城郭 長谷川博美 基本記録

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魏志倭人伝と神武東征神話の構成比較考察

2024-03-20 09:46:17 | 比較研究論

魏志倭人伝と神武東征神話の構成比較考察

◆質問者

魏志倭人伝と『記紀神話』には

共通項目があるのでしょうか?

古代邪馬台国と古代大和朝廷は

何らかの共通点があるのかと?

 

◆長谷川

方や中国側から書かれた古代

日本史です方や大和朝廷側が

国家形成経緯を記した神話の

世界なので区別して考える事

が必要であると思われますね。

 

◆質問者

邪馬台国の幹部構成とは何?

南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

 

◆長谷川

女王 斎主 卑弥呼   ひみこ

官  大臣 伊支馬   いきま

官  大臣 彌馬升 やましょう

官  大臣 彌馬獲支 やまこき

官  大臣 奴佳鞮    ぬかて

の四官 大臣達を表現しております。

倭人伝には卑弥呼の食膳を給する

弟の1名の大膳職のような弟王も記録

 

◆質問者

『記紀』神武東征神話の編成とは

 

◆長谷川

九州 天照大御神 斎主 神格化女神

神武東征軍

 

1長兄:彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、五瀬命(いつせのみこと)

戦死

2次兄:稲飯命(いないのみこと)、稲氷命(いないのみこと)

『新撰姓氏録』右京皇別下の新良貴条には、稲飯命が新羅に渡って国主となったとの所伝がみえる。『古事記』の海原に入ったという伝承や、『日本書紀』の海に身を投じたという伝承から作られた物語と考えられている。

入水自殺

3三兄:三毛入野命(みけいりののみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと

『日本書紀』神武即位前紀では、兄弟とともに神武東征に従うが熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか」と言って、波頭を踏み、常世に行ったとしている。

『古事記』では、事績は何も記されずに「波頭を踏んで常世の国に渡った」とだけ記されている。

考証[編集]

名前の「御」は敬称で、「毛」は「食物」、「沼」は「主」を意味するとされる[1]

伝承[編集]

宮崎県高千穂町の伝承では、三毛入野命は常世に渡ったのではなく、兄弟たちからはぐれてしまったので、出発地の高千穂に帰還したとする。高千穂には「鬼八(きはち)」という悪神がいて、人々を苦しめていたので、三毛入野命はこれを退治し高千穂の地を治めたと伝えている。

入水自殺

 

4末弟:神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)

神武天皇として奈良盆地の大和朝廷を草創

 

◆長谷川

以上は魏志倭人伝卑弥呼の

邪馬台国の四官の編成は全

く同じ傾向を示しています

四臣制度のようなものです。

 

◆質問者

何故?次男三男は水中に消えて

しまったのでしょうかね?彼等

は王室の血族で臣下ではない

のですが?自殺しのたの?

◆長谷川

古代の豪族の海洋航行自体が

漁労や物資運搬ではなく政治

的まつり事つまり祭祀である

と考えて下さい。船旅の祭祀

担当が持哀と呼ばれています。

▼三重 宝塚一号墳 舟形埴輪

船形各部位

◆長谷川

魏志倭人伝は古代の倭人達の

航行を祭祀と捉えております。

航行の安全祭祀を行う者達が

倭人伝は「持哀」と表現して

います。もし海が荒れた場合

は「持哀」航行不安全の責任

をとり入水自殺をする事なっ

ています。ヤマトタケル東征

神話などではタケルの妻たる

乙橘姫が入水自殺をしてます

タケルは嘆き悲しみ関東から

大和に帰る時東を見て「我が

妻よと悲しんだ」我妻こそが

東国、あずま、の起源する事。

▼倭人伝の航行 持哀の記録


  其行来渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人
  如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之
  謂其持衰不勤

「その行来して海を渡り、中国に詣るに、常に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服を垢汚し、肉を食らはず、婦人に近づかざらしむこと、喪人の如し。これを名づけて持衰と為す。もし行者に吉善あらば、共に、その生口、財物を顧す。もし疾病有るか、暴害に遭へば、さらに之を殺さんと欲す。その持衰が勤めずと謂ふ。」

「海を渡って行き来し中国を訪れる時は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人に近づかせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。もし無事に行けたなら、皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。そのジサイに至らぬところがあったというわけである。」

 

◆質問者

磐船・岩船(いわふね)とは?

◆長谷川

貴人が乗船して巡航する船舶

の事でしよう。ただの船では

なく神事の一環として考える

出航には日和「ひより」つま

り占いがつきものであろ。

 

 

鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)は、日本神話に登場するであり、また、神が乗るの名前である。別名を天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、天鳥船(あめのとりふね)といい[1]天夷鳥命(阿波伎閉委奈佐毘古命、稲背脛命、大背稲三熊大人、武三熊命)と同神とする系図がある[2]

 

◆質問者

神武東征記に天の八咫烏「ヤタガラス」

を天照大御神が遣わしたとありますが

皇室に伝わる八咫鏡とはどの様な形?

 

◆長谷川

神宝の八咫鏡の現物の実態は全く

解っておりません九州の平原古墳

からは46㎝もある大鏡が数枚出土

をしております。

◆質問者

もしかすると邪馬台国の4臣制度

を考えると4臣は直接王族でなく

邪馬台国の臣下であったと推定

をすると新生近畿の大和へと九州

にから近畿に派遣された4将軍と

言う事なり一番末弟の人物こそが

神武天皇と後に追号された

 

 

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衝撃隘路要衝の地 ! 山崎合戦 賤ケ岳合戦 関ケ原合戦 大小2城理論!

2024-03-17 14:42:51 | 比較研究論

衝撃隘路要衝の地 ! 山崎合戦 賤ケ岳合戦  関ケ原合戦 大小2城理論!

◆ウイッキペデイア引用

山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、

天正10年(1582年6月2日本能寺の

を受け、6月13日(西暦7月2日)に

摂津国山城国の境に位置する山崎

京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城

京都府長岡京市)一帯で、備中高松城

の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉

軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が

激突した戦い。古来天王山の戦いと呼ばれ

てきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも

呼ばれる。

 

◆質問者

石清水八幡宮には男山城が築か

れた事がピントと来ないです?

 

◆長谷川

大変良い質問をされますよね?

今回の投稿の重要ポイトです!

 

◆ウイッキベデイア引用

光秀は10日に秀吉接近の報を受け、

急いで淀城勝龍寺城の修築に取り

掛かり、男山に布陣していた兵を

撤収させた。しかし、光秀は予想

を越える秀吉軍の進軍に態勢を十分

に整えられず、2倍から3倍とされる

兵力差のまま決戦に臨むこととなる。

◆長谷川

戦略街道を大小2城一組の城で

要衝を確保する為大小の2

一組説を今回解説をしますね。

 

◆質問者

山崎合戦で智将明智光秀は

天王山と男山と言う2カ所

要地を秀吉方より早く確保

したのに此れを放棄した事

は明智光秀の愚策だと思う?

この2城確保は戦略上重要!

 

◆長谷川

確かに光秀は戦略の要衝たる

天王山と男山を2カ所を捨て

勝竜寺城や淀古城を修築して

自身は御坊塚/恵解山古墳へ

布陣した事はある意味山崎

の隘路を順次侵犯侵入して

来る秀吉軍を順次鉄砲射撃

で迎撃させようとさせる為

の正論と言えるが要するに

水道栓が破損し水漏れした

場合その水量が膨大な量の

場合は防ぎ切れずに防衛腺

が破綻する事は必定ですよ

 

◆質問者

石清水男山城つて大事なの?

 

◆長谷川

明智と筒井が連携協力して

小城の男山に伏兵をおいて

秀吉方がこれを兵法の常識

「弱く小さい城」を攻めた

場合明智と筒井グループは

必ずは緒戦で一旦勝利可能

な地勢が石水男山の地理的

な立地条件だと言えますが

筒井は明智を見限って本国

大和に帰り籠城の準備始め

た光秀は筒井と自軍合流を

して緒戦勝利を制する構想

が破綻した事を意味します

 

◆質問者

山崎合戦勝利後羽柴秀吉は

天王山山崎の地をどうした?

 

◆長谷川

西国街道の山崎宿を掌握して

天王山山頂に山崎合戦戦勝の

PRモニユメントである山崎城

の建築を始めたと言う事です

つまり畿内と天下を掌握した

印象を世に喧伝する為の城で

早く作る必要にせまられた城

だから山中に転用財が多い!

華々しい秀吉政権発足記念の

山崎合戦勝利の トロフイー

の役目を担った象徴の城です。

清水男山は小城ですから是は

普請はしない訳です弱いママ

にしておかないと小城の意味

が消失してしまいますからね!

◆反論者

長谷川氏の大城小城の理論は

1583年天正11年の賤ケ岳合戦

には全く当てはまらないです!

 

◆長谷川

そうでしょうか?秀吉は北国

街道の木之本宿の田上山城を

大規模な大城として普請した

小城の賤ケ岳城の2城を合戦

初期段階の3月には2城を普請

をしています。これは天下の

要衝大山崎の天王山城男山城

の2城図式と全くおなじです。

田上山と賤ケ岳は『信長公記』

の天正元年に既に記録に登場

していて既にその原型履歴が

つまり戦略城郭の履歴がある。

 

◆対談者

さすが文献をよく読んでる人

名古屋で『信長公記』解説し

た優れた文献解説家と言える。

 

◆長谷川

方や京都と摂津西国の要衝地

方や北陸と近畿の要衝の関門

たる木之本宿を秀吉は大小2城

田上山と賤ケ岳に築城をします

田上山城が大城で賤ケ岳が小城

◆質問者

何故?佐久間玄番は賤ケ岳

に向けて柴田軍前線将兵を

集中させたのですか?

 

◆長谷川

簡単な事ですよ。北国軍柴田軍

は小城の賤ケ岳城を先ずは奪取

して秀吉との合戦有利を全国に

宣伝する目的と必要があった訳

柴田は老獪堅実だと言う印象を!

勝家方には浅見道西という湖北

山本山系に精通した武将が存在

し賤ケ岳を取れば秀吉方の長浜

城の攻略の安全で堅実ルートの

奪取確保になる訳で将棋飛車道

秀吉は山本山城攻撃した経歴が

元亀年間に存在して柴田軍進軍

シュミレートは事前想定してた

柴田方を賤ケ岳に引き付ける事

そして美濃大返しをして田上山

城の木之本宿軍と合流して湖西

丹羽長秀とも賤ケ岳上で合流し

柴田を包囲殲滅する構想をして

た上手く大城と小城を使い分け

た構たえを見せている訳ですね!

 

◆長谷川

大城とは陥落させてはならない

鉄壁の城の構造にして然るべき

秀吉の弟秀長に此れ田上山城を

守らせています。小城賤ケ岳城

は敵が攻めてくること予想した

誘い水の役目の城として築城!

◆長谷川

山崎合戦でも光秀は筒井を催促

しています。小城の石清水男山

へと秀吉を誘い小城で明智筒井

連合合策を構想したのだが筒井

に振られたと言う事ですね最も

秀吉方の方が合戦の現場の読み

シュミレートがなされて男山に

は手を出さなかった1枚上手だ。

明智見事に筒井に見捨てられた。

細川にも瀬田の山岡も見捨てら

れ組下の高山や中川にも離反を

されボコボコにやられた訳だ!

さも信長存命の虚説を巷間に

流布させた藤吉郎羽柴筑前守

の心理戦略の狡猾さ天下逸品!

 

◆批判者

長谷川さんは幻想論者です。山

崎に2城あった事など記録にない

 

◆長谷川

ふふふふそうでしょうかね?

ウイッキペデイア引用です。

秀吉その頃、「山崎宝寺のうへに城をかまへ居給へり、されども、この所思ひ定ざるにや、はかばかしく構にもし給ざりけり」(『豊鑑』)とし、これは竹中重門が著したもので、それほど重要な城郭ではないとしている。それとは別に『イエズス会日本年報』では、「羽柴は甚だ堅固な城を二つ山崎及び都より三レグワの八幡に築いたが、柴田及び三七殿は大いにこの築城を不満とし、人を遣はして、最初の協定においては彼等は対等であったが、その後見るところによれば、彼は自ら天下の絶対の君主とならんとする志を示している。よって直に二城を破壊すべく、もしこれをなさざれば、冬が過ぎて彼を撃滅すると言いはせた。羽柴はこれに答へて、彼等もし来ることを得ば待つべく、何人が天下の君となるか各自の腕によって定めようと言った

一五八四年一月二十日付 パードレ・ルイス・フロイスより
インド管区長 パードレ・アレッサンドロ・バリニヤノに贈りし書翰」(『イエズス会日本年報』)と記している。ここに記している八幡というのは、石清水八幡宮のことで男山頂に築かれた男山城を指している。『豊鑑』の「はかばかしく構にもし給ざりけり」と『イエズス会日本年報』の「甚だ堅固な城」との間にはへだたりがある。清洲会議がどのよう協定だったか日本側の史料には記載がなく、イエズス会日本年報に城郭に関する取り決めらしきものが窺い知れる。

また、秀吉が毛利輝元に出した書状に山崎城に関する記述がある。

「大相国吊いとして御使僧差し上され、青銅万疋贈り、御意を懸けられ候、誠に御念を入れられ示し預り候段、謝し申しがたく候、しかして、畿内の要に就き候、御使僧見及ばる如くに候、山崎において我等普請申し付け候故、吊いの儀、まず延引せしめ候間、彼の仏事執行候刻、仰せをこうむるべく候、御使僧へ申し渡し候、恐惶謹言 七月十七日 秀吉」

大相国とは主君織田信長を指しており、信長の死を悼み、弔意として青銅を送ったことに対する礼状である。文中には山崎城を築城していることも記しており、清洲会議から20日程度たった天正10年(1582年)7月17日には普請が開始されている。

最後は吉田兼見の日記には、「今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、奉公罷リ越ス」天正十二年三月廿五日条(『兼見卿記』)とあり、山崎城には天守があり、廃城日は天正12年(1584年)3月25日となっている。

 

◆北近江人

近江浅井氏の小谷城に大城

小城は存在したのですか?

◆長谷川

簡単じやないですか?北国道

を挟んで浅井氏は虎御前山城

も元来保持して街道を確保し

管理してきた戦国大名ですね。

 

◆北近江人

大城が小谷城で小城が虎御前山

城とすると虎御前山城に手を出

した武将とは誰ですか?信長?

 

◆長谷川

小城に手を出して小谷城攻め城

として拡張したのは織田信長!

 

◆対談者

当たってますね!長谷川先生の

大小2城理論が適格に該当する!

 

◆美濃人

織田信長は何故鷺山城の斎藤

道三と盟約を交わしたのか?

◆長谷川

岐阜稲葉山城は一大物流大河

長良川に面す斎藤義龍の大城

ですね。ならば信長は小城の

鷺山政権と外交関係を先ずは

締結しておくべき事です信長

の正室は鷺山殿「濃姫」です。

 

◆美濃人

そんな視点で稲葉山や岐阜の

歴史を僕は認識してなかつた。

 

◆南近江人

織田信長とは何故?佐々木六角

の本城でなく箕作城を攻めたの?

◆長谷川

上街道「中山道相当」の両側には

大城の観音寺山城がある一方小城

は箕作山城と言う事になる従って

信長は、小/子城の箕作山城を織田

主力柴田/丹羽/佐久間/羽柴を差し

向けて先ず先勝しようと小城へと

と照準を彼は合わせていますよ!

これが正攻法の正論です。弱い城

を攻める事『孫子兵法』のあると

おりです。

▼続々集まる米原長谷川歴史講座

◆長谷川

また信長は下街道を整備して

安土城を居城として近江衆の

観音寺城の屋敷は残して置い

た可能性も出て来ます。

◆反論者

四流の無名学者長谷川氏の講座

講演が思わぬ人気を得ている事

はアンチ長谷川派としては気に

食わない!我らがこそが正統の

主流である事は絶対に確固たる

盤石の自信がある。長谷川氏の

2城論は天下の街道を扼する関

2城を築く事で合戦の帰趨が

決定されると言うものだろうが

それは日本最大の合戦関ケ原の

合戦では全く適合しませんよ!

 

◆反論者

そうだよ!長谷川如き4流の学者

が生意気に関ケ原合戦を語るな!

◆素朴城址見学派「長谷川派」

そうですかねえ?石田三成普請

し伊藤氏にその管理を任せて

いた不破郡松尾山城は複数曲輪

が存在する『大城』と言う事は

長谷川先生の現地見学会に参加

をした人なら明白に解る事です

小早川秀秋松尾山城13曲輪構成

毛利秀元の南宮山山城3曲輪構成

これどう見たって天下関門関ケ原

の主導権を握っている「天王山」

とは不破郡の松尾山城と言う事は

長谷川先生要衝合戦2城論が正論

で冷静な歴史城郭学者という事が

明白でしょう!いやいや関ケ原の

キーマンは小早川秀秋と言う事だ。

 

関ケ原合戦2城論

大城 小早川秀秋

松尾山城凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸

 

小城 毛利秀元

南宮山城凸凸凸

 

◆反論者

しまった!長谷川ごとき4流学者に

山崎合戦

賤ケ岳合戦

関ケ原合戦

の2城理論を指摘看破されるとは

我々大手の主流学派の名折れだ!

◆多賀町民様

ふふふふ我ら多賀住民は抜け目

がおまへんで!4月13日長谷川

先生を迎えての民衆の為の民衆

による歴史城郭大講演開催する

これが犬上郡多賀の誇りです!

 

◆質問者

羽柴秀吉は大小2城を巧みに交通

の要衝に配置してた長谷川理論

は卓越理論だと思います。学問

は先学の理論を模倣踏襲すだけ

のフオロアー学問に終始しては

学問の進捗は望めません。それは

我々大衆や民衆が認識をしておく

べき事ではないでしょうか?氏を

押す人々は純心で向学心ある方々

だと思います。私が秀吉の桃山城

を考えるに長谷川理論は適応相応

伏見城には真に的中しています!

 

◆長谷川

私の様に路傍に捨てられた捨石

の様な人物にエールを賜り感謝

を申し上げます。たしかに伏見

城とは大城の「伏見城」小城の

「向井島城」この2城の並立さ

て成立する城郭であった事は

確実と言えます。2城制度は

秀吉の城郭構想の特徴を端的

に表していると私は思います。

ウイッキペデイアより引用

向島城は、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉によって伏見城支城として宇治川を隔てた南側に築城された。 元来、観月橋の地名が残るなど、月見の名所でもあり、月見用の城として築かれた城郭だったが、慶長元年(1596年)に起こった大地震(慶長伏見大地震)により、伏見城指月城)が崩壊すると、秀吉は一時居所を向島城へ移し、 慶長2年(1597年)に木幡山の新しい伏見城が完成するまで、仮の居城とした。

秀吉の没後は、徳川家康石田三成が対立することとなり、豊臣政権の分裂による衰退を危惧した五大老前田利家からの提言で、伏見城下の上屋敷で政務と執っていた家康は、三成の襲撃に備えて、向島城へ居所を移して修築を行ったとされる。

慶長4年(1599年)、利家が死去すると、朝鮮出兵以降三成に不満を持っていた加藤清正福島正則黒田長政池田輝政細川忠興浅野幸長加藤嘉明の武断派七将が三成を襲撃する事件が起きた(石田三成襲撃事件)。

この時に三成は、向島城で家康により保護されたとされる。

◆支援者

素晴らしい長谷川先生の解説

解釈は模倣型学者問ではなく

比較研究論を用いた気付学問

つまり米原でしか講義してい

ないメイドイン米原学だと言

う事が解ります。

◆長谷川

3月28日木曜午前10時開催です

宜し御参加をお願い致します。

 

 

 

 

 

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城郭視座城郭視点の個人的差異

2024-02-04 07:17:05 | 比較研究論

城郭視座城郭視点の個人的差異

◆対談者

ついた先生学んだ本により城郭

の先生の解説も異なる訳ですね?

 

◆長谷川

当然ある訳で発生する事です!

◆対談者

東海地方の尾張名古屋城天守

の大筒狭間は非常に有名です

だれもあれを石落としなどと

言う人は全くないでしょう!

◆長谷川

大坂城玉造口の石狭間見学を

される観光客様は恐らく皆無

の事であろうと思います。

私も新人の研究家ながらもう

1980年から2023年まで研究家

として短いながらキヤリヤ積ん

んでますから石狭間ではなく

土塁に開けられた土狭間何城

も計測している訳なのですよ。

研究家長谷川の概念としては

もう土狭間はよくあるケース

なので伊賀名張柏原城などの

解説なども素朴に土狭間です

と解説した訳なのですが初め

て単体柏原城を見た人は石落

だと信じて疑わない訳ですね。

そんな討論していると城内側

見学をカットせざるを得なく

り時間軸の調整が破綻した

そういう討論の場とは通常の

場合城郭講座の質問会で願い

たいと常々考えております。

探訪会は時間との戦いです。

 

◆質問者

絵画資料における石落としは?

こんな感じが石落としですね?

◆質問者

こんな物が果たして城と言える

のでしょうか?石垣も瓦も存在

しない野戦陣地の現場と私達は

感じてしまう訳ですよ。

◆長谷川

私からみれば これは塁腺上に

張り出した矢倉のある城郭です

が日本全国の多数の方は石垣が

城の本命と考えておられる事!

丁寧に遺構観察すば矢倉土壇

や塀の痕跡は観察可能ですよ!

戦いの為の施設が城だと私は

考えている人間だと思います。

◆質問者

長谷川先生が一文字土塁など

現地解説されても全く面白く

ないのですが?

 

◆長谷川

そうでしたか?私は秋の夜長

物語にある陣城の土塀に強く

興味を惹かれます。この絵画

には矢狭間も描かれている事

担盾を並べた矢倉も見られる

◆反論者

でもこれ塀なの柵なのか解ら

ない欠陥絵画かと思うのです。

 

◆長谷川

私は19歳の頃『築城記』なる

文献を國學院大學の図書館で

閲覧致しました。その中には

城の柵には塀を塗る例がある

と書かれている文言がある事

を覚えています。『築城記』

を読むとは字面だけ読んでも

応用と言うものが効きません。

 

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畿内天下人 畿内管領代 六角定頼の行軍 信長の行軍 比較研究

2023-12-30 18:19:01 | 比較研究論

畿内天下人 畿内管領代 六角定頼の行軍 信長の行軍 比較研究

 

◆対談者

『信長公記』解説講師として

の長谷川先生の側面を評価し

ています。天正元年織田信長

は近江浅井氏の小谷城を攻略

する為に小谷城より高い位置

にある焼尾砦や大嶽城を占領

してから低い位置にある小谷

城を逐次落城させる正攻法を

採用していますが一般の方は

奇妙な戦法の様に感じる事で。

 

◆長谷川

高きに陣して低きを攻める事

が兵法の常套と言える事です。

六角定頼は中山道筋からは南

坂田郡の梅ケ原の平野館や鳥

居本の畑氏城館を高所のりょ

うせんから攻めている事こそ

着目すべき事でしょう。そこ

「りょうせん」には謎の巨大

城郭男鬼城も存在する事など

は注目すべき事と思われます

何しろ男城は異様な規模の城

大名級の領主の城と言えます。

◆長谷川

りようせん=高山の霊仙山から

と言う解釈よりも六角定頼軍が

男鬼入谷城方面から南坂田郡の

鎌刃城を攻略を進めている様子

が天文4年の書状から分析可能な

事でしょう六角定頼流石は名将

鎌刃城攻略を急がず今井尺夜叉

丸に南近江に一旦帰陣を命じて

おります。これは北近江方軍の

浅井亮政の坂田郡への統治が予

想以上に進捗していた事を暗示

する文書と言えて天文5年浅井

亮政の米原松尾寺の禁制は此れ

を証明するものでしよう。天文

7年六角定定頼は鎌刃城を落城

させていますがこれは霊仙方面

に彼の軍事行動が行使され実施

されていた事だと言えましょう。

◆質問者

かつて武奈、妙高と言う集落

が霊仙山系に存在致しました

が戦乱を想起させる小字名称

はありますか?

 

◆長谷川

それは古戦場でしょうね。

合戦場とも発音してます。

 

◆質問者

六角定頼と織田信長の共通根は?

 

◆長谷川

両者ともに楽市経営をしている

両者ともに小谷城を攻略してる

両者は浅井の草野谷へと攻した

定頼は足利義晴の管領代に

信長は足利義昭の庇護者に

定頼の死後六角は定頼を祀る

江雲寺御殿を建立している。

信長は安土築城に際して定頼

の江雲寺御殿を安土城に移築し

ている。六角の観音寺城とは

石垣作りで信長の安土城も此れ

模倣し石垣作の安土城築城し

加えて楽市も開催しており信長

の手本は畿内管領代六角定頼を

規範とた事が類推可能ですよね。

公方つまり将軍はお飾りであり

実際の政務や差配は管領職代が

これ実行していた。六角定頼は

伊賀国も実質支配していますし

信長も天正伊賀の乱で伊賀支配

を推し進めましたが息子信雄が

伊勢から伊賀に信長の裁許なく

攻め入り失敗した事を信長公記

おいては大きく糾弾していま

す。信長のビジョン展望を信雄

が先走りをして失敗したら親の

織田信長が不機嫌になって当然

事で会社で言えば稟議書なしの

勝手な先走り的計画と言えます。

 

◆質問者

六角定頼と織田信長の共通根が

多いのは何故?尾張から見れば

近江六角は遠国です。六角定頼

事績をだから耳学問したのか?

 

◆長谷川

これは推測の域を出ないのです

が信長の母は六角の縁者だった

説があり六角定頼は現代歴史家

が評価する以上に管領代として

近畿を差配する武家の鑑として

信長の幼少期には六角定頼の影

に落としているのかもしれませ

ん英傑六角定頼の歴史研究評価

が進捗していない事も残念な事

で私など六角定頼とはまさに星

の様な武将であり観音寺城など

も石垣作の中世城郭として日本

最大級の王者の城と言えます!

 

◆長谷川

 信長の小牧山城に豪壮な石垣

が出土しています。これを石垣

城郭安土城への先駆と評価する

事もできますが信長は六角定頼

の石垣城郭観音寺城や六角定頼

への憧憬を幼少期から抱いてい

とすれば小牧山城の石垣作りは

納得出来ますよ。誰しも自分の

憧れていた人の影響は必ずしも

受けるのが人間の常と言う事。

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伊賀伊勢一揆勢の城郭比較研究論

2023-10-29 18:20:53 | 比較研究論

伊賀伊勢一揆勢の城郭比較研究論

 

◆対談者

両者の社会的要因や構造的要因を

比較研究する事が比較研究論です

今回伊勢伊賀の一揆の城の両者を

城郭ビイスタ理論を用いて解説を!

 

◆長谷川

一揆とは何でしょうか?時の政治

権力者には服従したくない地域に

割拠する在地武将拠点が一揆の城

伊賀惣国一揆の富増伊予守の城の

掛田城は非常に進歩的な測量縄張

重複ビイスタ工法が読取れますね。

 

◆対談者

それならば長島一向一揆の城にも

重複ビイスタ存在するのか発想を

する事が比較研究論といえます。

 

 

◆長谷川

長島一向一揆側の柚井城「ゆいじょう」

は典型的な重複ビイスタと言えますね。

◆対談者

じやあ長島一向一揆側の城

長島城に重複ビイスタとは

存在しましたか?

 

日本の城の縄張の真髄 重複ビイスタの類例 - 城郭 長谷川博美 基本記録

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似て非なる城おもしろ学▼伊賀下山甲斐守城▼会津神指城重複ビイスタ▼会津神指城地籍図の重複ビイスタ相模丸山城重複ビイスタ▼伊勢矢鉢城重複ビイスタ北畠信雄近江村雨城寺前...

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◆長谷川

ハッキリと明言できませんが

長島一向一揆の長嶋城も重複

ビイスタの可能性があります。

◆質問者

天下統一を目指した覇王信長

の安土城は扇型ビイスタです。

◆質問者

覇王織田信長の覇業を継承

したのが太閤秀吉文禄慶長

の役の肥前名護屋城も扇型

ビイスタと言えると思う。

◆質問者

物は考えようで一番長く籠城した

石山本願寺は10年も時の権力者の

織田信長に抵抗し続けた一揆勢力

寺院勢力と言えます。顕如さんの

石山本願寺城は扇型ビイスタ城郭

ではなく本願寺系の重複縄張系統

の縄張を秀吉が踏襲したと私考え

ますが?

◆長谷川

面白い視点の比較研究論ですね!

確たる事は明言できません秀吉

の大坂城は扇型ビイスタよりも

重複ビイスタつまり本願寺縄張

を踏襲している事も考へましょう

 

◆長谷川

大坂本願寺を退去された顕如さん

が紀州鷺ノ森本願寺でも重複型の

ビイスタが読み取れる事も重要。

 

伊賀掛田城の幾何学縄張考察 - 城郭 長谷川博美 基本記録

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