真の動物福祉牧場を目指して

二十歳の冒険 (チベット編)

これは前にも少し話しましたが、改めて詳しく語りたいと思います。

前に、チベットの非解放地区では両替が出来なくて、お金が尽きてネットカフェにも泊まれず、夏なのに夜は零下近くまで気温が下がる中で野宿したコトを語りました。

それは東チベットの昌都(チャムド)でのコトで、そこからラサ行きのトラックになんとか潜り込め、一週間の旅を尼僧達と共にしたコトも語りました。

実はこの昌都に辿り着くまでが一番大変で、検問所を幾つも踏破しなければなりませんでした。
チベットの中心部まで入れたらもう検問所は無く自由に旅が出来るので、今回はそのチベット潜入の道のりを紹介しようと思います。

まずは、このチベット非解放地区を踏破するチャレンジを、私に焚き付けた人物から紹介します。
それは雲南省の省都、昆明(クンミン)で留学生をしていた大阪のオッチャンで、彼は定年後に中国へ渡った人でした。

20年前は大都市で外国人が泊まれるのは高級ホテルに限られ、二十歳の私がそんな所に泊まれるハズはなく(1日500円の予算でした)、野宿してたら公安に捕まってそのオッチャンの所に連れて行って貰えました。(昔の昆明は人情味ある善い所でした)

そこでオッチャンにチベットへ行くよう勧められ、彼は年なのでもうそんな冒険は出来ず、その夢を私に託した感がありました。

雲南省には当時、ヒッピー達の溜まり場が大理(ダーリー)と麗江(リージャン)に在り、そこでチベット潜入の情報を仕入れてから行くべきだったのですが、私はそこをすっ飛ばしていきなりチベット行きのバスに乗りました。

そのバスには欧米人も乗っていましたが、彼等は最初の検問所で追い返され、私と日本人のカップル(30代)はそこでは見逃されてチベットに入れました。(昔はけっこう緩かった)

しかし夜中に着いた最初の町で、カップルと一緒に宿に入ってパスポートを示したら、さっそく公安に捕まってしまいました。
ここでは最初、かなりの額の罰金を要求されたのですが、カップルの女性が泣き落としでゴネてくれたお陰で、1/3位に下げられました。
 
翌朝、戻りのバスに乗せられてカップルはそのまま引き下がりましたが、私はすぐにバスを止めて降り、検問所を迂回して踏破しヒッチハイクで先へ進みました。

しかしこの道のりは、思いっきり辺境で1日に3台くらいしか車が通らず、ほとんど歩きづめのヒッチハイク旅になりました。
夏のチベット高原は、遥か彼方のヒマラヤ山脈までずっと草原が見渡せ、大草原で他に目に映るモノは彼方の羊とヤクの群れだけでした。

こんなに広い空間を独り占め出来たのは、おそらく人生で最初で最後のコトでしょう。
もちろん空も広大で、雲は標高4000mの高原には僅かしか浮かばず、夜空の天の川は一段と近くに見えて、夜通し歩いても淋しさを感じさせませんでした。

歩き始めて二日目の晩は、道路工事をしていた漢民族のキャンプで休め、そこでは昔日本で働いてたオッチャンと仲良くなれました。
漢民族はチベット人とは明らかに仲が悪いので、高原では特別日本人に親しみを感じるみたいでした。

そこでのんびり四川麻雀(字牌が無い)を打ちながら、丸一日は車を待ちました。(食事も奢ってくれた)
日本語が喋れるオッチャンの口利きで良い車に乗れて、その車は検問所を殆どスルーし問題なく昌都まで辿り着くコトが出来ました。

このオッチャンは私の家に手紙まで送って、旅の無事を願ってくれました。
私がその手紙を読んだのは10ヶ月ほど後に帰国してからで、色んなコトがあったので返事もロクに書きませんでしたが、今ここで感謝の意を表したいと思います。





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