城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

浅井 源頼朝隠し砦 瓜生山城 瓜生古墳見学会 報告

2022-04-27 05:42:25 | 見学報告

◆対談者

4月8日多賀町での源頼朝と近江講演「無料」

▼講演の模様

▼伝 梶原景時 北条時政 添状 見学

4月10日浅井町の源頼朝隠し砦見学会

①頼朝隠し砦見学

②飯山城見学

③当目砦見学

④当目古墳群見学

4月23日浅井町の源頼朝隠し砦見学会

①源頼朝隠し砦見学

②小堀遠州 小室城跡立寄り

③海北氏瓜生山城現地見学

④須賀谷片桐氏墓所立寄り

▼浅井源頼朝隠し砦の土塁見学

▼瓜生山城見学で突然!堀切が眼前に出現!

◆参加者様各位の感想

多賀

①多賀での歴史民俗学講演が良かったわ。

②多賀寺院様にある梶原景時著名に驚愕!

浅井1

②飯山城の巨大な竪堀見学には感動した!

③浅井草野谷の多数遺跡に大変驚愕です。

浅井2

④鎌倉期の城?見たの初めて遺構は風化

 していたけどやはり切岸や土塁が残る。

③田根地区の瓜生山城の堀切に感動です。

 

◆長谷川

お詫びと御礼のことば

予定していた『五先賢の館』にて賤ケ岳

合戦古図見学は私の鼻炎症状の発生の為

惜しくも断念致しました。浅井の草野谷

田根方面の方々は今後も『城歩会』主催

小谷城南東部城塞群見学に関し引き続き

御指導御鞭撻御協力を賜ります事を慎み

て御願いを申し上げます。『浅井城歩会』

なる名称で古城見学も実施したいと思っ

ておりますがなかなか夢は実現しません。

浅井に未知の戦国要塞多数確認してるが

これを地元の皆様と慎ましく地味に見学

したいと切に常に願う次第でもあります。

一連の講演会と見学会に元多賀町議会T

様の御協力に深く感謝し浅井のМさんの

御協力に深く感謝致します。また元教職

関係のF様の御協力にも感謝を致します。

考古学を主旨とする、NPO法人自然と

歴史ロマンの会様の湖北浅井郡地域活躍

が益々堅実に進捗する事を祈念致します。

 

元滋賀県中世城郭分布調査現地調査委員

滋賀民俗学会理事 長谷川博美

 

◆追記匿名希望「何をゆうねん様」

頼朝隠し砦見ました。ものすごく古い砦

でした遺構は風化してましたが犬走切岸

も確実に残っており鎌倉期?の城郭遺構

を見られられ「新発見砦見学会」でした。

『近江興地誌略』にも収録されている砦

である事も見逃せない超本格的城郭見学!

 

 

◆食堂様

瓜生山の前方後円墳見学しました。これ

山本山山系の若宮古墳に劣らない美しい

形状や規模の前方後円墳には大変驚いた!

それから地元浅井ではね、海北と書いて、

「かいほう」と発音せずに「かいふ」と

現地発音する人もいらしやるとの事です

▼小谷城大嶽城長谷川博美城郭ビイスタ論

◆長谷川博美 連続城郭講演開始

時 22年4月28日木曜午前10時より開始

  11時30まで約1時間半の座学講義

内容

  何が飛び出すか解らないユニーク座学

場所

  米原駅から東へ徒歩約5分

  米原学びあいステーシヨン

◆質問者

  講座の午後は単独行動してみたいです。

  午後から米原市近辺の史跡に行きたい!

◆長谷川

  米原駅周辺には大谷吉継首塚、入江干拓湖

  博物資料館、や岩脇山鉄道掩体洞窟等々の

  名所旧跡観光地多数、米原市役所3階米原

  観光課様には多数多様の観光パンフレット

  が用意されて此れを参考に米原観光を是非。

  そうそう車運転の方は箕浦の八日市場跡や

  隣接する八幡神社に源頼朝腰掛岩もありま

  す。鎌倉時代は「館」と書いて「やかた」

  と読まず「館」と書いて「たち」と読みます。

  箕浦の小字「立町」たちまち は箕浦冠者の

  「山本源氏」の館の跡かと思います。『吾妻

  鑑』には源頼朝が箕浦に宿泊した事が記載さ

  されており、山本源氏は旧びわ町にも城館を

  構えていまして今でも国道8号線には「御館口」

  と書き「みたちぐち」と読み歴史の残照が光る。

◆米原市住民様

   4月28日木曜の座学の希望の件です。

   多賀の源頼朝と近江講演の資料とか

   浅井の源頼朝隠し砦の資料が忙しく

   て参加できず資料が欲しです。その

   資料を活用し米原の源頼朝に関係す

   る城館も合わせて解説して頂きたい

   と思います。また米原の未知の城も

   御教示を賜りたいと願っております。

◆長谷川

   1時間30分と言う時間を活用しまし

   して適宜、時宜応じた内容の座学

   を展開しますので宜しく御願いを

   致します。

  

◆参加体験者

   長谷川先生の座学の場合、定型化した

   予定通りの解説よりも時に大きく脱線

   した内容や見解に研究家さんとしての

   キレとサエを感じハットする事が特徴

   です。浅井大嶽城のビイスタ工法など

   は日本全国の歴史城郭の先生はだれも

   解説して下さらないものです。大嶽城

   ビイスタ工法はだれでも気づけるもの

   で決してない非凡さと気付き力に注目!

 

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米原 東町 みたらしや  「 米原城郭講座」

2022-04-27 05:33:05 | 米原

◆長谷川

私は「まいはら」住民です。いつものように

深坂を通り東町へと散歩に出かけた。漫画家

つげ義春氏に通じる閑散とした道を歩いてい

たら、これは、夢か幻かと思える店舗が突然

目に入ってきた。私は「みたらし団子」4本を

買って食べる事にした。まいはらの、皆々様

みたらしや様を宜しく御願いを申し上げます。

 

▼ブログ著者本人

◆長谷川

米原に住まいする歴史城郭研究家

長谷川博美です。このたび旧米原

公民館あらため「米原まなびあい

ステーシヨン」に推薦により歴史

城郭講座の講師を担当をさせてい

ただく事になりました。緻密かつ

柔軟な発想の新視点で歴史城郭講座

を皆様ともに勉強したいと思ってます。

どなた様も楽しく参加できる講座です。

どうそ御鞭撻及び御指導を賜ります

事を市民各位様には宜しく御願い申

し上げます。初日は4月28木曜日午前

10時から11時30分まで講座テーマ

「木曜はお城でしょう」の演題です。

 

◆当日の講座内容

 三部構成

①米原の未知の城郭 紹介

 八田山城を図面で解説

 全長100m曲輪数約20の

 城郭遺跡の解説をします。

 

②源頼朝伝説の砦紹介と解説

 頼朝隠し砦 縄張図面解説

 

③近江国

 源頼朝伝説と城館

 伝説 伝承 付会 民俗学的解説

 

 

 

 

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播磨 加佐山城の城郭ビイスタ論

2022-04-23 06:33:41 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

▲織豊系城郭松阪城 蒲生氏

▼織豊系城郭近江八幡山城 羽柴氏

◆対談者

最近長谷川先生の城郭ビイスタ論が

根強い支持を得て視聴数を全国的な

規模で広がって視聴数か2200人を地

味ながら超えています。

▼織豊系城郭?播磨宍粟市山崎城 黒田氏

▼伊勢宮山城城 蒲生氏の陣城と考えられる。

▼伊勢宮山城城 蒲生氏の陣城と考えられる。

◆一般者

この城郭ビイスタ動画を企画された

余呉城郭研究会様の卓抜たる高度な

城郭研究視点が地味に結実している。

長谷川先生の資質を看破洞察し一部

少数の見識高い人々達の評価が高い!

 

◆質問者

羽柴秀吉の眷属とも縁者とも言える

杉原氏の城郭にビイスタ工法が存在

するのでしょうか?

◆長谷川

それでは杉原氏と伝承される天正三木

合戦陣城とされる既に高速道路建設で

消滅した「播磨加佐山城」の城郭ビイ

スタ工法を一度検討してみましよう。

一見ビイスタ工法と関係のない陣城の

様に感じますが主郭は正方形ではなく

ビイスタ工法の影響下にあると、私は

考えております。

◆B

先ずB集束点は主郭の外の外郭部の形状

を決定していると思います。

◆A

次にA集束点も城郭の左側の塁線構造を

形づくる要素であると思います。

◆C

その次にC集束点主郭外郭ともに繊細に

ビイスタ構造線に従った縄張だと思います。

 

▼羽柴秀吉の鳥取城攻めの際の陣城『太閤ケ平城』ビイスタ

▼太閤秀吉 文禄慶長の役 肥前名護屋城陣城

▼安土城 伝羽柴秀吉邸と伝前田利家邸の城郭ビイスタ

 

 

◆ウイッキペデイアより引用

加佐山城に拠った部将は豊臣秀吉の臣

杉原(七郎左衛門)家次【秀吉の正室・寧々

(高台院・北政所)の母の兄(伯父)にあたり

、早くから秀吉の家老として仕えて三木城代

・近江坂本城代としてまた天正10年(1582)

山崎の合戦後には福知山城主となり翌年の

賤ヶ岳の戦い後には、さらに京都所司代に

も任じられています。

 

三木合戦(みきかっせん)は、天正6年3月29日

1578年5月5日)から天正8年1月17日1580年

2月2日)にかけて行われた織田氏別所氏の合戦。

織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの

1つで、別所氏は播磨三木城兵庫県三木市

篭城した。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、

三木の干殺し(みきのひごろし、-ほしごろし)と呼ばれる。

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長浜浅井町 源頼朝隠し砦見学会

2022-04-23 05:07:17 | 城址見学会予定 

 

源頼朝の隠し砦=『近江興地誌略』収録 

滋賀県長浜市浅井町

 

◆集合時間場所

令和4年4月23日

JR河毛駅東口 受付場所 宮本さん

★会員勧誘やメール会員ライン会員

 への勧誘は一切実施しない勉強会

◆参加費 1000円

◆保険  不加入 自己責任

◆各自用意 登山靴と服装 弁当水分

◆特典①  4/10参加者様は無料優遇

   ②  多賀 源頼朝 講演資料進呈

   ③  頼朝隠し砦図面収録資料付き

 

◆当日見学予定

◆源頼朝の隠し砦

①山麓居館跡見学『近江與誌略』収録

②★新発見山頂山城遺跡見学★

③尼寺伝承地見学

◆浅井田根地域『五先賢の館』

④『賤ケ岳合戦図』見学

⑤『小谷城古絵図』見学

◆瓜生山城見学

近江浅井浅井亮政の重臣

海北、赤尾、雨森の重臣

海赤雨の「海北氏」本拠

瓜生山城見学会

⑥新発見布陣城郭遺構その1

⑦新発見布陣城郭遺構その2

⑧瓜生山城主郭部見学

◆古墳愛好家の質問

浅井の瓜生古墳も見学される事

とお聞きしてA長谷川さんに質

問を致します。

 

①見学する古墳は何基存在しますか?

A今回は前方後円墳一基と円墳一基です。

 途中円墳2基も合わせて見学致します。

 

②前方後円墳の築成は何段ですか?

A概ね2段築成で形成されてます。

 

③造り出し部は認められますか?

A認められません。確認出来ない。

 

④墳丘の葺石は観察できますか?

A現状では観察は出来ません。

埴輪片なども表面採取してない。

 

⑤墳丘上の長軸つまり長さは何m?

A地方首長墓の定規格の約36mです。

 

⑥倍塚は観察できますか?

A主墳南部に円墳が一基付随します。

 

⑦主墳「前方後円墳」に円墳が付随する

典型的類例を浅井郡の範囲で教示下さい。

A虎御前山古墳/大依山古墳/瓜生山古墳

 

 

◆城郭愛好家の質問

①瓜生山城には虎口が何カ所存在しますか?

A東西南北の4ヵ所に虎口を確認できます。

 

②瓜生山城には明確な堀切が存在しますか?

A明確な堀切と土橋が現地で確認可能です。

④瓜生山の城主は何氏と推定されますか?

A海北友松の先祖海北氏の詰めの山城

⑤海北友松は当代随一の画匠でしたか?

Aその流麗な彼の筆徴は華麗そのもの!

◆長谷川

今回の見学会の特徴

①だれでも気軽に参加できます。

②面識なき人歓迎を迎致します。

③事前予約なくとも参加は可能

④登山に適した服と靴また弁当

飲料を各自様で御用意を下さい。

⑤気楽な現地見学会ですが行楽

観光の催事とは趣が異なる学習

会である事を御含みおき下さい。

 

◆みんな

格調が高く真面目で趣が深い世界。

 

◆質問者

この砦を見学する時の事前要点

眼目とは一体何なのでしょうか?

 

◆長谷川

『犬走』にあります。犬走を見学

する習慣が普段ない人よりも犬走

を普段見学会で観察見学してる人

は頼朝隠し砦の輪郭がより解かる。

切岸を認識してる人にも重要です。

◆対談者

長浜市余呉城郭研究会生月余呉城郭研究会

会長企画された長谷川先生城郭ビイスタ論

動画再生回数が2200人を超えております。

これは長谷川先生が他府県で100人の講演

を22回開催された事と同等の学術的意味が

ある。私達滋賀県人より他府県の人々達が

長谷川先生を知っておられる事自体にピン

と気付く感受性や資質を持っ事が重要です

県外に行くと、肩書きよりも資質を重視!

 

◆質問者

この源頼朝隠し砦見学会の企画は本格的

ですか?マジ真実?に基くものですか?

 

◆長谷川

4月に2回目に参加される人も居られます。

図面も付属した真面目な見学学習会です。

前回は飯山城の図面が付いておりました。

今回は瓜生山城瓜生布陣遺構の図面付き。

 

◆長谷川

先ず最初から否定したり最初から全て

を妄信する事よりも「この砦」は何か?

一体何時の頃の遺構なのか冷静に現地

の山麓遺跡と山頂城郭遺構を謙虚に見

学する事を目的と致します。最初か否定

する事ならば誰もができる事。遺跡遺構

を読み解く事や一歩前進して前に積極的

に踏み込む事は世間では至難の技ですが

至難を超える事で研究が確実に進捗です。

 

◆対談者

日本最大の石垣中世城郭近江観音寺城の

長谷川先生のビイスタ工法解説は本当に

驚異的な城郭研究学の進捗進歩を痛感!

マジすごい!布施淡路丸ビイスタ工法!

 

◆参加者

長谷川先生の城址見学は前回と絶対に

ちがうはず毎回違う場所や要点を解説

され金太郎飴の様な解説絶対しない。

A行市山B城別所山城見学会でもAB

だけでは絶対ない。野球で言えばAが

ストレートBがカーブそしてフオーク

CやスライダーDの変化を附けられて

見学されるから毎回見学が斬新新選。

 

◆長谷川

いやいや変化を付けている訳じやない

城郭遺跡が一度で見学できないぐらい

に多数の遺構や部位から成立してます

その城の構造を軽々しく概略的な解説

は控えて謙虚に城郭遺跡を評価すべき

だと私は思います。4月16日行市山の

見学会がありましたが17日には早速

田畑さんと私は行市山城に再調査へ

出かております。行市山の南外郭の

土塁や行市山の南に位置する大堀切

なども再々調査に出かけてる訳です。

行市山って小さな陣城ではなく壮大

な規模で布陣遺構が全山全域に広が

ってる。それを一度に全部見学する

事は時間的物理的に無理な事。秀吉

方の陣城の作り方と佐久間方の陣城

の作り方は根本的に違う総合土木量

で行市山全山が多く土塁使用の囲郭

単郭様式が多いながらその布陣遺構

の多さには圧倒されます。これ見学

するに為には行市山見学会数度必要

かと思います。見学距離と時間必要。

▼行市山南外郭土塁

▼行市山南最外郭大堀切 調査

▼過去写真です。

▼過去写真です。

◆参加者

突飛な城跡見学ではないベーシックな

基本に忠実なオーソドックスな見学会

 

第一回 源頼朝隠し砦見学会4/10の様子

当日の講師

講師 歴史城郭研究家 滋賀民俗学会理事 

   米原学びあいステーション歴史城郭講師

   ウッデイパル余呉 城郭フオーラム講師

   長谷川博美

◆ 主催 近江中世城郭調査委員会 城歩会

◆ ★初心者★初対面の一般の方は特に大歓迎!

◆ 予約不要自由参加OKです事前に宮本さん☎

◆ 現在予約者様

  ①S木様

  ②H畑様

  ③H井様

  ④I会長様

  ⑤М本様 受付幹事

  ⑥長谷川

  ⑦F田様

  ⑧М年様

  

◆集合時間場所

令和4年4月23日

JR河毛駅東口 受付場所 宮本さん

 

◆参加費 1000円

◆保険  不加入 自己責任

◆各自用意 登山靴と服装 弁当水分

◆特典①  4/10参加者様は無料優遇

   ②  多賀源頼朝講演資料進呈

   ③  頼朝隠し砦図面収録資料

 

◆当日のプログラム

午前10時河毛駅東口集合

午前10時30分源頼朝隠し砦見学

A山麓居館部見学

B★新発見山頂山城見学★昼食

午後1時

浅井田根地域『五先賢の館』へ移動

A『賤ケ岳合戦図』見学

B『小谷城古絵図』見学

午後2時瓜生山城堀切を見学

近江浅井三代の浅井亮政の重臣

海北、赤尾、雨森の重臣

海赤雨の「海北氏」本拠の山城

瓜生山前方後円墳と円墳見学

3時河毛駅へ送迎終了解散

◆追記

海赤雨の「海北氏」本拠の山城が瓜生山城

の堀切ならばこの写真は当然合点が行く事

伊香郡の赤尾山にも巨大山城の堀切が残る。

 

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頼朝 信長 秀吉 天下人は扇形の都市計画を好んだ!

2022-04-20 00:51:56 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
◆質問者
鎌倉幕府で一番中国から伝来した「兵法書」
つまり「軍学」に精通していた人物は誰?
源頼朝が上総広常を暗殺した事は愚策また
人を見る目のない暗愚の将軍に感じました!
 
◆長谷川
都から鎌倉幕府に招聘された大江広元が
幕府草創の根幹とビジョンを源頼朝へと
授けた可能性があると思います。中国か
ら渡来した兵書に精通していたのは大江
維時という人の伝説があります。以下は
ウイッキペデイアを引用しますが

「日本では、朝廷の書物を管理していた

大江維時が10世紀初めの930年頃、唐から

『六韜』『三略』および『軍勝図』(諸葛亮

八陣図)を持ちかえったが、これらの兵書を「

人の耳目(じもく)を惑わすもの」とし大江家

にのみ伝え、他家に秘して、しばらくの間は広

まらなかったとされる大江家が兵書を伝えた

のは古代では天皇の勅命でやむをえずの場合)」

とあります。鎌倉幕府を創業開府した源頼朝に

とり大江家の「兵書」は東国政権開府の為に

様々なヒントを提供してくれます。源頼朝は

都で風采のあがらなかった貴族「大江広元」

をヘッドハンテイグつまり企業頭脳確保雇用

した訳なのです、当時隠然とした勢力を誇っ

てた上総広常の粛清暗殺を断行しております

が鎌倉府創業者源頼朝としては様々な政情に

対して悩んだ事かと思います策略の相談相手

として、都から招聘した大江広元の意義とは

史書に書かれないぐらい重要だったでしょう。

罪なき家臣を讒言より暗殺する暗愚の将とし

て源頼朝は現代社会に映りますが、国家的な

鎌倉府を創業する大業を成し遂げる為に非情

な粛清も存在したのでありましよう。

◆質問者
 
軍記物『平家物語』には八島合戦の折に
日輪を描いた扇の要を那須与一が要を射落
す象徴的な物語が描写されています。日輪
は日本国で平家は安徳帝を奉斎しています。
日本文学の根底に直接物事の真意を語らず
常に忌み言葉や文学には暗喩が含まれます?
 
 
頼朝 信長 秀吉 天下人は扇形の都市計画を好んだ!
鎌倉殿の13人と鎌倉府のランドスケープ論
 
◆質問者
この投稿で一番注目すべき事とは何?
織田信長が扇「おうぎ」を好んだ事?
日本歴史建造物の縄張理論動の衝撃!
ビイスタ工法でしょうか?
 
◆長谷川
文献『信長公記』によりますと永禄11年(1568年)
10月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛致します。
京都の名士達が献上品を持ち信長上洛祝賀の為に
茶器刀剣とか高価な名品を献上しますが連歌師の
里村紹巴は白扇二本を献上したのですが織田信長
と言う人の性格は我々凡人のような「鈍感な人」
ではなく電光が飛び散る閃光のような感覚の人。
里村紹巴が白扇二本を献上した暗喩に気色満面!
二本献上とは?日本献上の暗喩が含まれている!
 
◆対談者
長谷川先生安土城の伝前田利家邸にビイスタ
工法が使われていると「サラリ」と言われた
時は最初何の事か?全く解りませんでしたが
しかし城郭ビイスタ論の動画を見る内に私は
納得するようになってきた世の中には形式論
者や亜流学説踏襲論という愚者がいるお陰で
城郭ビイスタ論やランドスケープ論は日本史
に於いて全く進歩進捗してない今になり長谷川
先生が解説されその内様がようやく解ってきた。
 
◆対談者
豊臣秀吉は「一の谷馬蘭後立付兜」いちのたに
ばりんうしろだてつきかぶと)と称される兜
(かぶと)が目を引く、豊臣秀吉愛用の甲が。
巨大な「後立」(うしろだて)が特長で、
「菖蒲」(しょうぶ)の一種である「馬蘭」
の葉がモチーフになっている。これも扇です。
 
◆長谷川
学習する人に様々なタイプの人が存在致します。
「ならう」と言う言葉には
 
「習う」には学習と言う意味があり。
「倣う」には模倣するコピーの意味。
 
先学の指示に従うフオロー追従者型
の人は「習う」「倣う」模写型の人
と言えます。それに比し法則や定理
や原理に「気付く」発見型の人です。
音楽も誰も作り出せない音楽を創造
する作曲家型と模倣物真似が得意な
コピー型の人に二分されます。海外
ではカバーと言って。自分なりに曲
を咀嚼し編曲するアレンジ能力ある
音楽家や楽器演奏家が高く評価され
る。まあ人それぞれの得意分野です。
 
 
◆対談者
長谷川先生は令和4年の大河ドラマ鎌倉殿の13人
を先生自身は御覧になられましたか?
 
◆長谷川
録画したものを拝見致しました現代の日常語を
用いたホームドラマ感覚で作られており好感を
私個人は感じました。衣服や建築物や城館等の
有職故実は本格的に考証され素晴しく感じた。
 
◆鎌倉府のランドスケープ論や鎌倉城ビイスタ論!
◆質問者
鎌倉とは東国武士政権の府城で鎌倉府には当然
ランドスケープ論や城郭ビイスタ論に適合する
都市構造が存在したのでは?ないでしょうか?
 
◆長谷川
「鎌倉城」は、『吾妻鏡』1180年(寿永3年)
9月9日の条には、石橋山の戦いに敗れて安房
(千葉県)に逃れた源頼朝に対して、千葉常胤
は、この地は要害の地ではないので鎌倉に行く
事を進言してます。九条兼実の日記『玉葉(
ぎょくよう)』1183年(寿永3年)10月25日
の条に「鎌倉城にいる源頼朝が木曽義仲追討の
ために兵五万を興し」、同年11月2日の条にも
「去月五日に鎌倉城を出発した」と「鎌倉城」
が見ます。が現在鎌倉城は諸説あり未確定です。
 
 
日本で一番柔軟な歴史思考と歴史大観 
ビイスタ工法の普遍性
 
今話題沸騰 城郭ビイスタ論
長谷川博美上文字をクリック!
 
 
◆質問者
長谷川先生!日本語の「ながめ」の意味教えて!
素晴しい展望とか?素晴しい眺望とか?ながめ
 
◆長谷川
現代では「ながめ」=眺めの文字を使いますが
私は眺望展望「ビイスタ」と意味と考えてます。
日本語の中に本義が潜在していると思いますよ。
「ちかめ」「近目」の対義語として、日本には
遠くを展望する事を「長目」と言う意味が本来
存在したが時代の推移ともに長目の本義が稀薄
になり「眺め」の文字「眺望」を慣用句として
使うように、来は遠見や遠目の遠方を見る行為
ながめ、つまり「長い目線」=「ながめ」です。
建築用語の「栄え」つまり見栄えを考慮した事
良い展望を「ハエ」と古来より言い習わしてる。
衣服が映える。見映えがする景観が長目であり
眺めでも有ります。日本国には江戸期まで眺望
測量の手法が存在したのですが戦前戦後の城郭
研究家は「ながめ」「長目」の発想を無視した。
◆長谷川
それは近江佐々木六角氏の観音寺城にもビイスタ工法
が存在する事でも江戸期の城郭測量法が理解できます。
 
◆ニユートン
ニユートンはリンゴの落ちるのを見て万有引力
の存在に気付く単純な現象で万有引力に気付!
 
 
 
◆普遍性とは?
人類が国家時間軸を超越して繰り返して行って
きた行動は発想方法を人類の行動規範の普遍性
 
◆万国博覧会
長谷川少年が70年の万国博覧会で学校の先生に
言った。先生!ソヴイエト連邦館の設計とはね、
コンパスの分度器の要領で設計されていますと
 
先生はこう言った馬鹿な事を言うもんじや無い!
の展示品を必死に見て必死にメモを取りなさい。
 
エキスポ70ソヴイエト連邦館にビイスタ工法が
使われていた事など誰も気づかぬ長谷川少年の
別視点です。世の中は変わった視点を持っ人が
何かの法則を発見する事はよく知られた事です。
 
1970年当時ソヴイエト連邦は連邦国家としての
威信を世界に喧伝する為のビスタ工法を用いた。
澁澤栄一が東急東横線にパリのエトワール凱旋
門近辺の放射状都市計画を模倣した田園調布を!
 
◆長谷川
寛文期近江膳所城にビスタ工法が存在した事
など誰も指摘しない事ですよ。長谷川が指摘。
徳川幕府配置した重要城郭膳所城指摘しても!
◆長谷川
彦根城玄宮園にビスタ工法を使った茶室が
存在した事など誰も指摘しない長谷川だけ。
玄宮園とはもし京都に政変が発生した場合
京都の天皇を彦根城玄宮園に保護せんが為
の徳川幕府筆の雄藩として彦根藩に課せら
てた役割、玄とは北の意味、宮は皇室の事。
臨池閣の臨とは展望、ながめ、眺望の意味。
つまりビイスタの漢字が臨「のぞむ」です。
◆長谷川
太閤秀吉が築いた肥前名護屋城にビスタ
工法が存在した事を指摘するのも長谷川
だけ秀吉が韓半島に留まらず大陸出兵も
含む国家的威信をかけた城郭構造こそが
ビスタ工法だった。つまり威信的設計法
 
 
 
 
◆長谷川 庭園の要石「かなめいし」
古来より日本の作庭にはその庭園を見渡す為
の裁量のビユポイント(展望視点)が潜在して
いる、庭園展望には必ず要の地点がある事だ。
 
◆長谷川
長崎出島にビイスタ工法ある事を学校の
先生は教えてくれなかった。ビイスタ
もオランダとの交易を正式に展開できる
徳川幕府の威信をかけた日本玄関特区!
◆長谷川
岐阜県大野古墳群、ふらりと行く!ビイスタ工法
がある事に気付く人など世間に全くいないものだ
▼岐阜県(大野古墳群)
 
◆長谷川
九州にあるオサホ塚メサホ塚の設計線も!
◆長谷川
あの古代纏向宮殿遺跡にビスタ工法が
存在するなんてだれも指摘しないのだ
が倭に誕生した古代王権の威信を全国
の倭国連合に誇示する為のビスタ工法。
◆長谷川
そうそう、あの織田信長が築城した安土城
にビスタ工法があると指摘しても歴史城郭
愛好家は知らぬ顔。ぽかーんと知らぬ顔だ。
天下布武を標榜して日本国内を統一せん事
を天正前期の天下の府城の役目を担う安土
城ビイスタ工法は見落とせない歴史の要点。
◆対話者
長谷川先生それらの遺跡は全て時代背景
が異なる別時代のものなのです。だから
我々は、全く、ピンと、来ないのですよ!
 
◆長谷川
人間とは時代区分に捉われて歴史の大河
を大観できない。人間は絶えず類似した
事を繰り返す動物習性。間違った政治を
し多くの国民を戦争に導き殺す愚かな人
常に邪「よこしま」な心で国民を騙す人
さえ長い歴史の中に必ず登場。歴史とは
姿を変え形を変えて常に繰り返してます。
なにも文字だけが歴史の本質でなく文字
だけが真実とは断言できません。人間は
あらゆる時代で言葉や文字でウソを繰返
しています。我々は時に大きな目を持っ
て社会を歴史を『普遍的』に時代が変っ
ても同じ事を繰り返してる人間の普遍性
を、大観しなければならないと思います。
日本国の開国を促す為アメリカのペリー
提督が神奈川県の浦賀に上陸した徳川幕府
は日本国の代表としての威信を誇示する為
浦賀にビィスタ鶴翼の陣幕を設営している。
歴史のポイントや変り目、画期を示す時期
にビイスタ工法が日本史の中に登場してる。
 
 
◆米原市近江図書館にて
御婦人
図書館とは文字の宝庫、無限の文字と
様々な図書こそ人間人類の信奉する物。
◆質問者
享保18年の城郭測量指南では二カ所の測量点
があります。これは「扇」二本あると言えます。
天下布武を標榜し目指した織田信長は二本の扇
に強く引かれ感心を持つ武将と言えますか?
 
◆長谷川
文献『信長公記』によりますと永禄11年(1568年)
10月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛致します。
京都の名士達が献上品を持ち信長上洛祝賀の為に
茶器刀剣とか高価な名品を献上しますが連歌師の
里村紹巴は白扇二本を献上したのですが織田信長
と言う人の性格は我々凡人のような「鈍感な人」
ではなく電光が飛び散る閃光のような感覚の人。
 
当代随一の連歌師「里村紹巴」の恐るべき寓意を
信長は、瞬時に読み取る電光石火の頭脳の切れが
あります。

「織田信長」が「二本手にいる今日の喜び」と発
句し「舞ひ遊ぶ 千世万代の 扇にて」と連歌師
里村紹巴が付けます。
信長の深意は「日本手にいる京の喜び」
      「日本国を統治し京都を押えた事」
であり、二本と日本が、今日と京が掛け言葉です。
 
◆長谷川
貴方は今、手に扇子「センス」を持ってる。
センスの扇型こそビスタ工法そのものです。
 
◆御婦人
何を訳の解らない事を言っておられるのか?
あなたヒマが有れば図書館でも行って歴史
書でも読んで勉強しなさいよ!図書館へと
千度万度通って文を史「ふみ」読む事を!
 
◆長谷川
人間とは、時代が変わろうとも同じ事を
繰り返す動物。時代が変われど同じ事を
繰り返す事を人類の「普遍性」と言ます。
世の古今東西森羅万象を比較研究する事
を「比較研究論」とも言います。世の中
には図書館の中に書かれた文字や図書だ
けでない普遍性が現実に存在する。貴方が
一万回も近江図書館に通っても誰も教えて
くれない事もある。それは同じ城に千回行
っても何も気付かない人が多いのと同じ事
人を図書館や履歴書や肩書きや名刺や学歴
や外見や服装だけで人を判断しないよう慎
みましよう。近江図書館にも普遍的ビスタ
工法が存在します。気づいた人は設計施工
した職人だけ。何万城もの城を見て気付け
るか?何万回も遺跡を見て気付けるのか?
何万回近江図書館に通い気付けるか?それ
▼安土城ヒスタ線(長谷川博美掛線挿入)
◆長谷川
貴方の柔軟な普遍的観察力と柔軟思考や資質
次第だと思います。図書館の本全部読んでも
解らない事や気付けない事が世の中ある事に
気付いて下さい。さあこの近江図書館の玄関
を、よくよく見て下さい!気付いて下さいね!
時に人間は時代や分野や常識と言う固定概念
に捉われ過ぎ普遍的に柔軟に物事を見ない!
 
◆長谷川
 鎌倉府にしても何で鎌倉七口があるのか?
切通しを如何に鎌倉府は配置しているのか?
写真をぽかーんと見ていても仕方がない事!
それは京畿七口「京七口」の摸倣でしよう!
小田原城の「七口」も関八州の府城でした!
◆長谷川
鎌倉府を開府したのは東国政権樹立の源頼朝
でしょうか?源家の隆盛よりも巧妙に源頼朝
取り入り、制御し、象徴的シンボルに祀り上
げてその実権を掌握し鎌倉府の実権を実質的
に支配したは執権職となった北条一族でしよ
う。頼朝一族は雛人形のような傀儡武家貴族
として書き記しているのが『吾妻鏡』の世界。
雛人形の首のすげかえ自由自在の源家の外戚
北条氏と言事になりますか?何時の世も王様
の外戚や王様の神官が権力を横柄に奪い取る
歴史記録を消滅させたのが若きエジプト王の
ツタンカーメンの例でも明らか信長さえ尾張
では斯波氏を一旦保護しやがて追放足利義昭
一旦保護し利用して捨てるのが実質権力者達
の手法です。

「織田信長」が「二本手にいる今日の喜び」と発
句し「舞ひ遊ぶ 千世万代の 扇にて」と連歌師
里村紹巴が付加えます。
信長の深意は「日本手にいる京の喜び」
      「日本国を統治し京都を押えた事」
であり、二本と日本が、今日と京が掛け言葉です。
 
◆御婦人
解らないわよ!そんな突飛な事を言われ
ても全く全然解らん!サッパリ解せんわ!
 
◆長谷川
この近江図書館の玄関は明らかに平成ビ
イスタ工法によって放射状に設計されて
います。とらわれない心、かたよらない
心、ひろくひろく、もっと広く巨視的に
大観の心を持ち社を観察致しましよう。
 
◆御婦人
人間とは千回万回現場に行っても気付かない!
城址に千回万回登っても解らない事がある訳?
 
◆御婦人
長谷川先生!私は図書館で文字ばかりを読んで
物事の本質に気付きました。城へ千回行っても
何かに気付く事がある人間は無知の知を自覚し
て、ゼロからリセットし再スターする事も可能
です、しかし頑な頑固に凝り固まったら人間は
一歩も進歩ません。自分を知る事、社会を観察
する事小学生の頃「社会見学」と言う体験学習
が存した事を今更ながらに知る事になりました。
私は何かに気付いた!大悟したのでしょうか?
 
◆男性
頭脳を柔軟に保ち社会や物を冷静に観察する事!
古代のコロシアム、ギリシャ/ローマの半円形の
劇場、野球場、田園コロシアム全てビスタ工法
一体人類は分度器を何の為に使っているんだよ?
 
◆長谷川
城見学の本質は人により様々な視点観点ある事も
冷静に認識し互いの価値観や人間性を互いに仲良
く尊重致しましょう。人間は十人十色の顔があり
世の中に同じ顔の人は存在しない千人の人あれば
千人の人の心と考えがある事を冷静に観察する事。
楽しむ   城址に行く事を楽しむ 観光行楽
行く事   城跡に行く事を好む人 城めぐり
見る事   城址を見る事を好む人 城郭見学
考える事  城址を見て考える   考察家
計測する人 城址を測量する人   研究家
発掘する人 城址発掘       考古学
 
▼televisionに登場する著者長谷川博美  
 
◆縄張り縄打ちについて
郊外を行き畑を耕す人が居る。作物を植える畝
を作るとき2本の杭を打ち丁張りして畝を作る
人を見ます。道路工事をされている人々を見た
時に路側帯を敷設する為に、丁張という水糸を
張る人を見ます。道路工事、建築現場にも水糸
や測量糸を張った場面をみます。勿論考古学の
現場でも測量糸/水糸を現代でも引きます。これ
全て人間が普遍的に行ってる意図的な縄張りで
計画性のあるプラニングであり、設計構想です。
新しい駐車場にいったら駐車線を正確に整えて
塗装する為に白いチョークで白線の跡が残って
いた。これを見てハット人間が常に縄張する事
を大悟して下さい。脳内のランプを点灯させる。
 
▼安土城天主台の設計構想(長谷川博美/掛線挿入)
安土城八角平(長谷川博美掛線挿入)
▼柴田勝家 内中尾山城 玄蕃尾城
▼近江八幡市円山城跡 長谷川図
▼天正大坂城のビスタ工法線(長谷川掛線挿入)
設計線は測量点は緻密に相互連携し一城をなす。
 
◆質問者
長谷川先生!鎌倉城や鎌倉七口と言う鎌倉幕府
の関門ももしかしてビスタ工法やビスタ理論を
用いて作られた可能性は全く無いのでしょうか?
◆長谷川
 私はこの件に関して全く解りません。鎌倉七口
の配置に若宮大路を主軸としたビスタ工法が採用
されたかにについては私は全く解りません。これ
は鎌倉府を長年研究されている諸氏の見解を参考
して下さい。下記はウッキペデイアの鎌倉城から
抜粋したものです。各自が研究を進めて下さい。
それから各自が一般の方も含めて鎌倉城を考える
事の意義が大切な事であると私は謙虚に冷静に時
に考えております。みんなで考える事が大切な事。
日本史において初めて公家の畿内政権とは異なる
坂東の武家政権が誕生した訳ですから鎌倉府とし
ての威信や面目や威光を放つに十二分な設計設定
インフラ、壮大な縄張りや全体構想プラニングが
存在して然るべき武家政権の府庁が鎌倉であろう
と私は考えてます。勿論鎌倉以前にも大和朝廷が
鎌倉郡衙を経営して遺跡も確認されており郡衙が
鎌倉にある事は政治的地理的普遍性でもあります。
 
「鎌倉城」観の成立[編集]
平安時代末期から鎌倉時代初頭にあたる、源氏と
平氏が争った治承・寿永の乱(1180年-1185年)
の頃、九条兼実の日記『玉葉』の記事として、
寿永2年(1183年)10月25日の条に「鎌倉城に
いる源頼朝が木曽義仲追討のために兵5万を興し」
て、同年11月2日の条に「去月5日に鎌倉城を
出発した」とあることが知られている[2]。この
記事の「鎌倉城」を、土塁や堀切、切岸などを
築いて防御を固めた軍事施設的な「城」の意味で
捉え、また鎌倉に現存する人為的な地形改変を
城郭的遺構と見て、鎌倉全域を城郭と考える説
(または中世人がそう認識していたとする説)
が出現した[3]。 城郭史的視点で鎌倉城について
触れた初期の研究は、戦前の1937年(昭和12年)
の鳥羽正雄による「城郭構造の社会・経済的考察」
(『歴史教育12-8』※鳥羽 1980『日本城郭史の再検討』
に所収)という。ただし鳥羽は、天然の要害地の中に
ある鎌倉が「鎌倉城」と一部で呼ばれたものの、
明確な城遺構がなく、中世鎌倉には有事の際に防御
施設を造ることはあっても、常設的な城郭遺構はな
かったとする[4][5]。 「軍事都市」「城塞都市」的な
鎌倉像を印象付けたのは、神奈川県内考古学研究の
基礎を築いた赤星直忠の1950年代-1970年代の研究と
いわれる[3]。 赤星は、古都鎌倉は西・北・東の3方を
急峻な山地、南を海(相模湾)という天然の要害が
囲み、鎌倉七口と呼ばれる切通しを平時の出入口と
しているが、有事には封鎖して外部からの敵を迎撃
する城塞都市であるとして、旧鎌倉町域から極楽寺
地区を除く範囲を「鎌倉城」の範囲とした。その具体
的な遺構の例として、鎌倉・逗子市境の丘陵にある
名越切通(国史跡)の逗子側800メートルに渡ってみ
られる「お猿畠の大切岸」という切岸状の岩盤露頭を
挙げて、これを北条氏が三浦氏の侵攻に備えて設けた
ものとした[6][3]。 赤星による軍事的性格を積極的に
評価した鎌倉都市像は、石丸熙による研究でさらに進
んで、和田合戦以降、城塞都市としての拡張が図られ
たと推論された[7][3]。 1980年(昭和55年)刊行の
『日本城郭大系6(千葉・神奈川)』(新人物往来社)
も『玉葉』や赤星の論考を引き、鎌倉が当時、地域
全体をして城郭と捉えられていたとする[8]。 
批判的見解[編集]
近年、これについて批判も多くあらわれており[9]、
岡陽一郎は、「切岸」状の岸壁や「堀切」状の尾根
開削地、斜面を段切りした「平場」など、鎌倉周囲
の山々にあり軍事防衛と関係付けられてきた遺構を
考古・史料両面から精査した。結果、それらは家屋
や切通しの道・墓(やぐら)・採石場など幅広い
用途の生産遺構である可能性が高く、中世の軍事に
直結させるよりも、鎌倉時代~近世(あるいは現代)
までを通じて連面と行われてきた一般土地利用の所産
とみた方が適切なものが多いとした[10]。名越にある
「お猿畠の大切岸」などの地形は、鎌倉時代当時に
土地造成や、道路の舗装用に周囲の山の泥岩を破砕
したものを多用している事例から、石切(採石)場の
痕跡と見るべきとする[11]。実際に「お猿畠の大切岸」
は、2002年(平成14年)に行われた逗子市による発掘
調査で、14世紀~15世紀代の建物基礎等に使用したと
考えられる石材の石切場だとわかり、切岸説に疑問が
付された[12]。 また鎌倉市朝比奈町の朝夷奈切通
(国史跡)周囲の山々も「朝比奈砦」として城塞遺跡と
されているが[1]、『太平記』など鎌倉滅亡時の史料には
朝夷奈方面(鎌倉北東部)の戦闘の状況やその存在を示す
記録がなく[13][注釈 1]、城郭と断定しうる遺構も少ないこ
とから疑問が示されている[14]。 また岡は「鎌倉城」の
記述が治承・寿永期の史料にのみ見られることから、
当時の京都にいて、鎌倉を見たことの無い公家たちの
考える城郭観(軍事色の強い空間)が反映された言葉と
する説[15]をあげてこの戦乱期に源頼朝が本拠とした場所
を理念的に指した表現ではないかと推論する[16]。少なく
とも軍事要塞的イメージが大きくなりすぎた「鎌倉城」像
は再検討した方よいと指摘する[17]。 齋藤慎一は、『玉葉』
など中世前期の史料で使われる「城」の語は、用例などから、
非常時(戦時)における軍事的要塞を示す「城郭」「要害」
とは区別されていると指摘し、三浦氏の衣笠城等の「城」
事例と、発掘調査成果も含めた分析から地勢的・空間論的
な視点で「城」の語の実像を考察した。そして中世前期段階
の「城」とは、武家が自身の屋敷や一族の墓地・寺社・庶子
の屋敷などを構えて日常生活の場とした「本拠地」を表す
概念であり、『玉葉』の「鎌倉城」とは、防御施設の「城郭」
ではなく、1180年(治承4年)に鎌倉入りした源頼朝が、
現在の鎌倉市内六浦道付近に構築した「武家の本拠地」の意
と解した[18]。 埋蔵文化財包蔵地の「鎌倉城」[編集]
現在の行政上の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)としても「鎌倉城」
は存在し「鎌倉市No.87 鎌倉城」となっているが、市の遺跡
一覧表には特定の住所は記載されておらず[1]、丘陵周辺など
市内の広範囲にNo.87(鎌倉城)が設定されている[19]。
 鎌倉市御成町に位置する「鎌倉城」では、古くから
「無量寺」という寺院があった地と伝えられており、
2005年(平成17年)-2006年(平成18年)の発掘調査では、
方丈と見られる礎石建物跡や庫裏と見られる掘立柱建物跡が
検出され、寺院であることが確認された[20]。このほかも
数ヵ所で「鎌倉城」の名で発掘調査された地点があるが、
発掘結果は墓(やぐら)[21]や用途不明の平場などで[22]、
「鎌倉城」の名を冠しつつ城郭遺構が検出されていない
地点が多い。 
脚注[編集]
注釈[編集]
  1. ^『太平記』において新田義貞軍は、極楽寺坂や化粧坂、
  2. 稲村ヶ崎など、朝夷奈方面とは逆の鎌倉市北西部・
  3. 西部方面から侵攻・突入している。 
出典[編集]
  1. ^ a b c 「鎌倉市周知の埋蔵文化財包蔵地一覧」鎌倉市公式HP 
  2. ^ 岡 2004 pp.43-44 
  3. ^ a b c d 岡 2004 pp.45-50 
  4. ^ 鳥羽 1937 
  5. ^ 岡 2004 p.45 
  6. ^ 赤星 1972 
  7. ^ 石丸 1978・1994など 
  8. ^ 平井ほか 1980 pp.335-336 
  9. ^ 齋藤 2006 pp.7-9 
  10. ^ 岡 2004 pp.51-57 
  11. ^ 岡 2004 pp.56-57 
  12. ^ 「国指定史跡 名越切通」逗子市公式HP 
  13. ^ 兵藤 2015 
  14. ^ 岡 2004 p.44 
  15. ^ 中澤 1999 
  16. ^ 岡 2004 p.44 
  17. ^ 岡 2004 pp.58-62 
  18. ^ 齋藤 2006 pp.184-185 
  19. ^ 岡 2004 pp.59 
  20. ^ 鎌倉市教育委員会 2008 pp.7-8 
  21. ^ 財団法人かながわ考古学財団 1999など 
  22. ^ 財団法人かながわ考古学財団 2005 
参考文献[編集]
  • 鳥羽正雄 1937「城郭構造の社会・経済的考察」『歴史教育12-8』歴史教育研究会(※鳥羽1980に所収)
  • 赤星直忠 1959「鎌倉の城郭」『鎌倉市史(考古編)』鎌倉市
  • 赤星直忠 1972「逗子市お猿畠大切岸について」『神奈川県文化財調査報告書34集』神奈川県教育委員会
  • 石丸熙1978「中世鎌倉の一側面 -初期の都市防備体制を見る」『三浦古文化23』
  • 赤星直忠ほか 1979『史跡名越切通保存管理計画策定報告書』逗子市教育委員会
  • 平井聖ほか 1980「鎌倉城」『日本城郭大系6(神奈川・千葉)』pp.335-336 新人物往来社
  • 鳥羽正雄 1980『日本城郭史の再検討』(日本城郭史研究叢書)名著出版
  • 石丸熙1994「鎌倉城考『玉葉』寿永2年11月2日条をめぐって」『東海史学29』
  • 中澤克昭 1999「空間としての城郭とその構造」「城郭観の展開」『中世の武力と城郭』吉川弘文館
  • 財団法人かながわ考古学財団 1999 『鎌倉城所在やぐら群』かながわ考古学財団調査報告74
  • 岡陽一郎(五味文彦・馬淵和雄編)2004「幻影の鎌倉城」『中世都市鎌倉の実像と境界』pp.41-64 高志書院
  • 財団法人かながわ考古学財団 2005 『鎌倉城(浄明寺五丁目地内)』かながわ考古学財団調査報告190
  • 齋藤慎一 2006『中世武士の城』吉川弘文館
  • 鎌倉市教育委員会 2008「鎌倉城」『鎌倉の埋蔵文化財 11 平成18年度発掘調査の概要』鎌倉市
  • 兵藤裕己校注 2015『太平記(三)』岩波書店
 
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