栄村大字上種字宮惣
祭神 大己貴命、別雷命、素盞鳴命、瓊々杵命、菅原道真
(2)東高尾神社 東伯郡栄村大字東高尾字堂山
祭神 素盞鳴命
を合併す。
当社に古き経筒を蔵す、理学博士坪井正五郎、文学博士三宅米吉の鑑定によれば、藤原時代の献納物ならんと。尚当社か石清水八幡宮別宮なりし事、元歴二年正月十九日右大将頼朝の社領安堵の下文(石清水所蔵古文書)にあり。
※ 私見
陽成天皇元慶年中の創建とは880年頃に創建されたことになる。
天孫降臨に際して、瓊々杵命は打吹山周辺をさけて山沿いを移動している。関金の北の鴨河内あたりが倉吉中心部にいた大物との境界であったようだ。瓊々杵命は関金ー志津ー福本ー上米積ー上福田ー下種と移動している。
クシフルタケ(亀谷丘陵)の海側には木花佐久耶姫を祭る亀谷神社がある。葦原中津国を天児屋根(穂波神社)と挟んだ位置関係になっており、葦原中津国を平定した状態を確認できる。
現在 鳥取県東伯郡北栄町西高尾340番
祭神 誉田別尊、帯中津彦命、気長足姫命、武内宿禰命、大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真
由緒 本社は陽成天皇元慶年中の創建にして石清水宮別宮種八幡宮として奉祭せられ、佐藤某なる者の献金によりて奉建せるものなり。爾来武門武将の崇敬甚だ厚く社領も亦多かりしか、平家追討の頃守護武士等社納米を抑留せる事ありしを、元歴二年源頼朝の令によりて是を停止せられ、事後一般の崇敬特に厚く、殷盛なる神社なりしが、群雄割拠の世に至り兵燹に罹り一時祭事微弱に陥りたるの時、本国の領主尼子晴久之を慨して社領を奉献して面目を革めたり。後尼子氏の滅亡とともに社領絶せり。下りて徳川氏天下一統の後も累代国主の祈願所として奉祭せられたり。
大正四年四月二十一日
(1)大宮神社 東伯郡栄村大字上種字宮惣
祭神 大己貴命、別雷命、素盞鳴命、瓊々杵命、菅原道真
(2)東高尾神社 東伯郡栄村大字東高尾字堂山
祭神 素盞鳴命
を合併す。
当社に古き経筒を蔵す、理学博士坪井正五郎、文学博士三宅米吉の鑑定によれば、藤原時代の献納物ならんと。尚当社か石清水八幡宮別宮なりし事、元歴二年正月十九日右大将頼朝の社領安堵の下文(石清水所蔵古文書)にあり。
※ 私見
陽成天皇元慶年中の創建とは880年頃に創建されたことになる。
天孫降臨に際して、瓊々杵命は打吹山周辺をさけて山沿いを移動している。関金の北の鴨河内あたりが倉吉中心部にいた大物との境界であったようだ。瓊々杵命は関金ー志津ー福本ー上米積ー上福田ー下種と移動している。
クシフルタケ(亀谷丘陵)の海側には木花佐久耶姫を祭る亀谷神社がある。葦原中津国を天児屋根(穂波神社)と挟んだ位置関係になっており、葦原中津国を平定した状態を確認できる。
4 北条八幡神社
鎮座地 東伯郡下北条村大字北尾字八幡山
現在地 鳥取県東伯郡北栄町北尾365
祭神 誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、大山祇尊、猿田彦神、素戔鳴尊、大己貴尊、少彦名尊、国常立尊、綿津見神、奥津彦神、奥津姫神、菅相烝、土御祖命、倉稲魂神、天児屋根尊、山神
由緒 当社は清和天皇貞観七年八月筑紫宇佐八幡宮の御分霊を奉祀して産土神とし尊崇するものにして郡内屈指の大社なり。
大正2年12月28日
(1)苅山神社 東伯郡下北条村大字曲字苅山
祭神 綿津見神
(2)岡神社 東伯郡下北条村大字曲字岡
祭神 素盞鳴尊
(3)嶌沢神社 東伯郡下北条村大字米里字三ノ崎
祭神 素戔鳴尊・大山祇尊
(4)田村神社 東伯郡下北条村大字島字田村
祭神 猿田彦尊
(5)田井神社 東伯郡下北条村大字弓原字妙見
祭神 国常立尊
(6)下神神社 東伯郡下北条村大字下神字南宮脇
祭神 菅相烝
(7)三輪神社 東伯郡下北条村大字土下字野本
祭神 大己貴尊・少彦名尊・猿田彦神・倉稲魂神・天児屋根尊
(8)弓原神社 東伯郡下北条村大字弓原字飯田
祭神 奥津彦神・奥津姫神・菅相烝・土御祖命
の八神社を合祀する。
(7)の三輪神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。
一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ。大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。
二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓字三輪脇に在りしが、宝暦三年の火災により野本山に移転せり。
三、鎮座地 土下(ハシタ)は往古土師部の此の地に移住せしより地名とす。土下山の頂には今尚数百の古墳散在し古器物を発見す。
※ 私見
鳥取県東伯郡下北条村では大正2年に8つの神社を北条八幡神社に合併している。北条八幡神社(古くは山田八幡宮)は天忍穂耳のいた三輪山(神山)と大国主のいた茶臼山(大神山、宇迦能山、伊那佐山)との間にある。周辺には天皇の皇居の比定地が多くある。
現在の国坂の茶臼山は大神山(オオミワヤマ)といい下神の三輪山も神山(ミワヤマ)と言っていたはずである。宝暦三年(1753年)の火災とあるが、大日本史の改ざん中であり、徳川光圀が矛盾を指摘していたので邪魔になり、藤原氏が放火したものと思われる。焚書・放火の好きな藤原氏である。「土師部の此の地に移住せしより土下の地名とす」とあるが、苦しい説明であり、納得できるものではない。土下は神武天皇の家来が土を下したところだから地名とされた。
伯耆民談記には「山田家に古き伝記を所持せり。その文に『承平5年(935年)伯州山田別当下向八幡大菩薩奉還。当所号開発願主この子孫により山田を以て氏とす云々』。山田家承平の頃より天正年中まで連綿として続きたり(在承平5年(935年)~天正11年(1583年))」とある。
創建は866年である。935年は統一新羅滅亡の年。山田氏は京都よりこの地に来たりて八幡大菩薩を奉還した。山田氏は京都から下向し六百年余りこの地を支配した。
現在地 鳥取県東伯郡北栄町北尾365
祭神 誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、大山祇尊、猿田彦神、素戔鳴尊、大己貴尊、少彦名尊、国常立尊、綿津見神、奥津彦神、奥津姫神、菅相烝、土御祖命、倉稲魂神、天児屋根尊、山神
由緒 当社は清和天皇貞観七年八月筑紫宇佐八幡宮の御分霊を奉祀して産土神とし尊崇するものにして郡内屈指の大社なり。
大正2年12月28日
(1)苅山神社 東伯郡下北条村大字曲字苅山
祭神 綿津見神
(2)岡神社 東伯郡下北条村大字曲字岡
祭神 素盞鳴尊
(3)嶌沢神社 東伯郡下北条村大字米里字三ノ崎
祭神 素戔鳴尊・大山祇尊
(4)田村神社 東伯郡下北条村大字島字田村
祭神 猿田彦尊
(5)田井神社 東伯郡下北条村大字弓原字妙見
祭神 国常立尊
(6)下神神社 東伯郡下北条村大字下神字南宮脇
祭神 菅相烝
(7)三輪神社 東伯郡下北条村大字土下字野本
祭神 大己貴尊・少彦名尊・猿田彦神・倉稲魂神・天児屋根尊
(8)弓原神社 東伯郡下北条村大字弓原字飯田
祭神 奥津彦神・奥津姫神・菅相烝・土御祖命
の八神社を合祀する。
(7)の三輪神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。
一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ。大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。
二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓字三輪脇に在りしが、宝暦三年の火災により野本山に移転せり。
三、鎮座地 土下(ハシタ)は往古土師部の此の地に移住せしより地名とす。土下山の頂には今尚数百の古墳散在し古器物を発見す。
※ 私見
鳥取県東伯郡下北条村では大正2年に8つの神社を北条八幡神社に合併している。北条八幡神社(古くは山田八幡宮)は天忍穂耳のいた三輪山(神山)と大国主のいた茶臼山(大神山、宇迦能山、伊那佐山)との間にある。周辺には天皇の皇居の比定地が多くある。
現在の国坂の茶臼山は大神山(オオミワヤマ)といい下神の三輪山も神山(ミワヤマ)と言っていたはずである。宝暦三年(1753年)の火災とあるが、大日本史の改ざん中であり、徳川光圀が矛盾を指摘していたので邪魔になり、藤原氏が放火したものと思われる。焚書・放火の好きな藤原氏である。「土師部の此の地に移住せしより土下の地名とす」とあるが、苦しい説明であり、納得できるものではない。土下は神武天皇の家来が土を下したところだから地名とされた。
伯耆民談記には「山田家に古き伝記を所持せり。その文に『承平5年(935年)伯州山田別当下向八幡大菩薩奉還。当所号開発願主この子孫により山田を以て氏とす云々』。山田家承平の頃より天正年中まで連綿として続きたり(在承平5年(935年)~天正11年(1583年))」とある。
創建は866年である。935年は統一新羅滅亡の年。山田氏は京都よりこの地に来たりて八幡大菩薩を奉還した。山田氏は京都から下向し六百年余りこの地を支配した。
5 倉吉の八幡神社
鎮座地 東伯郡倉吉町大字余戸谷町字四十二丸
現在地 鳥取県倉吉市八幡町3626-3
祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、素盞鳴尊、宇迦之魂命、武内宿禰命
由緒 創立年代不詳、文明十八年(1486)因幡守護山名豊明社殿を造営す。旧と八幡宮と称し倉吉町の西部及び小鴨村大字生田の産土神たり。
明治元年九月生田神社と改称、その後村社に列す。
大正二年九月
(1)谷田神社 倉吉町大字余戸谷字四十二丸
祭神 須佐之男命、宇迦之魂命
を合併す。
※ 私見
倉吉市生田にあった久米八幡を明治時代こちらに遷した。
伯耆国風土記残欠に、「伯耆とはもと母来といい、稲田姫が母来ませと叫んだからだ」と記されている。三朝町の坂本神社には稲田姫の両親が祭られ、三朝町大瀬には大瀬ほうきという地名(稲田姫はここで母来ませと叫んだ)があり、下っていくと大原神社(もと波波伎神社)がある。八岐大蛇伝説は三朝町山田(ヤマタ)が舞台であった。その後、素戔嗚と稲田姫は伊邪那岐命の後を追って、鳥取県八頭郡に行っていた。その後、素戔嗚は須勢理姫(宇迦之御魂命)と共に根国(倉吉市中心市街地)の清熊稲荷神社に戻った。明治維新の頃まで、清熊稲荷神社に大国主の根国での冒険の伝承が残っていたものと思われる。この丘陵全体の住所が倉吉町大字余戸谷字四十二丸であった。清熊稲荷神社はその中心部にある。
素戔嗚と須勢理姫(宇迦之御魂命)が倉吉市の清熊稲荷神社にいたのを大日本史で徳川光圀は指摘していたはずである。藤原氏は明治時代になって八幡神社を造り根国での冒険の伝承を消した。
現在地 鳥取県倉吉市八幡町3626-3
祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、素盞鳴尊、宇迦之魂命、武内宿禰命
由緒 創立年代不詳、文明十八年(1486)因幡守護山名豊明社殿を造営す。旧と八幡宮と称し倉吉町の西部及び小鴨村大字生田の産土神たり。
明治元年九月生田神社と改称、その後村社に列す。
大正二年九月
(1)谷田神社 倉吉町大字余戸谷字四十二丸
祭神 須佐之男命、宇迦之魂命
を合併す。
※ 私見
倉吉市生田にあった久米八幡を明治時代こちらに遷した。
伯耆国風土記残欠に、「伯耆とはもと母来といい、稲田姫が母来ませと叫んだからだ」と記されている。三朝町の坂本神社には稲田姫の両親が祭られ、三朝町大瀬には大瀬ほうきという地名(稲田姫はここで母来ませと叫んだ)があり、下っていくと大原神社(もと波波伎神社)がある。八岐大蛇伝説は三朝町山田(ヤマタ)が舞台であった。その後、素戔嗚と稲田姫は伊邪那岐命の後を追って、鳥取県八頭郡に行っていた。その後、素戔嗚は須勢理姫(宇迦之御魂命)と共に根国(倉吉市中心市街地)の清熊稲荷神社に戻った。明治維新の頃まで、清熊稲荷神社に大国主の根国での冒険の伝承が残っていたものと思われる。この丘陵全体の住所が倉吉町大字余戸谷字四十二丸であった。清熊稲荷神社はその中心部にある。
素戔嗚と須勢理姫(宇迦之御魂命)が倉吉市の清熊稲荷神社にいたのを大日本史で徳川光圀は指摘していたはずである。藤原氏は明治時代になって八幡神社を造り根国での冒険の伝承を消した。
また、饒速日一行の大勢は関金町の日吉神社より船で哮峰(八幡神社の峰)に降臨した。天忍穂耳・猿田彦・饒速日・天香語山・豊受姫ほか大勢はこの哮峰(八幡神社の峰)で素戔嗚に会った。素戔嗚は饒速日に十種の神宝を授け、天忍穂耳・猿田彦に大国主に協力してくれるように頼んだ。豊受姫は天香語山の子育てをしていた。4伴緒は長瀬高浜に行った。
6 東郷神社(湯梨浜町小鹿谷の小鹿谷桂男山八幡宮)
鎮座地 東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾
現在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町小鹿谷768
祭神 國常立命、伊邪那岐命、素戔嗚命、速玉男命、事解男命、底筒男命、中筒男命、上筒男命、市杵島比賣命、大穴牟遅命、大山咋命、猿田彦命、誉田別命、足仲彦命、気長足姫命、大山祇命
由緒
(1) 引地神社 東伯郡東郷村大字引地字宮ノ峯
祭神 市杵島比賣命
(2) 森山神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字森山
祭神 素戔嗚
(3) 松上神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字杉ノ子
祭神 国常立命
(4) 秀尾神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾
祭神 誉田別命・足仲彦命・気長足姫命
(5) 新宮神社 東伯郡東郷村大字川上字鍛冶屋谷
祭神 速玉男命・事解男命・伊邪那岐命・大山祇命
(6) 麻畑神社 東伯郡東郷村大字川上字奥山ノ神
祭神 素戔嗚命・大山祇
(7) 山邊神社 東伯郡東郷村大字国信字宮ノ前
祭神 伊邪那岐命
(8) 別所神社 東伯郡東郷村大字別所字宮坂
祭神 上筒男命・中筒男命・底筒男命
(9) 高辻神社 東伯郡東郷村大字高辻字屋敷
祭神 大山咋命・大山祇命・大穴牟遅命
(10) 松尾神社 東伯郡東郷村大字方面字屋敷
祭神 大山咋命
(11) 久見神社 東伯郡東郷村大字久見字梵天谷頭
祭神 猿田彦命
(12) 谷口神社 東伯郡東郷村大字中興寺字屋敷
祭神 素戔嗚
(13) 和田神社 東伯郡東郷村大字田畑字和田
祭神 素戔嗚
を大正2年4月合併す。
※ 私見
鳥取県東伯郡の旧東郷町では大正時代に実に12もの神社を東郷神社に合併している。4の秀尾神社は小鹿谷秀尾にあり東郷神社と同じである。秀尾神社の祭神は誉田別命・足仲彦命・気長足姫命であるので八幡神社であった。小鹿谷桂男山八幡宮(伯耆民談記)と呼ばれていた。秀尾の八幡神社に12の神社を合併して名前は東郷神社とした。なぜ東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾に八幡神社を造ったのか。近くに隠さなければならない重要なものがあったものと思われる。その中には、本田善光が仏像を引き上げた引地の引地神社や垂仁天皇の皇居があったと思われる川上集落の2神社も含まれている。12の神社にはそれぞれ立派な由緒があったはずである。12神社が合併され、消されてているのだから東郷池周辺のヒントが見つからないわけである。川上字鍛冶屋谷で刀を作ったものと思われる。南の波関峠から片柴集落(忍坂邑)に至る坂が忍坂に比定できる(当時川上宮から坂を越えて石上神宮に至るにはこのルートしかない)ので、東郷地域は重要な地域である。東郷神社のある小鹿谷にも天皇の皇居があったはずである。他にも調べれば史実がもっと現れるものと思われる。
現在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町小鹿谷768
祭神 國常立命、伊邪那岐命、素戔嗚命、速玉男命、事解男命、底筒男命、中筒男命、上筒男命、市杵島比賣命、大穴牟遅命、大山咋命、猿田彦命、誉田別命、足仲彦命、気長足姫命、大山祇命
由緒
(1) 引地神社 東伯郡東郷村大字引地字宮ノ峯
祭神 市杵島比賣命
(2) 森山神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字森山
祭神 素戔嗚
(3) 松上神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字杉ノ子
祭神 国常立命
(4) 秀尾神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾
祭神 誉田別命・足仲彦命・気長足姫命
(5) 新宮神社 東伯郡東郷村大字川上字鍛冶屋谷
祭神 速玉男命・事解男命・伊邪那岐命・大山祇命
(6) 麻畑神社 東伯郡東郷村大字川上字奥山ノ神
祭神 素戔嗚命・大山祇
(7) 山邊神社 東伯郡東郷村大字国信字宮ノ前
祭神 伊邪那岐命
(8) 別所神社 東伯郡東郷村大字別所字宮坂
祭神 上筒男命・中筒男命・底筒男命
(9) 高辻神社 東伯郡東郷村大字高辻字屋敷
祭神 大山咋命・大山祇命・大穴牟遅命
(10) 松尾神社 東伯郡東郷村大字方面字屋敷
祭神 大山咋命
(11) 久見神社 東伯郡東郷村大字久見字梵天谷頭
祭神 猿田彦命
(12) 谷口神社 東伯郡東郷村大字中興寺字屋敷
祭神 素戔嗚
(13) 和田神社 東伯郡東郷村大字田畑字和田
祭神 素戔嗚
を大正2年4月合併す。
※ 私見
鳥取県東伯郡の旧東郷町では大正時代に実に12もの神社を東郷神社に合併している。4の秀尾神社は小鹿谷秀尾にあり東郷神社と同じである。秀尾神社の祭神は誉田別命・足仲彦命・気長足姫命であるので八幡神社であった。小鹿谷桂男山八幡宮(伯耆民談記)と呼ばれていた。秀尾の八幡神社に12の神社を合併して名前は東郷神社とした。なぜ東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾に八幡神社を造ったのか。近くに隠さなければならない重要なものがあったものと思われる。その中には、本田善光が仏像を引き上げた引地の引地神社や垂仁天皇の皇居があったと思われる川上集落の2神社も含まれている。12の神社にはそれぞれ立派な由緒があったはずである。12神社が合併され、消されてているのだから東郷池周辺のヒントが見つからないわけである。川上字鍛冶屋谷で刀を作ったものと思われる。南の波関峠から片柴集落(忍坂邑)に至る坂が忍坂に比定できる(当時川上宮から坂を越えて石上神宮に至るにはこのルートしかない)ので、東郷地域は重要な地域である。東郷神社のある小鹿谷にも天皇の皇居があったはずである。他にも調べれば史実がもっと現れるものと思われる。