8月10日から8月12日、常磐線を乗り継ぎ福島県浜通り地方から仙台へ北上、仙台から石巻を目指す旅に出ました。
まずは旅の前半、福島でのあれこれ。
一部閲覧注意の画像がありますのでご注意ください。
【プロローグ】
帰還困難区域を含む福島を訪れようと思ったのは少しわけがあります。
3月11日の東日本大震災の後、私は自宅から通える範囲内になるさいたまスーパーアリーナで、被災された方々の支援に携わっていました。
その中でも多かったのが福島、原発事故による避難を余儀なくされた方々。
スーパーアリーナでも活動は2週間強でしたが、その後の避難所へは個人レベルの有志で何度か通いました。
以下、〈さいたま市緊急支援 〉1,2,3より。(数字クリックすると2011年当時の記事へ飛びます)
「畑も放射能にやられてるんだろう。これからどうすればいいんだ」
「なにか悪いことしたのかな」
「あのとき流されちまえばよかったんだ」
これから先の見通しが立たず絶望感にうちひしがれている姿に、かける言葉を選ぶのは難しい。
子供たちが絵を書いていました。
倒壊した家屋と津波の絵でした。夕方、地震ごっこ、津波ごっこと称した遊びをしていました。
もちろん保育のボランティアは入ってるし、子供たちのPTSDを防ぐための心のケアもされている。
ただ昼間はしゃぎまわっていて、車椅子で遊んでいたので注意するくらい子が、夜に泣いているのをみると、心が傷みます。
今日の昼間、トイレで座り込んでいる同世代くらいの女性がいました。
付き添っていた女性によると急に呼吸が荒くなったとのこと。
見るからに過換気だったので、自分用に持ち歩いている紙袋を渡して、これに呼吸をするよう伝えました。
救護に連絡をしドクターやナースが駆けつけたときにはもう荒い呼吸は落ち着いていたものの。
「こういうのは初めて?」
「はい……なんだか……急に……」
ストレスによる過換気か、と思いながらドクターたちに後を任せてそこを去りました。
過換気とは長い付き合いだし、11日には自分自身が過換気起こしてましたが。
子供たちや高齢者もそうなんですが、個人的な感情から言えば同世代の女性が苦しむのを見ているのが一番辛いです。
「福島に帰りたい……でも今帰ったら赤ちゃん産めなくなるのかもしれない……でも福島に帰りたい……どうすれば……」
泣きじゃくる声が耳に突き刺さる。
「埼玉が第二の故郷だ」
っておっしゃってくれたけど、私は福島にたくさんのおじいちゃんおばあちゃんがいるって思うよ。
そんな経験もあってか、一度この目で見てみたいとかねがね思っていました。
【上野発の鈍行列車を乗り継いで】
8年ぶりの18きっぷの旅です。
はじまりは上野駅。
そして水戸まで来た!!(この間寝てた)
【いわき到着】
ホラー小説は真夏の夜のローカル線で無駄に明るい車両に一人だけの状態で読むのがオススメ。
ガチにきさらぎ駅状態。
次かたすとか言い出したらどうしようって思うとアナウンス聞けなかったし、車窓にも逃げられない。
かといって読書に没頭しようとしても相乗効果で怖いし、寝ようとしても猿夢でもみたらどうしよう思うと寝れない。
そんな感じで肝を冷やしながら、いわき到着。
前に来たときよりいわきの駅前が静かだったから驚く。
セブンイレブンが24時間じゃなくてイレブンでもなく22時閉店ってことに「遠くまで来たもんだ」と思いつつ、
今日は疲れたのでそのまま予約していたビジネスホテルにチェックイン。
8月11日。
【浜通りを北へ】
朝7時、チェックアウト。
この地でこんな空はなかなか肝が冷えるというか……
常磐線、竜田行き乗車。
この先の細切れな乗り換えスケジュールを確認。
しかし仙台まで常磐線で辿り着くのに前泊が必要だとは。
福島がずいぶん遠くなったと実感している。
美しい田園風景を抜けて末続駅。
トンネルが増えた。車窓右手には山、左手には海。
山の中の墓地、墓石が全て海の方向を向いている。
青と緑の美しさに見惚れていたら、山側にある仮設住宅と沿岸にある慰霊碑を見つけてハッとする。
Jヴィレッジのある広野町。その広野駅。車内より海側の車窓。
本当にあれから4年経ったんだろうか。
【竜田駅にて】
竜田駅。
常磐線はこの先、放射線量の高い地域に入るので代行バスに。
下り線の線路は塞がれてる。
向かいに電車止まってるけど、折り返しの上り列車。
この先、富岡から北へ線路が延びるのはいつになるのか。
竜田駅のトイレがやたら綺麗だなと思ったら、そういうことかと。
外の放射線量は0.202μSv。
線量計を見ると来るとこまで来たと感じる。
首都圏と比べて高いか低いかは調べ忘れたからわからない。
空気はこんなに清々しいのに。
駅前を歩く。
人の気配がほとんどない。
お金を落としていこうにも商店も全部閉まってる。
すれ違ったのは、さっき同じ列車から降りた旅行客とパトカーだけ。
楢葉北小学校。
4年半近く使われていない校庭。
ここに子供達の声が戻るのはいつになるのか。
龍田神社にお参り。
手入れがされていない参道、壊れたままの灯篭。
蝉の鳴き声がしみる。
神様は何を思うんだろう。
開催が叶わなかったであろうスパリゾートハワイアンズのイベントポスター。
時が止まった街みたいだ。
この先に富岡駅がある。線路は自然に塞がれてる。
【帰還困難区域】
竜田駅から原ノ町駅間の代行バス。
といっても1日2便だけ。
午前の便を逃したら夕方まで待たないといけない。
現在の仙台への常磐線への一番ネックなルート。
なんてことはない国道の風景。
いつもなら井上陽水あたりを聴きながら眺める田舎の風景。
でもそこには作物はなくて、人もいない。
代わりにあるのは線量計と除染用黒ポリ袋と、立ち入り禁止のバリケード。
帰還困難区域。
潰れたままの家、放置されている自動車、生き物の気配を感じない。
4年前のあの日から変わってないんだろう。
多分向こうにあるのが福島第一原発。
あの事故さえなければ双葉や浪江は今頃、と思うと胸が締め付けられる。
川内原発再稼動まであと数分、原発ゼロが終わるまであと数分。
ちょうどのタイミングで福島第一原発と帰還困難区域を通ったので、脱原発とか何か思うかと思ったけど、正直言葉が出てこない。
【花が咲くということ】
原ノ町駅到着。
ここでちょっと待ち時間。
生きている街ってこんなにホッとできるんだ。
花が咲くことってこんなに安心できるんだ、と。
原ノ町駅の線路を渡る歩道橋から見えた常磐線特急列車。
4年以上そこにいるんだろうか。
原ノ町駅から相馬駅は常磐線が復旧してるので電車移動。
電車内は子供達が書いた、相馬の野馬追の絵が飾られてる。
さっき蕎麦をいただいたお店にも写真がたくさん飾ってあった。
大河好きにはたまらん。
野馬追をいつか見に来よう。また来よう。
【それでも生きている町】
かっこいい相馬駅から亘理駅までは再び代行バス。
相馬亘理間の代行バスと、竜田原ノ町間の代行バスは、同じ国道6号なのに意味合いが少し違う。
風景がまるで違う。
その街は生きているか、いないか。
日本全国どんな田舎町でも、電車が走ること、道にバリケードがないこと、田んぼに稲が植えられていること、畑に作物があること、人が外を歩いていること、花が咲いていること、生き物がいること、時計の針がすすんでいること。
それって実はとても幸せなことなんだと思ってる。
代行バス終わり、亘理駅。車窓には田んぼと緑、それから仮設住宅と宅地造成。
しかし駅がかっこいい。
新地駅など被災した各駅もこんな風にかっこよく生まれ変わる日が早く来ることを祈るばかり。
亘理駅から仙台駅は近かった。
震災の面影が一瞬わからないくらいに復興を遂げている。
花も咲いているし人でにぎわう。
線量計は目立つところには置いてないし、除染の文字もない。
違う世界に行っていたかのような錯覚に陥る。
しかし……上野から乗車時間トータル9時間弱、遠かったぞい。
仙台からは石巻を目指します。
続きはこちら。
→【それでも生きていく】2015年8月、4年5か月前のあの故郷へ、その2〜仙石線で石巻編〜
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