小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

幸いなるかな心貧しき者

2009-10-21 23:19:56 | 考察文
幸いなるかな心貧しき者、天国は汝らのものなり(マタイ伝5章3節)

これはキリストの言葉である。この意味が解る人がクリスチャンの中にでもいるだろうか。私は中学、高校とミッションスクールである自由学園で過ごしたが、毎日、礼拝があった。私はこの文に躓いた。
「なぜ心の貧しい者が幸いなのか」
これは日本語としてなっていない。
「幸いなるかな心豊かな者」
なら正しい日本語である。誰も納得する。では、なぜ心の貧しい者が幸いなのか。多くのクリスチャンは、「心貧しい」の意味をこう解釈するだろう。「心貧しい」とは、「おごらない者」「へりくだった者」「おのれの愚かさに悩む者」などなどと。理想的模範解答的解釈である。しかし私は全く、そうは解釈していない。ではさらにクリスチャンの方々に質問したい。ではなぜキリストは、
「幸いなるかな、おごらぬ者」
「幸いなるかな、へりくだりたる者」
「幸いなるかな、おのれの愚かさを知る者」
と言わなかったのか。そう言った方が解り易いではないか。日本語としても全く矛盾がない。そう言わなかった理由を答えられるクリスチャンはいるであろうか?
おそらくいないと思う。私の解釈はホームページの「失楽園」という小説に書いてある。
キリスト教を博愛の宗教と思っている人はよほ、どおめでたい人である。勿論、そういう人は聖書なんか読んだことのない人である。聖書を通読すればわかるが、キリストはかなり過激な事を言っている。当然、私はそれらの意味を全部、説明できる。ミッションスクールや教会でも、キリストの無難な発言だけをとりあけで話すが、キリストの過激な発言は決して触れない。まあ、ミッションスクールの礼拝では、それでもいいとは思うが。クリスチャンは意味の解らないまま、お人よしとして一生、過ごすのものいいのではなかろうか。

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