城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

滋賀多賀 歴史城郭講演

2024-04-11 16:03:06 | 講演

 

★衝撃の無料公演迫る★

 令和6年4月13日土曜

◆対談者

長谷川先生の米原学びあい

ステーシヨンでの木曜城郭

講座が不思議な好調を続け

今年4月からも開催される。

 

◆質問者

講座好調の原因は何です?

 

◆社会学者

民意行政公報聴講

と総合コンセンサス形成

されているから好調継続!

コンセンサスは合意了解

 

◆分析者

民意は市民の方々の御希望

行政は指定管理組織の採択

公報は公的チラシ配布実施

聴講は遠方よりの来訪聴講

 

◆対談者

しかし今年3月3日の南彦根

プロシードアリーナ城講演

は長谷川先生知己ある人々

の連合合策による民間企画

歴史講座と言え長谷川先生

の地名度や実力が根付いて

いる事の証左だと思います。

▼南彦根 長谷川講演

◆分析者

それは長谷川氏の学問的高さ

に起因とするものではないよ

仕事や仲間や見学者仲間達を

集結連携させたコミュニテイ

集団による一種の出来あいの

集団だと社会学的に分析する。

◆対談者

いやその分析は的を得ては

いないと思います。米原の

木曜城郭講座で長谷川先生

が講師として来場された時

は柔軟な多様的特長がある。

武将談

偉人談

民俗学

城郭学

文献学

地理学

考古学

絶妙にブレンドミックスされ

総合民間学として引出しの多

い味わい深い妙味や滋味豊富

な話題!何が飛び出すのかも

解らない総合的な多様性が!

▼米原木曜 城郭講座

◆対談者

例えば長谷川先生のオリジナル

学問城郭ビイスタ論など比類が

ない独創的発想の学問分野です

例として徳川近江永原御殿など

も飄々淡々と城郭ビイスタ理論

で作られていると語られますが

この城は三代将軍徳川家光の時

に拡張されて充実するのです。

◆対談者

本能寺の変の首謀者明智光秀

ですね本能寺表の軍事的指揮

は丹波黒井城主斎藤利三です。

黒井城はビイスタ工法ですね

と長谷川先生は解説される訳

勿論斎藤利三の娘が徳川家光

の乳母となって春日局として

江戸大奥の取り締まり役とし

君臨していく事になる事です。

▼丹波 黒井城 ビイスタ

 

◆対談者

そして明智光秀の坂本城からは

当然の様にビイスタ工法と言う

規範、法則に従って石垣が出土

して2100人者見学者が出現して

大騒動になっている訳なのです。

 

 

◆長谷川

明智の周山城もビイスタ

工法という事なのです。

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警備厳重 永原御殿と伊賀衆

2024-03-29 20:32:23 | 講演

警備厳重 永原御殿と伊賀衆

伊賀組

 

伊賀組(いがぐみ)は、江戸幕府における百人組の一つ[1]。百人組は同心百人が配属されたことから鉄砲百人組とも称される[2]。長は組頭と称した[3]。伊賀組は神君伊賀越えの際道中を警護した伊賀忍者の子孫から構成され[4]江戸城大手三門の警備を担当し、甲賀組根来組二十五騎組とともに百人番所に詰めた[5]組頭服部仲など。組屋敷四谷仲町、後に伊賀町に与えられていた。

 

◆対談者

長谷川先生の講座が話題呼んで

ます。何で?で好評なのかとね?

 

長谷川博美 米原城郭講座 令和6年度開始

★米原学びあいステーシヨン

令和6年 講師 長谷川博美

木曜講座4月25日午前10時予定

予約先↓

米原学びあいステーションの外観の写真、アクセスマップ

所在地  米原市下多良三丁目3番地

電話番号 0749-52-2240

 

 

◆講座参加者 男性

警備保障の仕事に関係する者

で北近江に生活する者ですが

 去る3月28日の長谷川先生

の講座に参加して驚愕した!

 

◆講座参加者 男性

徳川家康永原御殿の話だから

長浜に関係ない事だと腹決め

てとりあえずの参加した訳

ですが、その日の講座の主題

が警備だった私の仕事の件や

信用に関わる問題を歴史講座

に仮託して論述されてた事だ!

 

◆講座参加者 男性

だから普遍歴史論として現実の

生きた活きた歴史講座だと衝撃

を受けた訳です。私はただ警備

の会社してる訳じゃない社会的

役割を令和現代でも担ってる!

 

 

◆反論者 女性

そんな事関係ない事よ永原御殿

は警備のケの字も全く無い訳だ。

 

◆講座参加者 男性

そうじやないんだって!永原の

御殿の資料を全部そろえて満足

していてもそれは「ウワスベリ」

の表層の歴史家なんだよ!人は

百科事典を購入して慢心するさ

手に入ったらレコードも図書も

百科事典も本棚の飾りになる!

 

◆講座参加者 男性

さも百科事典の知識を全て保有

した様な幻想を抱いて百科事典

を購入した時点でもうその図書

を読まない人間になる事がある

 

◆反論者 女性

でも警備の人の事は永原御殿の

関係パンフには一切書いてない!

 

◆講座参加者 男性

それが生きた歴史講座なのかな?

言葉の羅列の為の歴史講座だろ!

資料の中で令和の現代も通じる

人間社会の警備の歴史の実態を

ズバーンと読み解く普遍性歴史

は長谷川先生だけと衝撃受けた!

◆反論者 女性

長谷川先生を過大評価しないでよ!

山林の中の城址見学会では素朴で

善良な「兄やん」と言う感じです!

 

◆講座参加者 男性

ふふふふ そうかな?私は先生の

講義から別の人格や感性を読み取

ったね!この人はトボケ親父を演

じるも恐ろしい切口を持つ先生と

洞察していますね。何故ならばね

万人が気付かない警備の重要視点

を平然と飄々と語られる事自体に

私は脳裏を強烈に刺激された訳で

もし私が戦国武将なら長谷川お前

ウチの城に勤務しろと即雇用する!

 

◆反論者 男性

長谷川?そんな奴はナンボの者

じや!全く無名講師の代表だぞ!

 

◆講座参加者 男性

徳川家康は本能寺の変の危機

で木俣守勝や長谷川秀一服部

半蔵の伊賀国の土豪連の仲介

を通して堺から神君伊賀越え

をして無事三河国へ帰還して

いる。これは伊賀者の機動力

や警備能力を服部一族のツテ

で獲得して無事三河に帰還を

した事になるな!つまり服部

安全保障と言う警備会社をば

家康が持っていた事になる訳

良い信用の出来る人々を雇用

確保していた家康の才覚です。

 

◆反論者 女性

でも長谷川先生は講座講義の

中で全く関係ない服部良一の

作曲された 東京ブギウギの

話をされて思わず笑った訳ね!

これトボケ先生間違いないわ!

 

◆講座参加者 男性

ふふふふ そうかな『東京』つ

て何だっけな?

 

◆反論者 女性

そんなの徳川家康が徳川幕府を

江戸に作った事が江戸東京起源

ですわよ!そんなの常識ですよ!

 

◆講座参加者 男性

皇居の半蔵門って何?諸説ある

が服部一党が守備した江戸城の

重要な甲州街道への裏門だよ!

 

◆反論者 男性

マエフリが長いんだよ!近江

野洲の徳川永原御殿に伊賀者

の警備など全く関係ないのだ!

 

◆長谷川

それが三の丸や南番所には

明確『伊賀衆之家』とある。

警備会社の親方がこの図面

を見て警備員を何処に配置

するかは一番重要な事です

◆長谷川

先ず永原御殿には青丸の伊賀衆之家

が二カ所も存在する事が警備上重要

徳川が伊賀衆を如何に重用してたか

が如実に証明それるのです。徳川が

神社の狛犬のように2対の伊賀衆之

家を用意している事自体が重要だ!

その他赤丸は全て番所、番屋表記

されている厳重警備体制が解る訳!

◆長谷川

徳川家康とは桶狭間の合戦でも

本能寺の変でも其々危機を脱し

本国三河に脱出するサバイバル

劇を慣行している事が重要です。

 

◆みんな

長谷川先生講座ってオモロイ!

そして深い訳なのですよ!走れ

忍者クン!応援していますよ!

健気に必死に走る忍者が良い!

ウイッキペデイア

御庭番(おにわばん)は、江戸時代の第8代将軍徳川吉宗が設けた幕府役職。将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密を指した。

諜報活動といえど、実際には時々命令を受けて、江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方におもむき情勢を視察していた程度だといわれている。実態としては、大目付目付を補う将軍直属の監察官に相当する職であることがうかがえる。

職務[編集]

御庭番は、江戸幕府の職制では大奥に属する男性の職員・広敷役人のひとつで、若年寄の支配だった。彼らは江戸城本丸に位置する庭に設けられた御庭番所に詰め、奥向きの警備を表向きの職務としていた。時に将軍の側近である御側御用取次から命令を受け、情報収集活動を行って将軍直通の貴重な情報源となった[1]。また、日常的に大名・幕臣や江戸市中を観察し、異常があれば報告するよう定められていたといわれる。

庭の番の名目で御殿に近づくことができたので、報告にあたっては御目見以下の御家人身分であっても将軍に直接目通りすることもあり、身分は低くても将軍自身の意思を受けて行動する特殊な立場にあった。

その特殊な任務のために功績を挙げて出世する機会に恵まれ、中には幕末に初代新潟奉行長崎奉行を歴任した川村修就勘定奉行外国奉行を歴任し、日米修好通商条約批准のため使節副使としてアメリカに渡った村垣範正のような人物もいる。

起源[編集]

御庭番の前身は、吉宗が将軍就任前に藩主を務めていた紀州藩お抱えの薬込役(くすりごめやく)と呼ばれる役人たちで、紀州藩でも奥向きの警備を表向きの職務とし、藩主の命を受けて情報収集を行っていたといわれる。吉宗が将軍に就任したとき、薬込役のうち十数人の者たちが吉宗に随行して江戸に移り、幕臣に編入されて御庭番となった。紀州藩の薬込役は全体で数十人おり、その中から幕臣に編入されたのは十数人だけだったが、これは輪番で江戸に随行した者を任命しただけで、特に選抜して連れてきたというわけではない。

吉宗が御庭番を新設した理由としては、家康以来幕府に仕えてきた伊賀者甲賀者が忍者としての機能を失い、間諜として使い物にならなくなったことや、傍流の紀州家から将軍家を継いだ吉宗が代々自分の家に仕えてきて信頼のおける者を間諜に用いようとしたことが、理由として挙げられる。また、幕府の公式の監察官だった大目付が後代には伝令を主たる職務とする儀礼官になったこともあり、将軍直属の監察能力が形骸化したため、これを補って将軍権力を強化する意味あいもあった。

  • 「御庭番」の家筋の祖となった17名の採用経緯と役職名の変遷[2]
    • 享保元年10月に吉宗の長男長福丸(後の徳川家重)に供奉して江戸城に入った者(「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
      • 川村弥五左衛門
      • 宮地六右衛門
      • 薮田定八
    • 享保元年11月に江戸に出府した者(12月に「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
      • 明楽樫右衛門
      • 西村庄左衛門
    • 享保3年5月に吉宗の母(浄円院)とともに和歌山城から江戸城に入った者(「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
      • 馬場瀧右衛門
      • 中村万五郎
      • 野尻七郎兵衛
      • 村垣吉平
      • 古坂興吉
      • 高橋與右衛門
      • 倉地文左衛門
      • 梶野太左衛門
      • 和多田孫市
      • 林惣七郎
      • 吉川安之右衛門
  • 以上、江戸幕府の「広敷伊賀者」となった16名は享保11年2月に7名が「御休息御庭締戸番(おきゅうそくおにわしめどばん)」、残りの9名は「伊賀御庭番」となり、従来の「広敷伊賀者」と区別された。
    • 享保14年8月に紀州藩出身で江戸幕府でも「口之者」を勤めていた者1名(「御庭番」に任命、元紀州藩「口之者」)
      • 川村新六
  • 以上の合計17名が「御庭番」の祖となった。

身分と家柄[編集]

吉宗のとき紀州藩で薬込役と呼ばれていた隠密任務に就いていたものを幕府に編入し、最終的に17名を初代の御庭番に任命した。以後の御庭番はこの子孫17家の世襲からなり、さらに分家9家が生まれて合計26家となり、歴史の中で4家が解任され、幕末には22家が残った。彼らは、世襲によってまかなわれる御庭番の家筋としての団結を保ち、御庭番の職務を協同して行っていた。[2]

御庭番の家筋の諸家は、当初はすべてが下級の御家人だったが、幕末までに大半の家が下級の旗本にまで上昇した。御庭番出身の者が出世すれば、当然に軽輩の職務である御庭番からは離れることになるが、その子が新たに幕府に出仕するときは御庭番となるのが定めで、旗本に出世した御庭番の子は旗本格の御庭番になった。

彼らは当時の武鑑に御庭番として収録されており、間諜でありながら氏名、住居はもとより収入や経歴に至るまで公開されていた。

遠国御用[編集]

御庭番が幕臣としての身分を隠し、遠国に実情を調査に出かける旅行のことを「遠国御用」という。前述したように、彼らは一般に言われるような華々しい間諜行動はとらなかったようだが、それでもしばしば命ぜられる遠国御用は重要な任務だった。

御庭番に関しては、将軍の命を受けてすぐに幕府御用達呉服店におもむき、秘密の部屋で変装して家族にも告げず、ただちに出立するといった記述をよく見かけるが、御庭番自身の談話や彼らの書き残した記録、幕府に残る公的記録からは、これが伝説に過ぎないことが見て取れる。

実際には、情報収集の命令を受けた御庭番は、出発前に一度自宅に戻って綿密に準備していた。彼らは、幕臣として出世後に御庭番の職務を離れた長老までも含めた、御庭番家筋の間で相互に親密に連絡を取り合っており、命を受けた御庭番は家筋の長老をはじめとする先輩御庭番たちに、調査内容について相談していた。それでも表向きには、御庭番たちは「他人はもとより親兄弟と雖も職務上の秘密を漏らさない」旨の誓紙を就任時に提出していた。また、江戸で事前の調査を行い、予備知識を蓄えてから出発した。調査報告にあたっても報告は書面で認め、先輩御庭番たちの校閲を経てから報告が行われた。

隠密調査中は、公式には病欠扱いとされていたようである。報告書上の旅程は、下命直後に出発して帰着直後に復命した、という形式をとったが、実際には事前の準備と事後の報告書作成のため、前後数日間の在宅期間が存在していた。これは、脇目もふらず職務に邁進したという建前をとる必要があったことと、日割で出張手当が支給されたことによると考えられる。

遠国御用のたびに立ち寄ることになる京都大坂には、毎回御用を命ぜられた御庭番が立ち寄る御用達町人が、御庭番の隠密調査を支援するための一種の現地スタッフとして配置されており、御庭番は初めての御用でも彼らの助けを得て無事に任務を果たすことができた。

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余呉城郭研究会 令和4年1月15日 臨湖 講演会報告

2022-01-20 21:15:36 | 講演
★★★★★城郭ビイスタ論
衝撃 城郭ビイスタ論 上文字クリック
 
余呉城郭研究会 令和4年1月15日 臨湖 講演会報告
 
◆参加者様感想
1城郭分布と言う城見学の基礎がキッチリ出来ていた。
2知らない敦賀市引疋田の城塞群まで詳しく知ってる。
3塩津地域で今度は是非、歴史城郭講演をして欲しい。
4県外参加ました評判どおり滋賀城位置を熟知してる。
5中世交通網から中世城郭の位置を検索発見している。
6歴史、地理、民俗学、神社史、交通史、総合知識城。
7県外人が知らない滋賀の城の実状を詳細に知ってる。
8新しく発見された城郭遺跡の詳細さはやはり本物だ。
9城郭関連地名の比較研究分析が白眉絶賛とも言えた。
10城郭ビィスタ論とは稀代の城郭論だと聞いている。
★★★★★城郭ビイスタ論
 
◆一般者
滋賀県長浜市にある臨湖は美しい景観の長浜港
にある会議や講演に最適の場所と聞いています。
 
 
◆質問者
今回は長浜市余呉町から離れて道路に雪の無い
長浜市街にある臨湖での歴史城郭講演と言う事。
 
 
◆長谷川
コロナ感染の拡大を伝える報道があり参加者様
は研修室に2~3人と私は予想していたのですが?
 
 
◆対談者
そのような事は絶対にありませんよ!
県外は京都府、奈良県、三重県、愛知県、福井県
米原市、草津市、近江八幡市、彦根市、長浜市等
幅広い広域から有識者様賢者様を中心に集合希望
されました。講師力量が学門的に素晴らし証拠よ!
長谷川先生は有識層に長年根強い信頼定評がある!
誠実で真面目な城郭遺跡見学と言う点では定評が!
ま初心者の方が学べる糸口学門案内が素晴らしい!
 
◆辛口様
長く長谷川先生の城郭見学や信長公記に接して来た
人々は、ゆっくり、ゆっくり、着実に良さが解った。
 
 
◆参加者A
①浅井三代の久政と長政が「猿夜叉丸」だと認識した。
浅井の世子「世継ぎ」は「猿夜叉丸」でなければなら
ない。万福丸や満菊丸は浅井長政の正嫡子でない事が
即刻、電光石火の如く私は理解できた。多賀大社奉納
の猿夜叉丸刻銘梵鐘は浅井の正式後継者「猿夜叉丸」
の寄進である事も簡単解る「猿夜叉丸」名称が最重要!
 
◆参加者B
西浅井って昔は浅井郡だったんだ。塩津谷には多数の
熊谷氏関係の城がある事に本当に仰天致しまいました。
そしてまたまだ私の知らない砦や城跡がある事に唖然!
 
◆参加者C
私は滋賀県外から滋賀に来ました。最初は滋賀県外か
ら来た先生に付き勉強したのですが?疑問を呈する事
が積み重なったんです。長谷川先生の現地城郭見学会
に参加したら実に現地城郭遺跡見学に対してシュアー
でナチュラル素朴純粋な心で城郭遺跡見学できる様に。
 
◆参加者D
こんな目の覚める素晴らしい歴史城郭講演は近年体験
した事がない。高嶋浅井氏、浅井郡浅井氏、田屋氏や
饗庭局、海津局、浅井氏から、三好氏に改姓し浅井氏
の事など敦賀市と高島市と長浜市の要の位置に所在す
る塩津において高嶋、敦賀、長浜の皆々様ともに学習
会を是非とも慧眼と洞察備わる長谷川先生に講演を御
願いたい。福井嶺南の人々や高嶋市の人は長谷川先生
の事を知っておられる方は有識層に必ずおられます!
嶺南と言う福井県の言葉を長谷川先生は知っておらる。
 
◆参加者E
令和4年1月15日の歴史城郭講演はまさに伝説の講演
退色する事のないマジ歴史城郭ライブ講演と言う内容!
 
 
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賤ケ岳合戦の実像に迫る! 45の疑問点 長浜臨湖講演迫る!

2020-07-15 19:59:27 | 講演
賤ケ岳合戦の実像に迫る! 45の疑問点 長浜臨湖講演迫る!

去る令和2年7月4日の多賀公民館における
田畑喜久弘氏の企画講演 長谷川博美
明智光秀 講演は 時節柄にも関わらず
32名もの御参加を賜り、盛況とも言える
講演になり、改めて御礼を申上げます。


さて来る令和2年7月18日の長浜 臨湖で
賤ケ岳合戦の実像に迫る! 45の疑問点 
と言う大変ユニークな講演会が開催され
る予定です。7月15日には長浜文芸会館
の岡本館長、ロハス長浜前川常務、田畑
余呉城郭研究会名誉理事、同会の生月茂
会長、の諸氏集合してカメラリハサール
Pポイントリハーサルが実施されました
既に彦根長浜各地から参加希望のメール
数件が入っており期待が寄せられている
との報告が入っております。15日のリハ
では三密対策、消毒薬設置、検温設置等
の対応策も協議検討されました。この機会
是非とも有志各位様には御参集を賜る事を
謹んでお願いを申上げます。
講演日時  令和2年7月18日午後13時より約90分間の予定
場所    滋賀県長浜市港町4番9号
主催者   余呉城郭研究会
催事内容  歴史講演
受付    宮本さん
参加費   500円「一般」
座席    117席
★特典   宮本さんと面識ある方は参加費免除「受付必要」
★資料   質疑応答形式A4用紙記入式レジメ3
★撮影   Uチューブ用録画カメラ準備 講演は録画形式
★駐車   豊公園駐車場入口は東に開口3時間までは無料
★講師   長谷川博美



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新聞の力 メイドイン滋賀 城郭長谷川さん

2020-06-30 19:47:56 | 講演
新聞の力 メイドイン滋賀 城郭長谷川さん
 新聞の力とは偉大なものである。6月29日
新聞に私が紹介されると早速彦根の木村さん
達が多賀町結の杜「新設多賀公民館」への
下見を開始されたと情報が早速入ってきた。

長谷川先生はびわ鮎や鮒ずしと同じ滋賀産
の人です。メイド、イン、滋賀の長谷川を
応援せんと多賀にやって来られる事が有り
がたい。心より御来場を感謝申し上げます。

★多賀みておき隊 講演★
催事名称
多賀みておき隊 結の森 歴史民俗学講演 
主催団体
多賀みておき隊
参加費
無料
主催者
田畑喜久弘 /元滋賀民俗学会会員/元脇ヶ畑城郭探検隊長/元関西城郭研究会会員
連絡先携帯☎ 090-6205-0237
講師
長谷川博美/元滋賀県中世城郭分布調査現地調査員/元滋賀民俗学会理事/歴史城郭研究家
開催日
2020年7月4日土曜 
集合場所
多賀町中央公民館 多賀結いの森 
滋賀県犬上郡多賀町大字久徳160番地2名神高速道路彦根IC左折→国道307号久徳南交差点を左折(ICから車で約7分)
 名神高速道路湖東三山スマートIC右折→国道307号久徳南交差点を右折(スマートICから車で約12分)
集合時間
午後1時前には集合受付を終了させて下さい。受付宮本さん。
会場は広く、ソーシャル、デスタンスを取られる準備あり。
講演予定 午後1時~2時 無料駐車場完備 場所大会議室
講演内容
①  結の民俗学的考察
② 明智光秀伝説 多賀町佐目の城の構造的解説
③ 彦根藩木俣土佐守と明智十兵兵衛の密接な関係
★ 講演後 多賀町久徳城跡無料有志見学会の予定あり
▼歴史書『信長公記』にも登場する久徳左近尉ゆかりの久徳城址

▼新装多賀公民館 結の杜

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