”俺の靴がなくなった!・・NYの学校で・・“
2022/2/22 記
今でもいつも思う、どうせ留学するなら、もっといい学校を卒業したかったなんて・・・。
最初から英語学習という漠然とした分けのわからない、例えたら巨大なプール(留学)へ飛び込みたい。 スタートがその程度の欲望だから、将来NYのどこの大学へ、メジャー(専門学科は)、地域も含め理想的なエンディング(終着点)なんて物にできるわけが無いのですが。
(私自身のNYの原風景・・・街はずれを走る古い高架地下鉄と風に舞うゴミ屑、無機質な赤みを帯びた建物群)
結果、卒業したのは二年生のカレッジで、マンハッタン(NYの中心である半島部)から少し離れた7(地下鉄7号線)TRAINに乗り20分の場所に位置している。 その先の沿線には野球の“シェアスタジアム”や全米オープン会場のテニス場へ続く路線。 極端に犯罪の多いブルックリンよりはましだがマンハッタンの中心部とはガラッと違う。
しかし”就職氷河時代“の幕開けの92年に日本に帰り正社員の職に就き、人並みの給料をもらえる運をもらった。 NYで威張れないながらも、カレッジを卒業し英語も少しは使えるという事で”ご飯を食べつないでこれた“のは感謝だ。
2022年の今というか、ここ数十年、”普通でいられること自体、難しい“のだから。
何かの力を借りてアメリカの学校を卒業できる人は、うらやましいところだが・・・。 留学時のある日、向かいの信号から私の方へ、ベンダー(屋台の車)を押すラテン系の親子を見たとき、小さな子供は天職のように目を輝かせていた光景は忘れられない。
”俺は、この子のようにプライドを持って、街角でホットドックなりを売ることができるだろうか?“ あの光景が、戒めとして私の心に焼き付いている。
(そんな地下鉄7号線沿線にあった、私のカレッジ・・・)
もちろん日本人の誰もが口にするマンハッタンの大学ほど校舎も敷地や生徒数は多くはないが、授業を履修する際のコース選択(ADMISSION)の際、未卒業の潜在生徒が9,000人と聞きビックリした。 私が自慢できない大学でさえ、中途退学や卒業していない人が山ほどいる。
カレッジは日本の大学でも、生徒数の増加で周辺の土地や建物を次々と収容し規模を大きくしてきたのと同じく、科目ごとの合間の10分間に建物を移動するようになっていました。
移動も結構、忙しい。
私は入学し、暫く月日が経つまで、この大学は高校とある建物を共用していることを知りませんでした。 そう言えば、外国人の私の目で見ても、彼らは”大学生には見えないな?“といった若者も散見できる。
(カフェテリアで一日のコーヒーブレイク・・・)
ある日、私はその日の授業を終え、学内にある何か所かあるカフェテリアの別館で、一人で休憩です。
午後3時前後で“ヤレヤレ”といった状態、売店でコーヒーと食べ物を手にしテーブル席に陣取りました。 一日の緊張をほどくリラックス・タイムです、朝7時前に家を出て、この時間ですから、足がパンパンで左足のスニーカーを脱ぎ捨て、足をベンチシートに曲げ乗せて日本人の所作です、”ヤレヨット“と一息。
食べたり、本を見たり何分か経ちました。
“(私)さて、そろそろ引き上げるか!”
(ところが、足で床をまさぐっても、あるはずの靴の感触がありません)
“(私)そんな訳ないだろう、自分の椅子の真下に靴を脱ぎ捨てたんだから?”
(仕方なく、椅子から席を外し、潜るように椅子下に眼をやると・・・)
“(私)!!!ムッ――― あるはずの靴がない!”
(やっちまったな! 異国の地で、油断してなんで靴を脱いだ(反省)、これ戦場だったら殺されているな!)
”(私)俺どうするんだ、片足裸足でマンハッタンの116丁目まで帰らなければいけないのか! NYのガラス屑や廃材のいばらの道を裸足で・・・、スリッパでもいいからどこかに、落ちてないかな? 買いたくてもスニーカーを買うお金を持ってい無し!“
(まさに、パニック)
深呼吸して、自分に落ち着けと・・・
そして事の起こりを私なりに整理、靴を脱いだのは確かで、しかも椅子の真下、10分も経たない短い時間、掃除の係の人も来なかった。
(ラテン系のヒスパニック人にとって、冗談や他人を小馬鹿にできて“一人前”・・・)
授業中でも映画の中でも彼らにとって、他人(ひと)を“いじくり回せて”、“なんぼ(おいくら)”の文化。 調子にのり何時までもやめないと“COME ON(いいかげんにしろ!)”と先生から、お目玉を食らうのがオチ。
”(私は)やられたな! スパニッシュ、これしかないだろう・・・“
私はテープル席を立ち、カフェテリアをゆっくり見渡しました。 それらしき雰囲気はないか?一瞥。 他のテーブル席の生徒は、私のことなど知るよしもなく、食事したり会話したり、私をチラ見する者は見当たらない。
“(私)困った! しかし、同じ校舎を使う学生として、俺を裸足で一時間かけて地下鉄に乗り家に帰す迄の残酷なことはしないだろう?”
私はカフェテリア内にある、ゴミ箱を捜索することに、丸い大きなガベッジを覗く7分目までゴミが、ただ上側に私のスニーカーは見えない(無い)。 その間、ゴミ箱の内側を見る一方、それとなくカフェテリア内をチラ見、犯人らしき人間がいないか?と。
外界は変化なし、念のためにゴミの上側を持ち上げスニーカーが隠されていないか?
“もしやと思ったが、やはり無い”
その間も、こちら側が焦っている素振りを押し殺し、それらしき者がいないか?ゆっくりと周りを見回す。
やはり!奥の席で、クスクス笑う数人が眼に入る。
“あいつらか!”しかし、確証が無いし、喧嘩になったら、相手は数人、一人はがっしりした体型のボス格の人間がいる事が分かる。
怪しいが、声をかける状況でない、仕方ないとりあえず、元のテーブル席に戻る。
“(私)どうしたら、良いんだ?”頭の中は、思案、思案・・・。
すると例のグループが動き出した、ボスを中心にサッカーのドリブル・パスならぬテーブル席の通路を行ったり来たり、ついには私の席の横を・・・。
蹴り飛ばしているのは、もちろん私のスニーカーだ。
かれらは私近くに放置し、カフェテリアから姿を消しました。
いたずらされて、馬鹿にされたのに、何故かスニーカーを戻され”(心は)ありがとう“
裸足でNYのガラス屑とガレキの破片のドウロを歩く苦行から解放され、うれしかった。
そんな、たわいもない思い出です。
(また、別の投稿で)
2022/2/22 記
今でもいつも思う、どうせ留学するなら、もっといい学校を卒業したかったなんて・・・。
最初から英語学習という漠然とした分けのわからない、例えたら巨大なプール(留学)へ飛び込みたい。 スタートがその程度の欲望だから、将来NYのどこの大学へ、メジャー(専門学科は)、地域も含め理想的なエンディング(終着点)なんて物にできるわけが無いのですが。
(私自身のNYの原風景・・・街はずれを走る古い高架地下鉄と風に舞うゴミ屑、無機質な赤みを帯びた建物群)
結果、卒業したのは二年生のカレッジで、マンハッタン(NYの中心である半島部)から少し離れた7(地下鉄7号線)TRAINに乗り20分の場所に位置している。 その先の沿線には野球の“シェアスタジアム”や全米オープン会場のテニス場へ続く路線。 極端に犯罪の多いブルックリンよりはましだがマンハッタンの中心部とはガラッと違う。
しかし”就職氷河時代“の幕開けの92年に日本に帰り正社員の職に就き、人並みの給料をもらえる運をもらった。 NYで威張れないながらも、カレッジを卒業し英語も少しは使えるという事で”ご飯を食べつないでこれた“のは感謝だ。
2022年の今というか、ここ数十年、”普通でいられること自体、難しい“のだから。
何かの力を借りてアメリカの学校を卒業できる人は、うらやましいところだが・・・。 留学時のある日、向かいの信号から私の方へ、ベンダー(屋台の車)を押すラテン系の親子を見たとき、小さな子供は天職のように目を輝かせていた光景は忘れられない。
”俺は、この子のようにプライドを持って、街角でホットドックなりを売ることができるだろうか?“ あの光景が、戒めとして私の心に焼き付いている。
(そんな地下鉄7号線沿線にあった、私のカレッジ・・・)
もちろん日本人の誰もが口にするマンハッタンの大学ほど校舎も敷地や生徒数は多くはないが、授業を履修する際のコース選択(ADMISSION)の際、未卒業の潜在生徒が9,000人と聞きビックリした。 私が自慢できない大学でさえ、中途退学や卒業していない人が山ほどいる。
カレッジは日本の大学でも、生徒数の増加で周辺の土地や建物を次々と収容し規模を大きくしてきたのと同じく、科目ごとの合間の10分間に建物を移動するようになっていました。
移動も結構、忙しい。
私は入学し、暫く月日が経つまで、この大学は高校とある建物を共用していることを知りませんでした。 そう言えば、外国人の私の目で見ても、彼らは”大学生には見えないな?“といった若者も散見できる。
(カフェテリアで一日のコーヒーブレイク・・・)
ある日、私はその日の授業を終え、学内にある何か所かあるカフェテリアの別館で、一人で休憩です。
午後3時前後で“ヤレヤレ”といった状態、売店でコーヒーと食べ物を手にしテーブル席に陣取りました。 一日の緊張をほどくリラックス・タイムです、朝7時前に家を出て、この時間ですから、足がパンパンで左足のスニーカーを脱ぎ捨て、足をベンチシートに曲げ乗せて日本人の所作です、”ヤレヨット“と一息。
食べたり、本を見たり何分か経ちました。
“(私)さて、そろそろ引き上げるか!”
(ところが、足で床をまさぐっても、あるはずの靴の感触がありません)
“(私)そんな訳ないだろう、自分の椅子の真下に靴を脱ぎ捨てたんだから?”
(仕方なく、椅子から席を外し、潜るように椅子下に眼をやると・・・)
“(私)!!!ムッ――― あるはずの靴がない!”
(やっちまったな! 異国の地で、油断してなんで靴を脱いだ(反省)、これ戦場だったら殺されているな!)
”(私)俺どうするんだ、片足裸足でマンハッタンの116丁目まで帰らなければいけないのか! NYのガラス屑や廃材のいばらの道を裸足で・・・、スリッパでもいいからどこかに、落ちてないかな? 買いたくてもスニーカーを買うお金を持ってい無し!“
(まさに、パニック)
深呼吸して、自分に落ち着けと・・・
そして事の起こりを私なりに整理、靴を脱いだのは確かで、しかも椅子の真下、10分も経たない短い時間、掃除の係の人も来なかった。
(ラテン系のヒスパニック人にとって、冗談や他人を小馬鹿にできて“一人前”・・・)
授業中でも映画の中でも彼らにとって、他人(ひと)を“いじくり回せて”、“なんぼ(おいくら)”の文化。 調子にのり何時までもやめないと“COME ON(いいかげんにしろ!)”と先生から、お目玉を食らうのがオチ。
”(私は)やられたな! スパニッシュ、これしかないだろう・・・“
私はテープル席を立ち、カフェテリアをゆっくり見渡しました。 それらしき雰囲気はないか?一瞥。 他のテーブル席の生徒は、私のことなど知るよしもなく、食事したり会話したり、私をチラ見する者は見当たらない。
“(私)困った! しかし、同じ校舎を使う学生として、俺を裸足で一時間かけて地下鉄に乗り家に帰す迄の残酷なことはしないだろう?”
私はカフェテリア内にある、ゴミ箱を捜索することに、丸い大きなガベッジを覗く7分目までゴミが、ただ上側に私のスニーカーは見えない(無い)。 その間、ゴミ箱の内側を見る一方、それとなくカフェテリア内をチラ見、犯人らしき人間がいないか?と。
外界は変化なし、念のためにゴミの上側を持ち上げスニーカーが隠されていないか?
“もしやと思ったが、やはり無い”
その間も、こちら側が焦っている素振りを押し殺し、それらしき者がいないか?ゆっくりと周りを見回す。
やはり!奥の席で、クスクス笑う数人が眼に入る。
“あいつらか!”しかし、確証が無いし、喧嘩になったら、相手は数人、一人はがっしりした体型のボス格の人間がいる事が分かる。
怪しいが、声をかける状況でない、仕方ないとりあえず、元のテーブル席に戻る。
“(私)どうしたら、良いんだ?”頭の中は、思案、思案・・・。
すると例のグループが動き出した、ボスを中心にサッカーのドリブル・パスならぬテーブル席の通路を行ったり来たり、ついには私の席の横を・・・。
蹴り飛ばしているのは、もちろん私のスニーカーだ。
かれらは私近くに放置し、カフェテリアから姿を消しました。
いたずらされて、馬鹿にされたのに、何故かスニーカーを戻され”(心は)ありがとう“
裸足でNYのガラス屑とガレキの破片のドウロを歩く苦行から解放され、うれしかった。
そんな、たわいもない思い出です。
(また、別の投稿で)