城郭 長谷川博美 基本記録

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ヤマトタケル神話と母系制社会の民俗学的考察 4

2019-06-30 14:55:25 | 民俗学
ヤマトタケル神話と母系制社会の民俗学的考察 4

※ヤマトタケルの叔母「倭姫命」由縁の坂田神明宮訪問
 私は旧滋賀県坂田郡近江町の住人でもある。現在は米原市に編入されて近江町は存在
しない。ある年私は近江町宇賀野の宇賀野農協を訪れて新米の御握りを食した事を記憶
している。その米は全く味付けがされておらず、米粒は光り輝いていた。その米の美味
さは私の人生の最高の御飯でもあった。また宇賀野の地名は日本神話の宇迦之御魂神
(うかのみたま)の如く穀物神に因むものと私は考えていた。中世にはこの地に宇賀野
氏が居館を構えていたと伝承され宇賀野館と思われる地名「親方」も残っていると聞く。
余談であるが信長に姉川の肉薄戦死した浅井の勇将遠藤喜右衛門も宇賀野出身とされる。


※余談
『新古今和歌集』00753 には

[詞書]仁安元年大嘗会悠紀哥たてまつりけるに稲舂哥

皇太后宮大夫俊成

あふみのやさかたのいねをかけつみてみちあるみよのはしめにそつく

あふみのや-さかたのいねを-かけつみて-みちあるみよの-はしめにそつく

と見えて灌漑深いものがある。この和歌は本稿では大きな意味合いをつ驚くべき内容でもある。
坂田:近江国坂田郡。1166年(仁安1年)の大嘗祭で藤原俊成が「あふみのや坂田のいねをかけつみて
道ある御世のはじめにぞつく」と詠んでいる事である。大嘗祭とは、天皇が即位の礼の後、初めて
行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」「おほなめまつり」とも訓じたが、現代においては
「だいじょうさい」と音読している。皇太后宮大夫俊成とは藤原俊成は大変な高位の歴史上の人物だ。

※ヤマトタケルの叔母「倭姫命」の元伊勢探し
神社由緒
垂仁天皇8年の、天照大御神を淡海甲可日雲宮より、此地に2ヶ年の間奉斎され、分霊の旧社として、
古より坂田宮又は坂田大神宮とも称し、坂田郡の総社として信仰が厚かった。 また天皇の命をうけて
天照大御神鎮座の地を求めた倭姫命の御神徳を偲び、命を祀ったのが坂田神明宮の起源とされる。祭神
は天照皇大神 豊受昆賣命とされる。


※叔母褌の民俗学
叔母褌はヤマトタケルが難渋した伊吹山中の集落甲津原に伝わる民俗伝承に収録されている。ヤマトタケ
ルの叔母倭姫は約2年近江坂田に滞在して伊勢へと向かったとされる。何分神話世界の人物なのでヤマト
タケルや叔母の倭姫の実在は謎に包まれている。また甲津原は現在米原市に属しているが元来は近江国
東草野谷であった事は良く知られている。古代の近江国浅井郡が伊吹近辺から高島市近辺まで広がる広大
な地域であった事がわかる。西浅井の事は私は『剣熊考』として当該ブログで継続して書いているので併
せて読んで頂きたい。

※伊勢斎宮に仕える斎王は内親王とも表現されている。内親王は「ひめみこ」と和訓する。宇迦之御魂神
はその身体が蛇身ともされる神である。豊受の神とも言われている。『魏志倭人伝』の東夷の条に卑弥呼
が登場し卑弥呼の死後には宗女台与が女王として邪馬台国に君臨した事が記されている。台与は豊受の神
と解釈する人もある。倭姫は伊勢に参宮したヤマトタケルに草薙剣を贈与するが、その剣自体が神代出雲
の蛇身のヤマタノオロチの尾から出たものであり蛇身である事がわかる。さて九州の志賀地方で発見され
た金印の取っ手は蛇である事は有名である。古代邪馬台国連合は、謎に満ち満ちた不思議さを湛えている。

※驚愕2世紀の伊勢遺跡
斎王倭姫による元伊勢探しは長く続けられ結局は発見されず、伊勢国にその鎮座地を選定されたのだが
近江国には伊勢遺跡なる驚愕の古代祭祀遺跡が発見されしかも伊勢神宮と同じ建築様式の巨大な棟持柱
も発掘され世間が驚愕した事例がある。もし伊勢遺跡が完全発掘されその壮大な祭祀遺構が出現したら
日本の人々は必ず言う事だろう。神代の時代のそれ以前の謎の宗教施設の神宮が存在したのだと!

※天智天皇の蒲生京遷都視察
 大津から伊勢遺跡のある御神山「近江富士」の延長線上に天智は本格都城を建設しょうと計画した
のだが実現はならなかった。大津宮は離宮であり蒲生に天智は夢を抱いたのであろう。『記紀』には
大津高穴穂宮に住まいした天皇を三人記しているが神聖な壺笠山や野洲の三上山との因果関係は未だ
に謎に包まれている。よもや驚愕2世紀の伊勢遺跡など出土するなど誰も予想しなかった事。大津の
高穴穂に驚愕の遺跡が将来発掘される事を期待したい。
包まれている。

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スリム3人 キング3人 付録3人 番外3人 スライド3人 別格1人

2019-06-29 19:42:30 | 音楽
スリム3人 キング3人 付録3人 番外3人 スライド3人 別格1人

スリム3人
※ライトニング、スリム
 ブルースのライトニング、スリムを聞いてみた。その荒削りな南部サウンドが魅力に感じた。
※スリム、ハーポ
 レイニン、イン、マイ、ハートを聞いてみたら長閑で柔らかいボーカルとハーモニカに魅力を
 感じた。彼の楽曲は英国のデヴイット、ボーイや、ロック、ギタリストのミック、ロンソンに
 も強く影響を与えたと私は感じる。
※ギター、スリム
 凄いギターリストだ。荒々しく歪んだ、ギタートーンはロック、ブルースの原型と言えよう。
 若くして肺炎でこの世を去った事が惜しまれるギタリストだが、一流である事は間違いない。

キング3人
※BB、キング
 ロック少年が必ず憧れる有名なギタリストだ。やはり巧いとしか言いようがない師匠格の人。
 彼のライブ、アルバム、『ライブ、アット、リーガル』を何度も聞いた少年は多い事だろう。
 一音に込められたブルース魂は比類なき完成度を誇り巨匠ギタリストの代表と言える人傑だ。
※アルバート、キング
 独特の調弦を用いた押絃の振幅の大きい、大物のギタリストだ。この人と比べたらステーヴ、
 レイボーンが可愛い若い衆に見えてしまう程の剛腕の持ち主のギタリストだ。日本講演でも
 共演したBBキングを喰う迫力の演奏。BBはギターの絃が切れて焦ったとも伝わる逸話が
 残る。
※フレデイ、キング
 兎に角ギターの音が強い!ボーカルが野太く迫力がある!クラプトンの師匠に相当する人物だ!

付録3人
※リトル ミルトン
 ギターもボーカルも共に巧い。音楽的な貫禄も充分にある。斬新な音楽にも取り組み尊敬する。
※ジョニー、ギター、ワトソン
 ギンギンのブルースギター時代もフアンキーなフアクブルース時代も共に優れた演奏家である。
 日本公演の最中に倒れて急逝した事が深く悲しく感じる。ワトソン師匠の御冥福を改めて祈る。
※クラレンス、ゲイト、マウス、ブラウン
 ギターもフイドルも演奏する。ブルースもカントリーも演奏し、指弾き演奏ギターに味がある。

番外3人
※アルバート、コリンズ
 顔が怖い!漫画『珍遊記』に登場するキャラの様な?おどろおどろしい迫力あるの容貌の人。
※ジョン、リー、フッカ―
 ブキ―チレンと言う曲は異様な原始性を秘めていてプリミティブで、えぐ味、暗さも満点だ!
※バデイ、ガイ
 この人は番外ではない!ブチ切れた時の制御不能状態の演奏には驚く!バッキングも超一流!

スライド3人
※マデイ、ウオーターズ
 このシカゴブルースの親分格のスライドギターは芸術的で時間や空間のゆがみをも感じる人だ。
※エルモア、ジエームス
 ブルーム調のスライドを弾かせたら、その典型とも言えよう。生ギターにマイクを付けて音を
 故意に歪ませる工夫はロック魂の始祖鳥ともいえる荒々しさ、「すさび」をも感じさせる人だ。
※ハウンド、ドック、テイラー
 三人組ブルースバンド、ハウスロッカーズの荒々しい演奏はロック少年達の手本であり憧憬だ。

別格1人
※ロバート、シヨンソン
 もう何も言うまい。この人のギター!この人の声!十字路で悪魔に魂を売った別格の人だろう。

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柳田国男のこども風土記の一文

2019-06-29 03:40:39 | 民俗学
柳田国男のこども風土記の一文
 前投稿で平成は終了したが平成と言う時代がどの様な時代であったか簡潔に明瞭に述べる事は
不可能と私は書いたが昭和十六年十二月十四日 民俗学者 柳田国男は『こども風土記』のなかで
次の如く述べている。
「僅(わず)か百年を隔てた祖先の文章は、もう註釈(ちゅうしゃく)がなくては我々には読めない。」
時代は人間の予想をはるかに超えて変転して行く私の故郷の小中学校「母校」はもはや存在しない。
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ヤマトタケル神話と母系制社会の民俗学的考察 3

2019-06-28 03:25:08 | 民俗学
日本の民俗学「オバクレフンドシ」から古代母系社会を民俗学的に考察するなど真に奇妙で
破天荒な考察や論述であると私は思う。しかし我々が気付かなかった古代母系制社会を模索
する事も東洋史学的視点に立脚した場合は有意義であろう。

 過去の日本の男子が成人儀礼に際して叔母から褌を贈呈される事も真に現代感覚から言えば
奇妙な事ではある。しかしその奇妙さの根源とは何かを考察する事も大切かもしれない。我々
が生きる現代も1000年後の人間社会から見ると理解しがたい、真に奇妙な社会かもしれない。
例えば私達は平成と言う時代を生きた。しかし政権や政党の変遷を客観的に解説できる人は
いないと思う。また様々な事件が発生する社会的背景や社会の全体像を俯瞰できる人は皆無だ。
人間社会とは、その社会と時代を生きた本人でさえも複雑で理解しがたいものかもしれない。

古代中国における母系制社会
舜(䑞、しゅん)は中国『史記』にも登場する王で五帝の一人とされる。先王の堯「ぎょう」は舜の
人格を見極める為に、娘の「娥皇と女英」の2人を舜に降嫁させた。舜の影響によりこの娘達も非常
に篤実となり舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所は3年で都会へと隆盛する優秀な政治家だ。

現代の倫理感覚から言えば舜「しゅん」は重婚をした不貞の人物と糾弾されるだろう。しかし
この中国古代王の堯「ぎょう」舜(䑞、しゅん)の時代は家父長制の社会では無く母系制社会
と推定される。先帝、堯「ぎょう」は自分の息子を後継者には選んでいない。堯「ぎょう」は
娘の娥皇と女英の2人を舜に降嫁させたのではなく、この姉妹こそが古代社会の家の中心の母系
制社会の中核と言う事になり舜(䑞、しゅん)は入り婿になり先王の王権つまり政治体制を継承
した事になる。是は禅譲「ぜんじよう」とよばれる政権継承論であり、天の神は地上の人間社会
を統治する理想の人物を選ぶと言う天命思想の原型にもなっている。日本の古代王権では継体帝
が入り婿して王権を継承する故事が伝わる。入り婿した場合。継体天皇はなかなか大和に宮都を
営めない。何故ならば大和には先帝やその母系制社会を形成する勢力が残存し継体天皇は舜の如
く日本全土が納得する政治を展開しなければならない。九州の筑紫の磐井の反乱なども王権に関
する齟齬や不満の表れであろう。因みに継体天皇の皇后は手白香皇女(たしらかのひめみこ)
仁賢天皇2年(489年)以前 - 没年不詳)である。

中国の堯は舜を登用し、天下を摂政「試験的に政治」させた。そうすると舜は朝廷から悪人を
追い出して百官が良く治まった。それから20年後、堯は舜に禅譲「王位を譲る」した。現代流
に解釈するならば大会社の社長が優秀な娘婿に会社経営の未来を託した事に類似しようか?

『信長公記』によると信長の居城安土城の天主の障壁画にはこの堯は舜など三皇五帝として
描かれた人物でもある。堯や舜は中国神話世界とも言える今から4000年も前の中国古代伝説
の中の人物であるが。近年の中国の考古学は飛躍的な進歩をみせて古代の中国の王都や王族の
謎に迫る様相を示している。

中国の舜王の系譜
顓頊(せんぎょく)は、『史記』に記された帝王で舜は顓頊(せんぎょく)の7代子孫とされる。
日本の継体の系譜
『記紀』は共に継体天皇を応神天皇5世の子孫と記す。また『日本書紀』は継体を11代垂仁天皇の
女系の8世の子孫と記す。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に
父の彦主人王を亡くしたため、母・振姫の故郷、越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町
高椋)で育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していたと
される。

両者は時代も国も異なるがともに入り婿して王統を継承した類似点がある。

中国の易姓革命
 中国では王朝が目まぐるしく変わり王朝の名称「国名」や氏族名も変遷する、是を易姓革命と
よんでいる。天の神は己に成り代わって人間の王朝に地上を治めさせる、しんし徳を失った現在の王朝
に天が見限った時に、革命(天命を革める)が起きるとされる。自分の政治力の無さ人望の無さを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲る事を禅譲、武力により追放されることを放伐といった。
無論、堯舜などの神話の時代を除けば禅譲の事例は実力を背景とした形式的化されたもの。後漢
から禅譲を受けた魏の曹丕は「堯舜の行ったことがわかった(堯舜の禅譲もまたこの様なもので
あったのであろう)」と言っている。 漢(劉氏)から魏(曹氏)のように、前王朝(とその王族)が
徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(姓が易わる)というのが基本的な考え方であり
、血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命と表現されている。




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ヤマトタケル神話と母系制社会の民俗学的考察 2

2019-06-28 01:23:27 | 民俗学
ヤマトタケル神話と母系制社会の民俗学的考察 2
日本の習慣では初めて乳幼児に着せる産着(うぶぎ)には子供の無事成長を祈願する念が
含まれている。余談ではあるが、武家社会(源氏)では源太産着と呼ばれる甲冑を着せる
儀礼もある。民俗学として登場する叔母が男子の成人儀礼に伴い褌を送る民間習慣オバクレ
フンドシは現代の感覚から言えば叔母から男子の下着を贈呈する事になり奇異に感じるが
是は逆説に言えば日本の男子は成人以前の幼児期には褌を着用していなかった事になる。
また家庭や家族社会が母や姉妹を中心として成立していた事を意味し家庭の中心の家屋を
主家とは書かずに母屋と書いて「おもや」と日本では表記する事例は朝鮮語の「オモニ」
母の意味にも通底する言葉でもある。家父長制が日本に導入されても嫁入婚の時代が到来
した時期においても母の里から様々な子供の成長儀礼に伴う祝の品が贈呈される儀礼習慣
が存在した。これは父母が娘とその子供の成長を願う心と婚姻が生じた婚家との家と家と
の縁組の継続を意味するものであろう。
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