私の“涙くんさよなら”を告げた時、そしてNYへ・・・
2020/6/21記
その時は私の嫁さんが、あることを境に別居しもちろん彼女が持ち込んだ家具も引き上げたので、私自身の心も一緒に住んでいた私たちの公団の部屋も、空虚なものとなっていました。
私達二人の間の問題でこじれたという訳でなく、お互い顔を二度と見たくないという離れ方ではなかったので、とりわけ私は離れ離れになって数年は“彼女に思いを引きづっていました。”
当時(80年央)はまだ携帯電話などない時代でしたから、仕事から帰宅し、もしや彼女から何か理由をつけて電話をかけてこなかったか?留守番電話が点滅していないか?気になる自分でした。 そんな淋しさを癒すために、その頃日本でも聞かれ始めた“ジョージ・ウインストン”のレコードをよく聞いていました。
ちょうどデザイナーズ時代と80年末バブルのはざまの時でしたので、人の好みも多様化しオシャレにも皆が関心を持ち、遊び方にも変化が見られるそんな頃で、アコースティック・ギターやピアノソロは私の心には響きました。
(寂しさ逃避症候群か?・・・)
ある雑誌に女性独身キャリアにも、誰も彼女を待つ人がいない部屋に帰るより、むしろ残業で淋しさを紛らわしたり、さみしさからお酒依存症になったりする人も少なくないと。
私も当時、美容室を経営していましたが、休みの日には部屋でじっとはしていられませんでした、彼女と別居した寂しさと、それに負けないために敢えてアクティブに外出や劇場などのエンタメへ行ったり。
こんな私でも当時、エンターテイメントの検索と言えば雑誌“ぴあ”でした。 休みに何もしない、何処もいかないは一種の恐怖でした。 寂しさからの逃避、ニュートレンドの発見?でミュージカル、能、渋谷の小劇場、マイナーな映画館などで観劇。 今から当時を振り返っても、面白い、新しい事の発見というより、それでも満たされぬ自分の心が“さまよう虚しい”一時代が思い出されます。
(野方のダンスサークルで癒される・・・)
そこで雑誌で探し出した野方のダンスサークルには一時期お世話になりました。 私は北区の王子から土曜の夜に都営バスに乗って週一通っていましたが、環七をバスは走るのですが車窓からの街並みは夕闇で、走れども走れども野方は遠い距離でした。 それにも我慢が出来るほど、私は”人恋しかった“のかもしれません。
ダンスの練習やその後のフリーダンスはそこそこでしたが、サークルがひけた後、決まっって道すがらの馴染みの洋食屋さんで打ち上げが恒例でした。 新参者の私にもサークル仲間はやさしく接してくれました。 あたかも新興宗教サークルに悩みをもって飛び入り参加した人が同胞の無条件のやさしさに、メロメロになって“溶けてしまう”に似ていました。
野方が例え遠くても、通うのが遠くても、仲間との交流は意味がありました。
(原宿・青山に住んでみたいなど、ミーハーな一時期もありました・・・)
仕事が美容師であったことから、原宿青山界隈をぶらついたり、美容関係主催の有名店見学にも参加しました。 自分の美容室と比べ青山・原宿付近の美容室は街並みに、溶け込み羨ましい限りです。 特に表参道駅から最初の交差点2階の茶色いタイルづくりのサロンは造りもがっしり、働くスタッフも落ち着いた身のこなしで時を刻んでいました。
またピーカーブーという地下のサロンで客としていった際は、私の頭頂部左サイドは若干癖がありカットしずらいのですが、担当美容師さんはそれを見つけ、時間がかかっても丁寧にカットしていました。
もしかすると80年央が、日本の美容界の技術的にも、接客も一番良き時代だったかもしれません。 それなりの美容師が自分の高い技術でお客様を喜ばすことを楽しめた時期だったように思えます。
ですから私自身も、何年か原宿・青山界隈に住んで見たいとさえ思い、アパートの内覧をした事もありました。 “そしたら(もしこの街に住めたら?)別居中の彼女を心の中で追わなくなるかな?・・・”とも思ったりした、あの一時期。
(1987年冬、初めてのロンドン、パリ、NY美容ツアー・・・)
そんな中、私に生まれて初めての海外旅行の機会がおとづれました。 ここまで従業員によるストライキを2度経験しましたが、この当時はスタッフの人間関係が安定し3都市を巡る美容ツアーに参加しました。 この体験は新鮮でした、今まで人の話や写真でしか知ることのできなかった世界を見るのですから。
不思議と3都市の中でNYが一番ひかれました。
怖い街だと、説明されなくても誰もがわかります(80年代は今よりもっと治安が悪かった)、それでも何故か?ニューヨークは人を引き付けます。
帰国後、1,2,3ヵ月と月日が経つにつれて海外への思いが強くなり、折から私の美容室も成長が止まって来ていました。 何故か私の中の羅針盤が動き始めました。
そして、この先大変な時代になる予感を感じ始めていました。
これからの時代について行けなければ、まず自分自身ですら生き残れるか?そんな予感。
(自分が変わらなければ、成功のシナリオは描けなくとも、留まっては・・・)
時が経つとともに、少ない情報ながらアメリカ・ニューヨーク行きを模索し始めました。
そしてもう一つの懸案だった、別居中の彼女に美容室を整理し、アメリカ行きを決めた事を報告すると、あっさりとそれぞれの道を歩くと決まりました。
彼女も、もしかしたら出戻るという選択肢は無くなったと腹を決めたようでした、前からニューヨークへ行くのは怖いとも言ってました。
世界を見て、私にしても”彼女のいない寂しさ“にくれている場合ではないと意識しました。
これからは自分に得意の売りが無ければ、この世の中活かしてくれないだろうと。
確かに今まで確かに“彼女の後姿”を心の中で追っていた数年、しかし世界の現状をみて、籠城して自分の場所にこれ以上、立てこもることはできないと。
自分にはやらなければいけない事が、見つかりました。
少なくとも、完璧でなくとも英語を勉強し、ニューヨークの街を歩ける人間になろうと。
(PS) 1988年1月~1992年3月ニューヨーク留学、市立2年制大学入学卒業。
1992年3月帰国、同5月正職に就く。
2020/6/21記
その時は私の嫁さんが、あることを境に別居しもちろん彼女が持ち込んだ家具も引き上げたので、私自身の心も一緒に住んでいた私たちの公団の部屋も、空虚なものとなっていました。
私達二人の間の問題でこじれたという訳でなく、お互い顔を二度と見たくないという離れ方ではなかったので、とりわけ私は離れ離れになって数年は“彼女に思いを引きづっていました。”
当時(80年央)はまだ携帯電話などない時代でしたから、仕事から帰宅し、もしや彼女から何か理由をつけて電話をかけてこなかったか?留守番電話が点滅していないか?気になる自分でした。 そんな淋しさを癒すために、その頃日本でも聞かれ始めた“ジョージ・ウインストン”のレコードをよく聞いていました。
ちょうどデザイナーズ時代と80年末バブルのはざまの時でしたので、人の好みも多様化しオシャレにも皆が関心を持ち、遊び方にも変化が見られるそんな頃で、アコースティック・ギターやピアノソロは私の心には響きました。
(寂しさ逃避症候群か?・・・)
ある雑誌に女性独身キャリアにも、誰も彼女を待つ人がいない部屋に帰るより、むしろ残業で淋しさを紛らわしたり、さみしさからお酒依存症になったりする人も少なくないと。
私も当時、美容室を経営していましたが、休みの日には部屋でじっとはしていられませんでした、彼女と別居した寂しさと、それに負けないために敢えてアクティブに外出や劇場などのエンタメへ行ったり。
こんな私でも当時、エンターテイメントの検索と言えば雑誌“ぴあ”でした。 休みに何もしない、何処もいかないは一種の恐怖でした。 寂しさからの逃避、ニュートレンドの発見?でミュージカル、能、渋谷の小劇場、マイナーな映画館などで観劇。 今から当時を振り返っても、面白い、新しい事の発見というより、それでも満たされぬ自分の心が“さまよう虚しい”一時代が思い出されます。
(野方のダンスサークルで癒される・・・)
そこで雑誌で探し出した野方のダンスサークルには一時期お世話になりました。 私は北区の王子から土曜の夜に都営バスに乗って週一通っていましたが、環七をバスは走るのですが車窓からの街並みは夕闇で、走れども走れども野方は遠い距離でした。 それにも我慢が出来るほど、私は”人恋しかった“のかもしれません。
ダンスの練習やその後のフリーダンスはそこそこでしたが、サークルがひけた後、決まっって道すがらの馴染みの洋食屋さんで打ち上げが恒例でした。 新参者の私にもサークル仲間はやさしく接してくれました。 あたかも新興宗教サークルに悩みをもって飛び入り参加した人が同胞の無条件のやさしさに、メロメロになって“溶けてしまう”に似ていました。
野方が例え遠くても、通うのが遠くても、仲間との交流は意味がありました。
(原宿・青山に住んでみたいなど、ミーハーな一時期もありました・・・)
仕事が美容師であったことから、原宿青山界隈をぶらついたり、美容関係主催の有名店見学にも参加しました。 自分の美容室と比べ青山・原宿付近の美容室は街並みに、溶け込み羨ましい限りです。 特に表参道駅から最初の交差点2階の茶色いタイルづくりのサロンは造りもがっしり、働くスタッフも落ち着いた身のこなしで時を刻んでいました。
またピーカーブーという地下のサロンで客としていった際は、私の頭頂部左サイドは若干癖がありカットしずらいのですが、担当美容師さんはそれを見つけ、時間がかかっても丁寧にカットしていました。
もしかすると80年央が、日本の美容界の技術的にも、接客も一番良き時代だったかもしれません。 それなりの美容師が自分の高い技術でお客様を喜ばすことを楽しめた時期だったように思えます。
ですから私自身も、何年か原宿・青山界隈に住んで見たいとさえ思い、アパートの内覧をした事もありました。 “そしたら(もしこの街に住めたら?)別居中の彼女を心の中で追わなくなるかな?・・・”とも思ったりした、あの一時期。
(1987年冬、初めてのロンドン、パリ、NY美容ツアー・・・)
そんな中、私に生まれて初めての海外旅行の機会がおとづれました。 ここまで従業員によるストライキを2度経験しましたが、この当時はスタッフの人間関係が安定し3都市を巡る美容ツアーに参加しました。 この体験は新鮮でした、今まで人の話や写真でしか知ることのできなかった世界を見るのですから。
不思議と3都市の中でNYが一番ひかれました。
怖い街だと、説明されなくても誰もがわかります(80年代は今よりもっと治安が悪かった)、それでも何故か?ニューヨークは人を引き付けます。
帰国後、1,2,3ヵ月と月日が経つにつれて海外への思いが強くなり、折から私の美容室も成長が止まって来ていました。 何故か私の中の羅針盤が動き始めました。
そして、この先大変な時代になる予感を感じ始めていました。
これからの時代について行けなければ、まず自分自身ですら生き残れるか?そんな予感。
(自分が変わらなければ、成功のシナリオは描けなくとも、留まっては・・・)
時が経つとともに、少ない情報ながらアメリカ・ニューヨーク行きを模索し始めました。
そしてもう一つの懸案だった、別居中の彼女に美容室を整理し、アメリカ行きを決めた事を報告すると、あっさりとそれぞれの道を歩くと決まりました。
彼女も、もしかしたら出戻るという選択肢は無くなったと腹を決めたようでした、前からニューヨークへ行くのは怖いとも言ってました。
世界を見て、私にしても”彼女のいない寂しさ“にくれている場合ではないと意識しました。
これからは自分に得意の売りが無ければ、この世の中活かしてくれないだろうと。
確かに今まで確かに“彼女の後姿”を心の中で追っていた数年、しかし世界の現状をみて、籠城して自分の場所にこれ以上、立てこもることはできないと。
自分にはやらなければいけない事が、見つかりました。
少なくとも、完璧でなくとも英語を勉強し、ニューヨークの街を歩ける人間になろうと。
(PS) 1988年1月~1992年3月ニューヨーク留学、市立2年制大学入学卒業。
1992年3月帰国、同5月正職に就く。