それは中国から日本に帰って来た翌日で、向こうは車が右側通行だったので勘が狂ったせいもあり、自転車で車に曳かれてしまい頭を強打して意識を失いました。
意識が戻ったのは2日後で、それも脳内出血があったのでかなり混濁した意識で、ずっと目が回っており何とか立てる様になったのは4日後でした。
流河の容態も同じ位にしようかと思い、額に撃ち込まれた弾丸は頭蓋骨でギリギリ止まりますが、その先端は前頭葉に達して脳内出血を起こしたとします。
タマを取り出す手術は東北軍の軍医が行い、CTで脳内出血の状態を確かめるコトは出来ませんでしたが、軍医は経験豊富だったので命に別状は無いと太鼓判を押し、ルーガは2日後には意識を回復します。
しかしそれまでの間、徳流河に命を預けた100万人の「黒い子等」は大いに荒れ狂い、政府関係の建物が片っ端から襲撃されて首都機能はマヒします。
中南海と紫禁城の占拠運動も戦闘的になり、バリケードが築かれて党との対決姿勢を鮮明にします。
これには大将の愛新覚羅仁を殺された東北軍満洲派の兵士達も加わり、学生達もリーダーのローラが撃たれたので憤慨して立ち上がります。
彼等が憤慨したのは、暗殺計画が党の策略だったコトは誰の目にも明らかなのに、党は一切関与していないとシラを切ったからでした。
この嘘は党の将軍の自白によって暴かれますが、それでも党は自白など拷問によって無理やり言わされたモノだと認めず、党は常に正しいという姿勢をくずしませんでした。
しかしこの頑迷で独善的な慣例主義は、人民の党への求心力を更に低下させ、中国政府の国際的な信用もガタ落ちになります。
これは華僑の革命運動への支持を強めるコトにもつながり、中国革命はいよいよ現実味を帯びてきます。