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就労弱者を知っているか。Vol.3

2022-04-11 | 仕事

障害者になることの是非

近年、発達障害の検査を希望する若者は増加傾向にあり、ある専門医では検査まで半年程度待つのは当然と聞きます。
しかしその一方で、検査を受けても発達障害ではないという診断を受ける人も増えています。
そういう人は「発達障害傾向が認められる」などという曖昧な表現で診断結果の説明を受けることが多いようですが、最近では、そういう診断を受けた人のことを「グレーゾーン」と表現する人も増えています。
この「グレーゾーン」という言葉も、今では比較的多くの人が口にするようになっているように感じていますが、その扱い方はどうやら少し間違っているようです。

発達障害の診断は、国際的に利用されている「DSM-5」という診断基準に基づいて行われています。
専門医による問診のほか、最近ではウェクスラー成人知能検査(WAISーⅣ)という検査が用いられるケースが多いようです。
そして問診や検査の結果を医師が総合的に判断します。
さらに必要であれば頭部CTやMRIなどを実施するケースもあるとか。

つまり、判断基準は1つではありません。
WAISーⅣの結果だけでも4項目あり、専門医の問診の中にも育成歴を基に幼少期からの行動を分析して判断するというものもあります。
基本的には、それらの基準を全て満たした状態が認められる場合を障害であると確定診断します。
そして、一部のみを満たしている状態では障害とは言えない、という意味で「グレーゾーン」となる可能性が高いのです。
つまり、「グレーゾーン」という言葉の示す意味は、検査を受けた人に対し、その結果全ての基準を満たしたか、そうでなかったかを区別するための言葉なのです。
巷では、少し変わった行動をする人を「発達障害かもしれない」というニュアンスで「あの人はグレーゾーンかも?」といった使われ方が多いようですが、本当はそうではないということも、知っておいた方がよいのではないでしょうか。

では、話を本題に戻して、「障害者になる」ということの是非について、私の考えを述べます。
大変デリケートなテーマなので、これから述べることは、就職を希望する若者が、もしかすると自分が発達障害かもしれない、という場合を前提にすることを、まずはご理解ください。

一般論として、障害者になる事に抵抗感を持つ人は多いと思います。
自分自身のことだけでなく、ご家族や親しい友人が、何らかの理由で障害者になるという事態に遭遇した時、すんなりと受け入れられる人は少ないのではないでしょうか。
私が出会う、発達障害の疑いのある未検査の若者も、もしも検査を受けて障害者に認定されたらどうしよう、という不安を抱いています。

さらに、その親御さんならより一層不安は大きくなります。
そういう意味で、内心は検査を受けて明らかにしたいと思っていても、なかなか親に言い出せない若者が多いのも頷けます。
さらに、自分の子に障害があることを受け入れられない、という親御さんのお気持ちも、同じ親である立場から思うと痛いほど分かります。

一般的にも、検査を受け“そうでない”と診断を受けた若者に対し、「障害者ではないことが判ったのだから、良かったのではないか?」と思う人は多いのではないでしょうか。
私も、就労支援という仕事に就いて間もない頃は、検査を受けなくても「自分の個性を生かして自信を持って生きればいい!」などと考えていました。

しかしその後、実際に未検査の若者に出会う中で、当事者の想いや置かれている現状を知れば知るほど、私の考えがいかに浅はかで綺麗事だったかと気づかされ、障害福祉制度に関する知識のなさと、相手を理解できず思いやりのない自分の情けなさを猛省しました。
まず改めたことは、障害者でないことを「良いこと」としている自分の差別意識です。

そして、検査を受けるということは、その結果に一喜一憂するような浅いレベルの話ではなく、当事者やそのご家族の人生を左右するほど、とても重要で深い問題だということを、その後の私は思い知ることになりました。

そもそも、当事者にとって検査を受けるということ自体、精神的な負担が伴う、とても勇気の要る行為です。
それでも受けようとするのは、当事者の背景によほどの苦悩があったことや、将来への不安が大きいことくらいは想像できると思います。
しかし、検査を受けようとする動機は、単に自分が障害者かそうでないかを判別するためではなく、今まで「変わっている。」と言われ続けてきたのはなぜなのか?なぜそんな自分になったのか?なぜ治らないのか?なぜ苦しいのか?など、様々な「なぜ?」を明らかにしたいからです。

そして、実際に検査を受けた当事者は、診断結果はどうであれ、「自分のことが判って安心した。」とか、「なぜいじめられたのかが判った気がする。」、または「思ったほどではなかった(笑)。」などという、率直な感想を聞かせてくれました。
当事者の受け止め方は様々ですが、私が出会ってきた検査を受けた若者たちの多くは、やっぱり検査を受けてよかったという人が多かったです。

しかし、実はこの後、検査結果によって働き方に大きな違いがあるという”不都合な現実”に直面する若者もいます。
それこそが、「制度の狭間」に陥ってしまうという大問題です。
前回も述べたように、グレーゾーンの人は、障害者の支援制度の要件に該当しませんが、働いていく上で困難さがあることに変わりはないのです。

もちろん、グレーゾーンの人でも医師の診断書があれば、利用できる支援機関や支援活動をしているNPO法人などもあり、その数も増えているということは好ましいことだと思います。
しかし、グレーゾーンになることで決定的に不利になるのが、現在の労働市場において唯一のセーフティーネットである障害者就労に該当しないということです。
それは即ち、健常者と同じように働く、一般就労の道しか残されていないことを意味します。

そういう現実に遭遇した当事者やその家族の中には、とても普通の人と同じような働き方をすることに自信がない(させたくない)という理由で、「別の病院で障害者認定をもらいます。」という人もいれば、「精神疾患もあるので、そちらの方で障害者認定をもらいます。」という人も出てくるのです。
このような状況を目の当たりにする度に、私は日本の労働形態や福祉制度の在り方に疑問を持ってしまうのです。

他方では、はじめから支援制度に頼らない、頼りたくないというグレーゾーンの若者もいます。
ただし、その現実は厳しく、自力で就職活動を頑張ってみても上手くゆかず、ただただ月日だけが過ぎ去ってゆく中で就労への意欲も減退し、やがて引きこもりになる若者もいます。

または、努力の甲斐あってせっかく得た仕事も、その困難さから継続出来ずにすぐに辞めてしまい、その後も職を転々とした結果、将来に希望も持てず自暴自棄に陥ってしまい、うつ病などの精神疾患を発症したりするという若者も決して少なくありません。

そして、そういう道を辿る若者の多くは、社会とのつながりがますます薄くなり、最終的には生活が困窮し生活保護の道を選ばざるを得ないという、負のスパイラルに陥ってしまうのです。
しかし、もしも障害者と認定されていたなら、その若者には別の選択肢も見えてくるのです。
少なくとも、自力で就職活動をするよりも、障害者として支援機関を利用して障害者就労を目指す方が、就職の確率は飛躍的に高まります。
それは自身の希望とはかけ離れているかもしれませんが、少なくとも就労してその対価を得て生活するという、自立の基本的な土台は手に入れることは可能となります。(ただし継続就労できるかは別の問題です)

そんな風に考えると、障害者になるということは、単なる良し悪しの二元論で片付けられるような次元ではなく、就労するという観点においては、より多くの選択肢を得るか否かで判断すべき問題ではないか、というのが私の見解です。

私は、ご縁をいただいた発達障害の疑いのある未検査の若者には、基本的に専門医で検査を受けることを勧めます。
もちろん強制はしませんし、経済的な状況も考慮することは当然です。
中には、親が認めず、病院に行かせようとしないケースがあるのも事実ですが、そんな時は、状況が許せば、直接親御さんにお会いし、検査を受けることの意味を説明することもあります。

現在の日本では、障害者として受けることのできる医療福祉サービスは年々手厚くなっています。
それは、障害者としての当然の権利であると同時に、その権利を実際に使うかどうかは、当事者の意思次第です。
それならば、自分に権利を得ることのできる可能性があるなら、まずは専門医の診察を受けて明らかにした方が良いのではないか、そして実際に権利を手にできると分かってから、実際にその権利を使うか否かはその時々の状況によって決めればよいのではないか、というのが私の考え方です。

以上の理由から、私の「障害者になることの是非」についての立場は、基本的に肯定する側です。
だからこそ、就労弱者やグレーゾーンの若者たちが、制度の狭間に陥らないような仕組みも必要不可欠ではないか、と考えています。


就労弱者を知っているか。Vol.2

2022-04-04 | 仕事

「制度の狭間」という社会問題

現在、日本の医療・厚生・福祉の世界では、多種多様化する社会問題を要因とする生活困窮者のための様々な公的支援措置(セーフティーネット)が施行されています。
それは、私の主戦場である労働市場もよろしく、就労に困難な求職者向けの支援や、障害者雇用を軸とした、使用者に対する援助策など、双方に様々な制度設計がなされています。

当然ながら、私も必要に応じてセーフティーネットに関する情報をクライアントに紹介する機会も多く、然るべき支援を受けることが出来て安心していただいたというケースも多く経験してきました。
しかしその反面、支援制度の要件に該当せず、必要な支援を受けられないという「制度の狭間」に置かれる若者にも、多く出会ってきました。
私は、そういう若者のことを、「就労弱者」と表現しているとうのが、前回お伝えした内容でした。
就労弱者は、見た目には非常に分かりにくい発達障害や精神疾患、またはその疑いがある若者の可能性が高く、本人は違和感を抱いていても専門医の診察を受けていないため、就労に向け専門的な支援の必要性があっても、その制度を使えないというケースは、決して少なくないのですが、このような現状はあまり一般には知られていないように感じています。

最近では、「発達障害」という言葉自体は、その認識に差はあるにしても、広く世間に知られてきたと思いますが、就職においては未だ大きな壁が立ちはだかっています。
例えば面接の場面で、「私は発達障害者ですが…」などと話した途端に、面接官が固まるというのが、今の就職市場の実情です。
どんなに有名タレントが発達障害だとカミングアウトしたとしても、歴史上の偉人の中には発達障害者が多いという事実をTVが放映したとしても、日本の就職市場だけは、未だに発達障害者への理解不足が解消せず、偏見や差別が横行している、というのが私の認識であり、少なくとも私が出会う若者は、そういう体験をして離職した、または就職できないという理由で相談にやって来るのです。
そして、就職や転職に向けての支援が始まる段階で「制度の狭間」という問題にぶち当たる、というわけです。

「制度の狭間」とは、発達障害の疑いのある人、精神疾患の疑いのある人、さらに難病にもかかわらずその症状が軽度な状態、または難病指定されていない原因不明の病気を患った人、さらには、複雑な家庭環境の渦中にいて経済的にも困窮している人など、様々な要因により就労や生活に困っている人が、必要なセーフティーネットの要件に該当しないため、いくら希望してもそれらを受けられない状況に陥ってしまうという社会問題のことです。
聞きなれない言葉だと思いますが、こういう問題があることは、たとえ支援に携わる人でも、その実情を知る人は少ないと思います。

実は、制度の狭間に置かれる可能性のある人は老若男女を問わず、いつでも誰にでも起こり得る、身近な社会問題です。
実際に、2020年2月頃から大流行した新型コロナウィルスの感染拡大に伴う数度の緊急事態宣言や蔓延防止措置の影響で、私たちの働き方や生活様式は一変しました。
その中でも飲食業、旅行業、販売サービス業など、人流に直接影響を受ける業界とその関連業種に従事し非正規雇用で働いていた人の大半は、一挙に生活困窮者に追いやられたのです。
当然ながら、国や自治体も救済のための措置を矢継ぎ早に打ち立て、次々に施行して来ましたが、やはり規定を設けている以上、そこには必ず数量的な境界線と、複数の要件というものが設定されます。
そして、中にはそれらの要件に満たないという理由で「制度の狭間」に陥る人たちも大勢いると予想されます。
パンデミックでなくとも、震災や自然災害など、過去にも似たようなケースは沢山ありますが、このように、自身の力が全く及ばないところで起きた現象であっても、気が付けば自分も「制度の狭間」に置かれているということは起きうることを、まずは認識してほしいと思います。

制度の狭間という社会問題は、セーフティーネットの範囲に比例するので、広範囲に及びます。
そのため、これ以降は、“就労に関する制度の狭間”という観点に絞って話を勧めます。
ここで、前回紹介した「就労弱者の位置付け」の図をイメージしていただけると、より分かりやすいと思います。

就労弱者の位置付け

前回も触れましたが、就労において、福祉制度の利用を希望する際の要件は、やはり「障害の有無」が決め手となります。
前回は、まず「診断の壁」があるという話でしたが、今回は「障害者認定の壁」に近い話しです。

現在、障害は、身体障害・精神障害・知的障害の3つの分野に区分されており、それぞれに詳細な判断基準が設けられ、その度合いによって受けることのできる支援内容も詳細に設定されています。
そして、障害を持つ人も、そうでない人と同じように職業選択の自由と就労の機会を得る権利を保障することを、事業主や公的機関の責務として制度化されたのが、1960年に施行された「身体障害者雇用促進法」です。
障害者を取り巻く日本の労働市場は、この法律をセーフティーネットとして進められ、障害者が働きやすい社会の実現を目指して来たのです。

その後1976年には、それまで努力義務だった法定雇用率は、実際に達成すべき義務に改正され、それに合わせて雇用給付金制度が設けられました。
この制度は、障害者の法定雇用率を達成していない企業から納付金を徴収し、それを財源として、障害者雇用に積極的な企業に調整金や助成金を給付するというものです。
これを機に、法定雇用率の義務化と雇用給付金制度は、現在の障害者雇用促進法の基本骨子になっています。
そして1987年には、身体障害者雇用促進法は、「障害者雇用促進法」へと改名され、その対象となる障害者の種類も拡張されます。1998年には知的障害者、そして2018年には精神障害者が、この法律の適用対象となったのです。
さらに、2016年4月から、障害者差別解消法により「合理的配慮」の義務化も始まっています。
今後も社会状況の変化と共に、障害者を対象とする法律の改正は続いていくことが予想されます。

他方では、障害者の就労を、その障害の程度によって手厚く支援するための障害者福祉施設も多く開設され、その利用者も年々増加しています。
そして、福祉労働とよばれる働き方や、長短時間労働など、障害者が社会参画する機会と場所も増えており、その恩恵を受ける障害者も大勢いることも事実です。
しかしながら、先ほどと同様に、そこに規定がある以上、やはり要件というものが設定されます。
つまり、要件に満たない人は、どんなに希望してもそれらの対象にならないことを忘れてはいけないと、私は思うのです。

ではなぜ、要件に該当せず、制度の狭間に置かれてしまう人がいるのでしょうか。
発達障害の疑いのある若者を例に説明すると、幼少期から違和感や困難さに悩んで来たため、専門医院で検査を受けたとしても、複数の診断基準の中でいくつかを満たしているだけでは不十分で、全て満たしていなければ、発達障害という診断がなされません。
したがって、障害者には認定されないのです。
しかし、その若者にとっては、幼少期から抱えてきた困難さがあることに変わりはないので、今後の生活や働いていく上で、障害者雇用をはじめ、相談や支援を受けたいと願っても、障害者向けの専門性の高い公的支援を受けるための絶対的条件である「障害者である」という要件に該当せず、一般の人と同じ扱いになるのです。

そして、一般の人が利用するハローワーク等の相談窓口で就職に関する困り事を聴く相談員も、その若者の抱える問題を詳しく知るほど、この人は専門機関にリファーするべきではないか、と考えるようになるのですが、やはり要件に該当しないため、それも出来ず、どうしたものかと頭を抱える事態になるのです。
こういう状態になってしまうケースを、「制度の狭間に置かれる」と表現します。
さらにこの問題を深くしているのが、そういう人は、健常者と同じように働く一般就労しか選択肢がないという現実です。
他にも、精神障害の疑いのある人や、軽度の症状しか現れない難病患者も、やはり障害者に認定されなければ、一般の人として就労するしかありません。
もともと困難さを抱えていると自覚している人にとって、そうでない人と同じように働かなければならない職場は、私たちの想像をはるかに超える辛さを伴います。
それが、制度の狭間という社会問題の深刻さだということを、認識してほしいと思います。

次回は、「障害者になることの是非」ついて述べます。