1 宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極は倭国の実在した天皇ではない。この間、蘇我氏は四人とも大臣とされているが、三人は天皇であった。535年から110年の間、蘇我氏三代が天皇であった。原古事記には正式な天皇の名前として書いてあったはずである。藤原氏は倭国の乗っ取りを完全なものにするため、蘇我氏が天皇であった期間に百済の正当性を書くことにした。日本書紀は完成後民間に公開をしていなかったし、見せる者も天皇・藤原氏等に限られていた。公開を始めたのは過去を知る者が居なくなってからである。
蘇我稲目天皇 在位535年~572年(宣化・欽明)
蘇我馬子天皇 在位572年~626年(敏達・用明・崇峻・推古)
蘇我入鹿天皇 在位626年~645年(舒明・皇極)
聖徳太子は蘇我入鹿天皇であった。
2 蘇我稲目は天皇であった。
日本書紀・欽明・伊企儺の妻大葉子において「狭手彦は、鎧二領・金飾の大刀二口・銅鏤鐘三口・五色の旗二竿・美女の媛と従女吾田子を蘇我稲目大臣に送った。大臣は二人の女を召し入れて、妻として軽の曲殿に住まわせた。」とある。
3 蘇我馬子は天皇であった。
日本書紀・崇峻天皇・穴穂部皇子の死において「蘇我馬子らは『お前たちは兵備を整えて急行し、穴穂部皇子と宅部皇子を殺せ』と命じた」。また「蘇我馬子大臣は百済の使人に語って『この尼達をつれてお前の国に渡り、受戒の法をならわせて欲しい。終わったならば還らせるように』といった。」とある。日本書紀・崇峻天皇・物部守屋敗北において「蘇我馬子大臣は請願の通りに飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺)を建てた。」。日本書紀・推古天皇・太子と飢人において「八月、蘇我馬子大臣は病気になった。大臣の病気平癒を祈るために男女一千人を出家させた。」とある。
4 蘇我入鹿は天皇であった。
日本書紀・皇極・秦河勝と常世の神・3年冬10月において、「蘇我大臣蝦夷と子の入鹿は、家を甘橿岡に並べて建てた。大臣の家を上の宮門と呼び、入鹿の家を谷の宮門といった。男女の子たちを王子といった。家の外にとりでの柵を囲い、門の脇に武器庫を設けた。家ごとに、用水桶を配置し、火災に備えた。力のある者に武器をもたせ常に家を守らせた。大臣は桙削寺を建てさせた。家を畝傍山の東に建て、池を掘ってとりでとし、武器庫をたてて矢を貯えた。常に五十人の兵士を率いて護衛させ家を出入りした。諸氏の人達がその門に侍った。漢直らは専ら両家の宮門を警備した。」とある。
5 私見
日本書紀・欽明天皇の旧辞などは朝鮮半島情勢に多くのページが割かれている。「百済」の文字は91回、「新羅」は98回、「高麗(高句麗)」は44回、「任那」は111回、「日本」は61回使われている。藤原氏はこれを挿入したかったのである。亡命百済人(不比等たち)はここで一気に新羅の悪口を書き鬱憤を晴らした。天智が669年に考案した「日本」という国号はまだ無かったのに遡ってしつこいほど使っている。ここで「日本」という国号を印象づけようとした。
言いたいことは、「百済は良い国で新羅は悪い国である」ということを多くのページを割いて書いている。天皇家の血筋の正統性を書き残すのに、朝鮮半島情勢は必要ない。これは原古事記には書いてなかったものを不比等たち百済出身者が書き加えたものである。
蘇我馬子天皇は島大臣と呼ばれていた。天皇であり皇居は鳥取県北栄町島にあった。鳥取県北栄町は蜘ヶ家山もあり、葛城地方に比定される。蘇我入鹿は等由良(とゆら)大臣と呼ばれていた。鳥取県北栄町には由良(ゆら)もある。