小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

沖縄の海。湘南の海

2009-10-03 17:33:07 | Weblog
ある必要があって、曖昧としていた自分の感覚を見定める必要が出来た。それで色々、考えてみた。確かに、沖縄のエメラルドグリーンの色の海は美しい。砂浜も美しい。しかし私は美しいと言われる沖縄の海に魅力を感じない。私は、ドロっぽい湘南、相模湾の海、本州の海の方が好きである。それは湘南の海の水平線の彼方は、太平洋の海であり、その中にある南国の美しい島々を想像させるから、その想像が楽しいのである。湘南という現実の場所から、南国の夢の島々を想像するから楽しいのである。それに比べ。沖縄とは。鹿児島から沖縄の方を、憧れの目で見ている人はいるだろう。沖縄とは、少し大きいが、水平線の彼方にある憧れる夢の島なのである。実際、沖縄に行ったり、沖縄に住んだりしたら。夢は夢だから美しいのであって、夢は叶えられた途端、夢でなくなってしまうのである。そういう気持ちから私は、沖縄には魅力を感じないのである。

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児童虐待

2009-10-03 17:29:49 | Weblog
私の住んでいるアパートは、防音が悪く、二階に住んでいる家族の声が聞える。幼稚園児くらいの子供を親がいつも、激しく叱っている声が聞える。その叱る理由は、私でも解らない難しい高等哲学である。ので幼稚園児では、もっとわからないのではないだろうか。可哀相に思うが、私は内政干渉はしない。また泣き声も聞えてこない。強い子なのだろう。親に毎日、厳しく叱られて育った子供が、強く逞しい思いやりのある大人になるのか、グレて不良になるのかはわからない。しかし、アパートの前で、親と遊んでいる時は、あっけらかんとしていて、不良とかチンピラとかヤクザとかにはならないような気がする。

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なぜ小説を書くか

2009-10-03 17:26:49 | 考察文
私が小説を書く理由。
私が小説を書く理由は、割とわかりやすく説明できる。勿論、色々な理由があるが。その中の大きな一人の理由は。一言でいうと、私は、自分でも私という人間がわからない。そのため、「自分とは何か」を知るために小説を書いているのである。勿論、小説とはストーリーのあるお話であり、作品である。勿論、読者に読んで欲しいから小説を書くのである。人間は、自分の事は、誰より知っていると思いがちである。しかし、自分とは何か、は、本当には自分ではわからない。少なくとも私はそうである。かえって他人の方が私という人間をわかっていると思う。自分を知るためには、エッセイなり、考察文なり、日記なり書いてみることが多少、効果があると思う。しかし、そういうものを書いてみても、それでも、なかなか自分というものはわからない。書いた物を読んでみても、やはり自分とは何か、は、わからない。今、書いているこの文章も、考察文と言えると思うが、これを読んでみても自分とは何かはわからない。それで私は小説を書く。私は、これでもか、これでもか、と自分が表現したいものを、自分の感性に忠実に書く。そして自分が書いた物を読んでみると、ああ、自分とはこういうものなのか、という事が、完全にではないが、多少、おぼろげにわかるのである。そして、書く理由のもう一つに、混沌とした、そのわからない自分というものを表現したいために書くのである。そして書いた作品というものは、自分の先天的な感性、や、後天的な経験によって形成された自分の性格や主義、信念、大げさに言えば、思想、などがあらわれていると思うのである。そして、私の感性とか性格とか思想とかは、けっして偶然的なものではなく、私の先天的な感性や、生まれてきた時の条件と、それによって私が考え、判断し、決断して出来た私の性格や思想などの必然的なものであると私は思っている。それに、何らかの価値があるかどうかは自分ではわからない。もしかすると、多少は何らかの価値はあるのかもしれないが、それがどの程度の価値で、また、どのような価値なのかも自分ではわからない。読む人がどう感じるかはわからない。どう感じるかは当然、人によって違うだろう。また価値が全く無いと言われても私は書くだろう。私は世間の喝采を受けたいとは思わないし、また、私の作品は世間の多数の人に受けるとは全く思っていない。また受けたいとも、さほど思わない。だが、小説という形式で、自分というものを表現することは、私にとっては、かけがえのない喜びであり、また作品を書くということは、私にとって自分の人生の自己実現なのである。だから書かずにはいられないのである。

その他で思いつく動機は。

もし私が理想と思うような女が現実にいたら私は小説を書かないかもしれない。し、もし私が理想と思うような男女関係が現実に、ざらにあったら私は小説を書かないかもしれない。しかし、私は今までそういう女や男女関係は見た事がない。さらに、もし、あったとしても書いているかもしれない。完全な一致というのはないだろうし、人間は歳をとっていずれ死んでしまうから、やはり書いているだろう。小説とは、朽ちていく現実に対して、朽ちていかない世界を紙の上に作りたい、というのが書く動機だから。

小説を書くのは、料理人のようなものだ。料理人は、おいしいと言って食べてくれる客の笑顔を見るのが料理人の喜びの全てである。それを見たくて、一生懸命、手をかけて、美味しい料理を作るのである。小説を書く人も、それと全く同じである。これは量の多寡は、違っても作品を書く人なら誰でも持っているだろう。

もし私が無人島で生きることになったら私は小説を書くだろうか。いつか救助されることが、確実にわかっているなら私は絶対、書く。しかし救助されないことが確実にわかったとしたら。その場合は書くかどうかわからない。

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