四国八十八ケ所霊場 ご開創1200年記念のバスツアー巡拝第15回目高野山お礼参り
2日目大師教会のつぎに 高野山真言宗の総本山金剛峯寺へ詣でました
「 金剛峯寺(こんごうぶじ)」という名称は弘法大師によって
金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)という
お経から名付けられ 高野山ー山を 表す総称だったそうです
金剛峯寺と称しているは建物は 1593年豊臣秀吉が亡き母の菩提のために
建立され当初は青巖寺と称していたそうです
明治期以降 金剛峯寺と改称され 高野山真言宗座主が住まわれるようになり
高野山真言宗の宗務所として全国 海外4,000ヶ寺の総本山となっています
建立以来火災に遭わず 420年経っている 表門
表門には豊臣家 家紋 五七桐紋と 武将の家紋でもあり
弘法大師佐伯家の家紋でもある 三つ巴の提灯を掛けています
塀壁の白線 はお寺の格を表し 最高位の5本線です
大主殿 和歌山県重要文化財
48,295坪の広大な境内に 東西約60メートル 南北約70メートルの建物
雷落により2度焼失 現在の建物は江戸末期の1863年に再建されています
持仏間(大広間)には弘法大師尊像が本尊とそして祀られ 金剛峯寺の
歴代の代座主の位牌も祀られて 日々の勤行が行われているそうです
大主殿の屋根に置かれている 天水桶(てんすいおけ)
屋根は檜の皮を重ねた檜皮葺(ひわだぶき)になっていて 桶に雨水を溜め
火災発生時 火の粉が飛んで 屋根が燃えないよう 防火用 の水桶でした
一つの桶に大人3人が入れるそうです
大玄関 と小玄関
大玄関は 天皇や皇族 高野山重職の方がお使いになり
小玄関は上綱(お坊さんの上位)職の方 一般のお坊さんは 裏口より出入りしたそうです
現在の拝観出入口は 昔は裏口といわれていました
2000年の高野杉の年輪です
奥の院 高野杉の断面
高さ 57m 直径 2.87m 株元周囲 9m
柳の間 (お借り画像)
豊臣秀吉は実子が生まれると二代目関白 豊臣秀次(姉の子)に
切腹を命じ 秀次は1595年 この柳の間で28歳で自害されたそうです
新別殿の大広間
参拝者の休憩所として お茶と菓子が出て 僧侶さんの法話も聞けます
江戸時代からの大勢の僧侶さんの食事を賄った台所で
1つのお釜で約7斗(98kg)のご飯が炊けるお釜が3基
一度に2,000人分のご飯が炊けるそうです
天井からつり下ろした棚は 風通しがよく食物の保存に 紙を垂らしてネズミの侵入防ぎに
水は湧水を高野槇の水槽(水の長持がよい)に溜め いろいろ工夫がされています
大きなかまどは現在も使われているそうです
蟠龍庭(ばんりゅうてい) と奥殿 (お借り画像)
弘法大師御入定1150年のとき造園され 雲海の中で雄と雌の龍が
奥殿を守っているように表現され 石庭としては日本では最大と言われ
石は お大師さまの 誕生の地四国の花崗岩が使われているそうです
また奥殿は貴賓室で 1934年(昭和9年)の弘法大師御入定1100年の
大法要のときに建てられ 昭和天皇 皇后両陛下が 昭和52年にお泊りされたそうです
天皇 皇后両陛下の記念樹 樹齢30年の高野槇
門をくぐって左手 念樹の左 経蔵 (お借り画像)
1679年大阪の有志から寄進されたもので 重要なものを収納するため
火災が発生しても安全なように 主殿と別に建てられたそうです
江
鐘楼
金剛峯寺が青巌寺と称していたころの鐘楼で1860年の大火に遭い
1864年再建されて県指定文化財になっています
次檀上伽藍へ行きます
おしまい