城郭 長谷川博美 基本記録

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石川数正 男の決断  松本城ビイスタ工法

2023-09-06 12:25:14 | ドラマ鑑賞

◆質問者

徳川家康の右腕とも言える

重臣石川数正がなぜ出奔し

て秀吉に仕えたのか?未だ

解明されていませんが?

 

◆長谷川

石川氏は豊臣と徳川の和平

交渉を担当する役目があり

戦闘を主張する徳川譜代の

家臣団と亀裂が発生し秀吉

に臣従する道を選択したの

かもしれませんが単に秀吉

誘降策「たらし」や人材

搾取確保戦略ヘッドハンテ

イグに応じただけと考える

も居ます。家康幼少期か

ら苦楽を共にして来た譜代

三河武士が軽率に三河武士

の面目も捨さり単純に秀吉

に内応したとは考えにくい

ですね。

 

◆長谷川

石川氏が徳川と豊臣の和平

を模索すると秀吉に実戦の

現場小牧長久手で圧勝した

と認識していた好戦的三河

家臣達と石川氏の和平希求

の道とは当然齟齬や食違い

が発生する事は至極の事で

す。後年に家康は大坂淀殿

と手切れになった際に逆

に淀殿方の重臣片桐且元が

出奔するような策を取って

います。大坂豊臣方の抗戦

主張派と片桐の浅井氏血脈

を淀殿秀頼と継承して行こ

うとする片桐氏のお家大事

的ロイヤリテイ思考と豊臣

の元に集結した野望丸出し

浪人衆とでは意見が合わな

い事は当然と言えます。家

の執事とは家の存続を一番

に願うもので、徳川の石川

豊臣の片桐は家の「ジイヤ」

つまり御家第一主義執事で

真の忠臣的立場の人間かと

思います。さて余談ですが

君臣の信頼関係を壊して敵

を疲弊する策を離間の計

と古来よく知られいる策略。

 

◆質問者

秀吉が上洛しない徳川家康

の為に自分の妹の旭や実母

仲を徳川に送り込む策まさ

に、あほ/たわけ、の秀吉の

愚策に思えてなりませんが?

 

◆長谷川

当時の世相も観察しましょう

日本国は天正大地震で疲弊を

してた。この時節に民を救済

する役目は「おおやけ」大儀

にあります。徒に戦乱戦争を

招来させる者は天下を統べる

べき器に欠けるた小器『小賢』

言えるこざかしき私事だと

言えます。徳川は石川氏を出

し秀吉は妹旭や母仲を徳川側

に送り込むなど一見愚策とも

言える事をしていますが石川

は小賢よりも大愚を実行して

和平の道を模索して大道を拓

く道を選択したとすると凡愚

大悟つまり愚かな者こそ大き

悟りを開き衆生を救済する事

を希求したのかもしれません

戦国乱世で自分の妹や母親を

人質に差し出す事は恥辱に値

する秀吉の愚行と解釈する人

もいると思います。天正地震

に遭遇し疲弊した日本を救済

しようとした意志が石川また

秀吉の和平への模索また家康

の上洛は大悟と言えるかもし

れません。大河ドラマとして

は石川の陰と旭の陽など対比

させながら家康が大道を悟る

劇的なシナリオに脚色されて

おりました。ドラマ中の家康

の「あほ/たわけ」の文言も

凡愚を象徴し大悟への道へ

家康を導く劇中の暗喩です

石川の手彫り仏像を登場さ

せていた事など二重三重の

劇作暗喩が展開されました。

秀吉妹、旭が苦悩を押し殺

した表情や演技は石川の陰

とコントラストをなす劇作

としてこれを堪能された方

が多かったかと思われます。

 

凡愚 大悟

ぼんぐ だいご

 

万人から愚かなる卑怯者と

例え、一身を蔑まされても

己を捨て衆生を助ける道を

模索し平和の大道を開く事。

 

◆質問者

長谷川先生!石川数正とは

豊臣政権では地味な脇役の

人で秀吉の家臣のママ最後

に松本城の城主となります

が信濃松本城にビイスタは

存在するのでしょうかね?

 

◆長谷川

私のブログは読者が極めて

少なくブログとして機能は

しておりませんが地道に城

の研究は継続したいと思い

ます。松本城A点の大手か

ら約10本のビイスタ線を

用い扇型に縄張してます。

◆長谷川

B地点からも10本の腺で

ビイスタ縄張しています。

重複型ビイスタ工法です。

 

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◆一般者

チョツと待って下さいよ!

松本の町がビイスタ工法

なんて事だれも教えてくれ

ませんよ。何処で学ぶの?

 

◆一般者

日本人なら日本の城郭の基礎

ビイスタ工法を知って城郭学

の大道を知るべきと思います。

 

◆反論者

俺城郭ビイスタ論に断固反対!

 

◆世話人様

伊勢長島城でも簡単に城郭

ビイスタが読み取れました

あなたはタダ反論者として

のみこの令和を無駄に生き

いる人ですか?城郭の大道

を開かんとする気概が存在

しますかか?アンチ役ケチ

付けなら誰でも出来ます!

 

 

◆反論者

ふん何が城郭ビイスタ動画だ?

そんな物見るに値しない動画!

 

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驚愕! 源義経のイメージ? 劇作家の暗喩的手法の潜在

2022-03-02 18:25:17 | ドラマ鑑賞
驚愕! 源義経のイメージ? 劇作家の暗喩的手法の潜在

◆対談者
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てたら
全く私の従来の源義経のイメージと違う訳です!

◆一般者
私の義経のイメージはブサイク小兵で山野を行く
狼のような粗野で攻撃的アグレッシブな人間です。

◆対談者
ちがう!ちがう!美貌で繊細で機敏な軍事才能に
恵まれ兄源頼朝の鎌倉府創業を補佐した英傑だが
兄頼朝に次第に嫌われ疎まれ悲劇の最期を迎えた。

◆一般
それ判官贔屓と言うのよ。才能美貌に恵まれた人
が悲劇の結末を迎えた事を弁護して惜しむ精神性。

◆長谷川
私は大河ドラマを当然史実に忠実な歴史再現劇と
して鑑賞していません。登場人物のキャラクター
が織りなす創作された群像劇で戯曲や小説や文学
要素の世界として脚本家の出や演者演技力を鑑賞

◆対談者
でも源氏の源義朝の御曹司で九男坊にあたる高貴
な義経が今回の大河では野盗の射ぬいたウサギを
平然と夜盗を瞬時に欺き騙し弓で殺害してウサギ
を横領するサイコパスの様に弓で射殺す卑怯な人
物が義経だと言う印象は全くないです。分別ある
武家階級の貴族階級出身のお坊ちゃまの印象です。

◆長谷川
今回の義経と彼の郎党が芋煮鍋を食べる場面とは
戯曲として非常に秀逸です。先ず鍋は鎌倉を暗喩
します。次に鍋の中の複数の里イモはこれは鎌倉
に集合した坂東武者達「イモ武者」「田舎武者」
を暗喩しています。この里イモは、ぬめりが有り
義経の箸にも棒にもかかりません。しかし義経は
里イモを事もなげにイモを箸で刺す、刺箸という
食事の作法としは最低の野卑な食べ方をしますが
彼の郎党達は義経の不作法を諌める事は全くしま
せん。義経の郎党は形式や様式には無頓着と言う
事の比喩です。軍隊で食事は迅速に食すのが軍事
の基本である事は古今東西の常識で義経の郎党
達は形式や格式や様式を全く無視して鍋の中の
里イモを突き刺して刺箸で食事を済ませてます。
これは義経と彼の郎党が軍事家である事を暗喩
してます。頼朝は戦略家であり梶原景時は頼朝
の軍監として従軍し源義経と全くソリが会いま
せん。義経は瞬時に敵の要害地形の欠点と脆弱
な軍事構造を看破して巧妙に撃破する能力に優
れた軍事才能があれど自分自身が鎌倉殿頼朝の
家臣として坂東武者達と協調性や社会観察力と
コミュニケ―ション能力は脆弱といえます体制
の中に自分が置かれた場合の自己客観観察力に
欠点があります。局地戦における戦術家として
の才能はあるが自らの地位を集団の中に調和さ
せ保身維持する「空気読み」に欠ける中庸なき
武将です。さて、後白河法皇は策略家「策士」
義経の性格や鎌倉側の体制を読み切って義経を
伊予の守護職を任官させるなど、鎌倉の頼朝と
京都の義経の両者の勢力を仲違いする離間の計
を使い今度は義経を排除する策略に出ますが、
義経は九州に逃げる事に能わず義経が奥州平泉
の藤原氏の元に逃げると是を口実に坂東武者達
は藤原氏も共に滅亡させる大戦略を展開します。
ですから今回の源頼朝とその郎党達の食事風景
は義経主従のドラマにおける二重三重四重にも
印象づける今回のドラマ義経主従キャラクター
の巧妙な多重暗喩手法を作家が駆使してます。
大河ドラマは昨今録画して見る人々が存在して
義経主従の怪奇とも言える場面を再度視聴する
人を計算尽くしたSNS評も含めた番組作りが
されていま。

◆長谷川
鎌倉府は株式会社「鎌倉府」ともよべる連合組織
です。義経は会社に報告、連絡、相談、稟議書も
なく、勝手に、伊予守に任命された事を集団組織
の掟破り、つまりルール違反と感じなかった政略
への疎さ甘さが存在したと言え、また義経郎党も
鎌倉に戦況報告する場合の報告基本様式5W1H
に欠けて戦場戦況報告を感情論を基に報告した事
も鎌倉府なる組織一種の企業体から拒絶されます。

◆長谷川
鎌倉幕府体質から鎌倉武士社会の法整備、掟書きは
鎌倉府の規律は御成敗式目として成立されました。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、
源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での
慣習や道徳をもとに制定された、武家政権のための
法令(式目)である。貞永元年8月10日(1232年8月
27日:『吾妻鏡』)制定。貞永式目(じょうえいしき
もく)ともいう[1]。ただし貞永式目という名称は後世
に付けられた呼称で、御成敗式目の名称が正式である。
また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称も
ある。また、日本最初の武家法である。
1185年に鎌倉幕府が実質的に成立して以降、東日本
を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく
朝廷による2頭政治が続いていたが、1221年(承久3年)
の承久の乱で、鎌倉幕府執権の北条義時が朝廷を武力で
倒し、朝廷の権力は制限され、幕府の権力が全国に及ん
でいったが、日本を統治する上で指標となる道徳や
倫理観そして慣習が各地で異なるため、武家社会、
武家政権の裁判規範として制定された。

コメント (3)
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