「罪と嘘」は名作法廷マンガ「弁護士の九頭」の物語タイトルと成っていますが、今回はよりディープなモンテーニュ「随想録」の「嘘について」をフィーチャー致します。
ここで若き日のモンテーニュは「嘘こそが罪の本質である」としており、この確信は晩年に成ってからもユライでおりません。 私も「嘘の無い罪は許されるべきだ」とする彼の意見に賛同し、果たして「正直な罪」なんてモノがあるのか疑問に思います。
モンテーニュは「嘘」を三通りに分けており、一つは相手に善かれと思ってつく方便、もう一つは勘違いから口走る他愛のない嘘、そして最後が罪に問われる相手をダマそうとする嘘です。 彼は前者の二つを無罪としており、とくに「方便」は好きでキチンと書き留めるべきとしており、私も彼に習って「小説の本質」とも言える「方便」を一つ挙げさせて貰います。
ここでは私が22才でユーラシア大陸を横断した時に抱いた最初の小説「Sin」からフィーチャーして、長崎の原爆でヒマラヤ転生女神(トゥルク)が犠牲壇に立ったとする嘘(方便)について述べたいと思います。
この時代日本はアジアの盟主であり、独立国だったチベットは人種・文化的に繋がりの深い日本に留学生を送っており、彼等が多人種共生を成し遂げていた天領の長崎に落ち着いたコトも記憶されています。 しかしそこにトゥルクが派遣されたという記録はなく、彼女が日本人と結婚して子を産んだなんてのは正に「方便」です。
こうした「嘘」は歴史を美化する為につくモノで、人類史の汚点とされる記憶を浄化する目的があるので、きっとチベットの人々も許してくれるかと思います。
話を「草」に振りますと、私はケーサツで過去20年間に渡っていかに「草」と関わって来たかを正直に語り、そこでは一点の悪気も後悔も覚えませんでした。 若い頃は煙で摂取していたので肺に悪いコトをしましたが、25才からは食べるだけにシフトしたので、これならば毒性はコーヒーと変わらず(中毒性も)、むしろ天然のハーブが持つ多様なミネラルが身体に善いと言えます(味も良い)。
しかし「草」が精神に及ぼす作用はコーヒーの比ではなく、それは一口で言えば「五感が研ぎ澄まされる」と言ったところですが、医学的な話は次回にするコトにし、今回は「罪と嘘」に焦点を絞ります。
私がここで言いたいのは、戦後の日本にアメリカから押し付けられた「大麻取り締まり法」には明らかに「嘘」があり、それはアメリカで「反戦平和」を訴える人々の中に多く存在した大麻愛好家(ヒッピー)を弾圧するためにつかれ、その「嘘」がアメリカでは断罪されたのに日本では未だに成されていないというコトです。
これは日本の「反戦平和」の運動とその記憶が、アメリカのそれ程にはアートの次元にまで高められていないからのような気がし、私はこの分野で文学的な記念碑を建てたいと考えております。