小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

嘉門達夫

2009-10-17 23:14:04 | Weblog
天才という言葉を安直に使うべきではないとは思っているが。そもそも、天才の定義は何なのか。E・クレッチュマーや宮城音弥が定義するところの天才の定義は、大体、同じである。
クレッチュマーの定義では嘉門達夫は天才と言えなくなってしまう。
しかし私は嘉門達夫を天才と言って全く差し支えないと感じている。言うなれば、嘉門達夫は自分の先天的な才能を見誤る事がなく、その感性で見事な独創的な作品を作っているからである。ああいう、同音異義語のギャグは、単なるふざけ、ではない。精神科医なら知っているが、統合失調症の患者に現れる言葉のサラダは同音異義語と大いに関係があるのである。統合失調症と天才は紙一重、という諺は大いに妥当性があるのである。私が嘉門達夫が好きなのは、彼はギャグを言うが、人をキズつける事を全く言わないその感性ゆえである。

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精神科医ほど人間の心理が読めない

2009-10-17 21:52:40 | 医学・病気
精神科医は、人間の心理を読める医者だと世間では思われがちだが、私は、前から精神科医の方が他科の医者より人間の心理が読めない、という思いを密かに持っていた。そして、ある時、他科の医者と話をして、その人が、ものの見事に、そのことを言って、しかも、理由まで、きちんと述べたので痛快な思いがした。
精神科医は、統合失調症の患者との会話が多いが、統合失調症の患者の訴えは、明らかに間違っている。そのため、どうしても、どうやったら、相手の考えの過ちを気づかせようかと、いわば、上から人間を見がちになるのである。それは、統合失調症に限らず、神経症、人格障害、などでも同じである。つまり、精神科医は精神を病んでいる患者ばかり診ているから、対話は、相手の考えの過ちを気づかせようとする説教的な気持ちになるのである。精神科クリニックに行く患者も、精神科医の意見を請いにクリニックに行く。そのため、会話は、対等というより、上下関係のある会話になりがちなのである。
それに較べると、他科の医者は、肉体の病気だから、対話は、対等であり、虚虚実実のやりとりになる。さらに、医者よりも、商談をまとめようとする商社マンの方が、もっと、虚虚実実の手に汗にぎる、やりとりが要求されるから、相手の心理を読むことに必死である。それに較べると、精神科医なんて、対話において、たいして緊張感など持っていない。精神の病人ばかりを診ているからだ。
精神科医が、詳しいのは、統合失調症の患者の病人に現れる特有の心理だけである。これは、専門的な知識が要求され、一般の人の常識的アドバイスでは、ダメな場合も多い。
そのため、精神科医は、精神を病んでいない一般の人の心理を読むのが特に優れているわけではない。

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ブルース・リーの蹴り

2009-10-17 21:52:40 | 武道・スポーツ
フルコンタクト系の空手の廻し蹴りは、足が、棒を振って止めた時のように撓る。一方、ブルース・リーの蹴りは撓っていない。映画をよく見てみればわかる。ブルース・リーの回し蹴りは、フルコンタクト系のような回し蹴りではない。空手の蹴りは流派やルールによって、外見の形は変わるが原理の基本は同じである。極真空手の第一回大会の時には、まだ撓る蹴りではなく、また、人によって間合いや、戦い方も様々だった。しかし、これは、全てのスポーツで言える事であるのだが、ルールというものが出来てスポーツ一つのとして完成されると、選手の体の動きは、そのルールの試合で勝つのに最も有効な形に変わっていくのである。スキーにしても、スキー板の性能の進歩によって、滑り方も変わっていく。テニスもラケットの進歩によって、フォームが変わっていく。それで、極真の場合を考えると、極真の試合では、一撃が敵に最も強いダメージを与えるように、蹴りの形が完成されているように見受けられる。そのため出来上がった蹴りが、あの脱力の撓るような蹴りとなっているのだろう。しかし、ああいう蹴りではブルース・リーが映画でやっているような、変幻自在の連続蹴りは、出来にくいのではないだろうか。私は、極真の試合は、ほとんど見た事が無いのでよく知らないのだが。実際、極真のルールの試合では、変幻自在の連続蹴り、というものは必要ではない。ほとんど相手と密着した状態での、パンチとキックのコンビネーションの洗練さ、であり、つまり接近戦で最も有効なキックである。一方、ブルース・リーは、映画でもそうだが、おそらく、截拳道の練習でもそうだろうと思うが、相手と距離が離れた状態から、飛び込んでのキックで最も有効なもの、という観点で考えられているから、撓らないテコンドー的なキックになっているのだろう。

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注射の出来ない医者

2009-10-17 02:21:53 | 医学・病気
家の割と近くのクリニックに点滴の出来ない医者がいる。
「点滴に自信ありますか」
と聞くと、
「失礼な」
と怒る。プライドが高くて怒るのは、いいが、それならちゃんと点滴を血管に入れてみろ。5回も6回もやっても、入れられないのである。私は痩せていて、静脈が浮き出ているから、非常に入れやすい理想の血管である。他のクリニックのナースで外された事はない。一発で入る。私の血管に入れられないのなら、太った人やDMの人ではとても、入れられないだろう。普通、注射は医者よりナースの方がうまいのである。だが、そのクリニックでは、ナースもまともに注射が出来ないのである。ルート確保など医者の常識である。血圧下がった患者に、ルート確保出来なかったらボスミン(昇圧剤)入れられないではないか。ルート確保できずに患者を死なせたらシャレにもならない。練習する機会はいくらでもあるのに、いつまでたっても下手で出来ないのである。私が研修医の時は、私は最初の半年は、注射の練習にあけくれた。ルート確保は医者の基本中の基本であるからである。看護婦もやる気のないヤツばかりである。診療時間が終わったら、ごろ寝してテレビみるより、注射の練習をしようという覇気のあるヤツなどいない。根性が腐ってる。普通の真面目なナースは、注射は絶対的に基本的な事であるという自覚があるから、自分の弟を使ったり、あるいは、生徒どうし、お互いに必死で注射の練習を看護学校時代にする。医療は人の命をあずかる仕事である。いいかげんな気持ちで、やる気がないなら、医学部や看護学校へ行くべきではない。

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私はテロを是認する

2009-10-17 01:44:12 | Weblog
私はテロを是認する。だが私はテロを是認する、と発言したところで、私には何の権限もないから、どうなるわけでもない。それにテロリストはテロを起こすべくして起こしているのだから、どんなに治安のいい民主主義国家にあってもテロリズムを無くす事は不可能である。ということで、これは私の思いにとどまる。
ただ私が是認するテロリズムには、絶対の条件がある。それは、テロリストがその人の思考の限界でテロを起こすべきだと判断している、というのが一番目の条件である。二番目の条件は、テロを行なった場合、そのあと逃げ隠れせず、しっかりと責任を取る、という事である。これには、自殺という責任の取り方もいいだろうし、警察に自首して、司法の判断をあおぐ、という方法のどちらかである。
もしも誰かが、私を殺すべきだと、その人の思考の限界で判断したなら、私はその人のテロを認める。ただし、その後、逃げ隠れするような卑怯な二番目の条件のないテロリズムは認めない。
ただ、テロリストの思考の限界と言っても、洗脳ということが絡んでくると、ややこしくなる。洗脳された人の思想とは、その人の思想とは、言いにくいからである。
具体例で言うと。オウム真理教は、テロをした人は洗脳されているので、やっかいであ。しかし私はオウム真理教のテロを認めない。テロをした後、逃げ隠れして、第二の条件を守っていないからである。
2001年9月11日のアメリカのテロの場合。第一の条件も第二の条件も守っている。もっとも、組織的なテロだから上層部は逃げ隠れしているから、第二の条件を守っているとは言いにくい。そして、もう一つ、乗客という無辜の人間を道連れにしている、という点で、私はこのテロも認めない。というより私が是認するテロの条件は、三つあって、三番目は、目的と無関係の無辜の人間を殺さない、という事がある。そして、四番目の条件では、組織ではなく、孤独な個人のテロだけを私は認める。その四つの条件が満たされていれば私は、テロリストに甘んじて殺されてもいい。
私は、小泉の無条件のテロリズム否定に反対である。小泉の支持率が高かったのは、任期中に、9・11とか、北朝鮮の拉致問題で、平壌に行ったこと等があるだろう。「テロは断固として許されるべきものでない」と言った、あの嬉しそうな顔。氏にとっては、9.11は自分の正義感をアピール出来る最高の出来事だった。アホである。テロされる人間には何らかの思想的問題があるからテロされるのである。テロというものは無条件に否定すべきものではないと私は思っている。
日本人の好きな、忠臣蔵、にしたってテロである。

オウム真理教のテロの場合、麻原が首謀者であるが、テロの動機が、彼の純粋な思考ではさらさらない。麻原の、自分が日本に認められなかったための感情的な復讐心という低レベルな動機である。そしてテロした後、責任もとらず、逃げ隠れしたからオウムのテロは全く認めない。もし動機が純粋でテロの責任をとっていたなら私は認める。

「正義は成就されよ。たとえ世界が滅びるとも」
(カント)

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