天才という言葉を安直に使うべきではないとは思っているが。そもそも、天才の定義は何なのか。E・クレッチュマーや宮城音弥が定義するところの天才の定義は、大体、同じである。
クレッチュマーの定義では嘉門達夫は天才と言えなくなってしまう。
しかし私は嘉門達夫を天才と言って全く差し支えないと感じている。言うなれば、嘉門達夫は自分の先天的な才能を見誤る事がなく、その感性で見事な独創的な作品を作っているからである。ああいう、同音異義語のギャグは、単なるふざけ、ではない。精神科医なら知っているが、統合失調症の患者に現れる言葉のサラダは同音異義語と大いに関係があるのである。統合失調症と天才は紙一重、という諺は大いに妥当性があるのである。私が嘉門達夫が好きなのは、彼はギャグを言うが、人をキズつける事を全く言わないその感性ゆえである。
クレッチュマーの定義では嘉門達夫は天才と言えなくなってしまう。
しかし私は嘉門達夫を天才と言って全く差し支えないと感じている。言うなれば、嘉門達夫は自分の先天的な才能を見誤る事がなく、その感性で見事な独創的な作品を作っているからである。ああいう、同音異義語のギャグは、単なるふざけ、ではない。精神科医なら知っているが、統合失調症の患者に現れる言葉のサラダは同音異義語と大いに関係があるのである。統合失調症と天才は紙一重、という諺は大いに妥当性があるのである。私が嘉門達夫が好きなのは、彼はギャグを言うが、人をキズつける事を全く言わないその感性ゆえである。