いつだったか元同期と話した記憶がある。
「19の『熊じいちゃん』は泣けるよね」
恐らく歌詞は長崎に住む実の祖父の話なんだと思う。
しかし『僕の中であなたは生きてます』という歌詞は、高齢者介護という仕事をして、何人かの死を見つめて、初めてグッとくるものがあった。
「私の中であなたは生きてます」
そう呟くときが今でもある。
「入居者の死を忘れられない」
と上司に言ったことがある。
「感情移入し過ぎだよ」
「全部抱えたら潰れるよ」
どれもしっくりこなかった。
しかし退職してからひょんなことで連絡をとった知り合いのボランティアさんが言った言葉がピッタリときた。
「だったら覚えていればいいんです。むしろ覚えてなきゃいけないと思うんですよ」
ああそうか、と妙に納得し私は1人1人の死に方を含めた生き方を思い出すようになった。
その中で特に覚えている人がいる。
篤い認知症を患っていた方だった。
特に暴力行為、体の大きな方だったから男性ケア3人がかりでもケアが負傷してしまう――それくらいの力だった。
程なくして精神安定剤の投与が始まった。
暴力行為は収まった、しかし薬が効き過ぎているということは明らかだった。
「だいぶ……効き過ぎてるんじゃないんでしょうか」
投与が始まってから2週間近く経ちますがここ数日は日がな1日ぼんやりとされてます、声かけの反応も薄いんです、立位も安定しなくなってきました、ADLの悪化が著しいと感じます――
往診にきた主治医を呼び止めてそう伝えた。
看護師と医師は困惑した表情で何も答えなかった。
桜の季節だった。
「お花見の季節になりましたね」
と体を拭きながら話す。
「……権現堂」
「え?」
「権現堂の桜、見たいなあ」
その人と私は同郷で、権現堂の桜とは私たちの郷里ではかなり有名な桜の名所だ。
「そうですね。権現堂は桜と菜の花のコントラストがきれいなんですよね」
「あと利根川。俺はよく利根川でザリガニ釣った」
「Aさんの出身地だと利根川近いですよね。ザリガニ釣り、私もよくやりました。」
「餌はいかくん」
「そうそう!いかくんぶら下げるんですよね」
ハッキリと会話をされたことに驚いた。
それは重度の認知症の症状とは思えなかった。
『うちに帰る!』
という帰宅願望は認知症にはよくある。
でもこれは帰宅願望じゃない、これは故郷への思いだ。
「懐かしいなあ……もう一度権現堂に行きたいなあ……」
Aさんは、もう帰れないことを判っているのかもしれない。
涙ぐんでいるのが判って、私も涙を流しそうになった。
「……桜ももうじきに開花しますよ。菜の花だって……桜も菜の花も利根川もずうっとそこにあるんですから」
背中を向けて言うしかなかった。
この状態だと片道2時間はかかる権現堂はおろか、近所への外出も困難だろうと判っていた。
「待っててくれるかな」
「待っててくれますよ」
涙を堪えるためにタオルを力強く絞った。
「じゃあまたあとで来ますね」
認知症の悪化なんて嘘なのかもしれない。
嘘でなくても症状は安定しているのかもしれない。
それに安定剤だって減薬になるかもしれない。
そんな希望を込めて、申し送り事項に記入をした。
担当のケアマネージャーにも報告して、二人して手をとって喜びあったのをよく覚えている。
しかしこの昼下がりの会話が、クリアな会話の最後になるとは思ってもいなかった。
それから私は社宅に帰りアルバムから1枚の写真を取り出した。
権現堂の桜の写真。
翌日、職場でカラーコピーをした。
「何それ」
「権現堂っていう桜の名所の写真です」
「へえ、きれいだね」
「Aさん、権現堂の桜の話、すっごいクリアにされてたんですよ。また見たいって」
「へえ」
「権現堂までは無理でも、せめて来週の花見にご案内出来たらなーって」
ウキウキしていた。
何かが変わるかもしれない。
桜の写真を届けに行くと、Aさんは寝ていて、家族が来ていた。
「これ、昨日Aさんが権現堂の桜を見たいっておっしゃってたんです。私同郷なのでちょうど写真があって……一昨年のなんですけどね。よかったらと思って」
家族の方は写真を受けとると、声を震わせながら言った。
「ここまでしてくれて……ありがとうございます、本当にありがとうございます……」
「大したことじゃないんです。ただ、私も嬉しくて」
「ありがとうございます」
家族の方はひたすらそう言っていた。
その日ケアマネから
「Aさんの家族さん、お礼言ってたよ」
「写真渡しただけですよ」
「嬉しかったんじゃない?」
「なら良かったです。花見にご案内出来たらいいんですけどね」
桜の開花はもうすぐだ。
先日に見に行った蕾を思い浮かべる。
――間に合うかな。
Aさんの病状が悪化し入院、入院先でそのまま帰らぬ人となったのは、写真の日から数日経った日のことだった。
夜勤の勤務前、煙草を吸っている最中に知り驚いた。
――間に合わなかった。
権現堂の話をしたあの昼下がりの午後が浮かんで、勤務前だというのに泣きそうになった。
美しい桜と菜の花のコントラストを天国から見るだろうか。
またいかくんでザリガニでも釣っているだろうか。
AさんやAさんの家族の痛みが、自分の胸の痛みのように感じた。
私はAさんとその家族の幸せに関わった。
だから悲しみにも関わる。
ケアとはそういうことなのかもしれない。
「Nさんは一生懸命過ぎるよ。入居者さんに対して」
「……それは悪いことです?」
「悪くはないけど……辛くなるよ」
「悪くないんなら……辛いことがあっても一生懸命のままがいい」
それから何人もの別れを見てきた。
一生懸命に向き合ってきた。
今でも思い出す。
違う、今だから思い出す。
勤務中は目の前の仕事のことや自分の闘病のことで頭がいっぱいだったのだ。
看護師を目指す。
医療の現場だ、人の生死に向き合うことは増えるだろう。
そのときにどうなるのか。
「介護の仕事をしている中で辛かったことは何ですか」
と看護学校の面接で聞かれた。
「入居者さんとの死別です。初めての1人暮らしで勤務をする中で、職場は文字通りもうひとつの家のように、入居者さんは実際の祖父母のようにも感じておりました。しかしただ死を死として受けとめるのではなく、その方の死に方まで含めた生き方を忘れずにいようと思いました」
自分の言葉だった。
死に方を含めた生き方を記憶していく。
亡くなられた人たちは皆私の中で生きている。
Aさん、もうすぐ春ですよ。
今年も権現堂見てますか。
「19の『熊じいちゃん』は泣けるよね」
恐らく歌詞は長崎に住む実の祖父の話なんだと思う。
しかし『僕の中であなたは生きてます』という歌詞は、高齢者介護という仕事をして、何人かの死を見つめて、初めてグッとくるものがあった。
「私の中であなたは生きてます」
そう呟くときが今でもある。
「入居者の死を忘れられない」
と上司に言ったことがある。
「感情移入し過ぎだよ」
「全部抱えたら潰れるよ」
どれもしっくりこなかった。
しかし退職してからひょんなことで連絡をとった知り合いのボランティアさんが言った言葉がピッタリときた。
「だったら覚えていればいいんです。むしろ覚えてなきゃいけないと思うんですよ」
ああそうか、と妙に納得し私は1人1人の死に方を含めた生き方を思い出すようになった。
その中で特に覚えている人がいる。
篤い認知症を患っていた方だった。
特に暴力行為、体の大きな方だったから男性ケア3人がかりでもケアが負傷してしまう――それくらいの力だった。
程なくして精神安定剤の投与が始まった。
暴力行為は収まった、しかし薬が効き過ぎているということは明らかだった。
「だいぶ……効き過ぎてるんじゃないんでしょうか」
投与が始まってから2週間近く経ちますがここ数日は日がな1日ぼんやりとされてます、声かけの反応も薄いんです、立位も安定しなくなってきました、ADLの悪化が著しいと感じます――
往診にきた主治医を呼び止めてそう伝えた。
看護師と医師は困惑した表情で何も答えなかった。
桜の季節だった。
「お花見の季節になりましたね」
と体を拭きながら話す。
「……権現堂」
「え?」
「権現堂の桜、見たいなあ」
その人と私は同郷で、権現堂の桜とは私たちの郷里ではかなり有名な桜の名所だ。
「そうですね。権現堂は桜と菜の花のコントラストがきれいなんですよね」
「あと利根川。俺はよく利根川でザリガニ釣った」
「Aさんの出身地だと利根川近いですよね。ザリガニ釣り、私もよくやりました。」
「餌はいかくん」
「そうそう!いかくんぶら下げるんですよね」
ハッキリと会話をされたことに驚いた。
それは重度の認知症の症状とは思えなかった。
『うちに帰る!』
という帰宅願望は認知症にはよくある。
でもこれは帰宅願望じゃない、これは故郷への思いだ。
「懐かしいなあ……もう一度権現堂に行きたいなあ……」
Aさんは、もう帰れないことを判っているのかもしれない。
涙ぐんでいるのが判って、私も涙を流しそうになった。
「……桜ももうじきに開花しますよ。菜の花だって……桜も菜の花も利根川もずうっとそこにあるんですから」
背中を向けて言うしかなかった。
この状態だと片道2時間はかかる権現堂はおろか、近所への外出も困難だろうと判っていた。
「待っててくれるかな」
「待っててくれますよ」
涙を堪えるためにタオルを力強く絞った。
「じゃあまたあとで来ますね」
認知症の悪化なんて嘘なのかもしれない。
嘘でなくても症状は安定しているのかもしれない。
それに安定剤だって減薬になるかもしれない。
そんな希望を込めて、申し送り事項に記入をした。
担当のケアマネージャーにも報告して、二人して手をとって喜びあったのをよく覚えている。
しかしこの昼下がりの会話が、クリアな会話の最後になるとは思ってもいなかった。
それから私は社宅に帰りアルバムから1枚の写真を取り出した。
権現堂の桜の写真。
翌日、職場でカラーコピーをした。
「何それ」
「権現堂っていう桜の名所の写真です」
「へえ、きれいだね」
「Aさん、権現堂の桜の話、すっごいクリアにされてたんですよ。また見たいって」
「へえ」
「権現堂までは無理でも、せめて来週の花見にご案内出来たらなーって」
ウキウキしていた。
何かが変わるかもしれない。
桜の写真を届けに行くと、Aさんは寝ていて、家族が来ていた。
「これ、昨日Aさんが権現堂の桜を見たいっておっしゃってたんです。私同郷なのでちょうど写真があって……一昨年のなんですけどね。よかったらと思って」
家族の方は写真を受けとると、声を震わせながら言った。
「ここまでしてくれて……ありがとうございます、本当にありがとうございます……」
「大したことじゃないんです。ただ、私も嬉しくて」
「ありがとうございます」
家族の方はひたすらそう言っていた。
その日ケアマネから
「Aさんの家族さん、お礼言ってたよ」
「写真渡しただけですよ」
「嬉しかったんじゃない?」
「なら良かったです。花見にご案内出来たらいいんですけどね」
桜の開花はもうすぐだ。
先日に見に行った蕾を思い浮かべる。
――間に合うかな。
Aさんの病状が悪化し入院、入院先でそのまま帰らぬ人となったのは、写真の日から数日経った日のことだった。
夜勤の勤務前、煙草を吸っている最中に知り驚いた。
――間に合わなかった。
権現堂の話をしたあの昼下がりの午後が浮かんで、勤務前だというのに泣きそうになった。
美しい桜と菜の花のコントラストを天国から見るだろうか。
またいかくんでザリガニでも釣っているだろうか。
AさんやAさんの家族の痛みが、自分の胸の痛みのように感じた。
私はAさんとその家族の幸せに関わった。
だから悲しみにも関わる。
ケアとはそういうことなのかもしれない。
「Nさんは一生懸命過ぎるよ。入居者さんに対して」
「……それは悪いことです?」
「悪くはないけど……辛くなるよ」
「悪くないんなら……辛いことがあっても一生懸命のままがいい」
それから何人もの別れを見てきた。
一生懸命に向き合ってきた。
今でも思い出す。
違う、今だから思い出す。
勤務中は目の前の仕事のことや自分の闘病のことで頭がいっぱいだったのだ。
看護師を目指す。
医療の現場だ、人の生死に向き合うことは増えるだろう。
そのときにどうなるのか。
「介護の仕事をしている中で辛かったことは何ですか」
と看護学校の面接で聞かれた。
「入居者さんとの死別です。初めての1人暮らしで勤務をする中で、職場は文字通りもうひとつの家のように、入居者さんは実際の祖父母のようにも感じておりました。しかしただ死を死として受けとめるのではなく、その方の死に方まで含めた生き方を忘れずにいようと思いました」
自分の言葉だった。
死に方を含めた生き方を記憶していく。
亡くなられた人たちは皆私の中で生きている。
Aさん、もうすぐ春ですよ。
今年も権現堂見てますか。
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