伊勢ー白山 道

集団では無く、社会の中で心身の健康を正しく個人で目指します

自分を映す貴重な鏡

2009-09-05 10:11:23 | Weblog
生きている限り、どんな人にも内在神が宿っておられます。
「内在神=鏡である」、今朝の朝日が昇るのと同時に、この様な意味が降りてきました。
毎日のように書いているブログ記事のテーマは、朝日と共に心中に浮かんで来ます。事前に記事を準備できれば楽だと思い、今まで何度も下書きを前日にしようとしましたが、1行も書けません。自分ながらでのカンナガラ状態(内在神と共に生きる事)で記事を書く事が、既に2年以上ブログで続いています。私一人で記事を書いている事を、未だに信じられない方が居る様です。
私の記事内容が、私のカンナガラを現しています。
今では1日の閲覧数が10万件を超えるまでに成った事に、感慨深いものを感じています。

すべての人が内在神を宿す人であり、既に神懸かり状態の人でもあります。今の自分が、どんな神様を現しているのかが問題なのです。
神道に残された唯一の聖典、
大祓詞(おおはらえのことば)には、
「国内に成り出む天のます人らが 過ち犯しけむ種種の罪事は 天津罪 国津罪 ここだくの罪出む」とあります。これは、
「国土に誕生する内在神を宿した人間は、神界にも在る罪、現実界でも起こる罪、たくさんの罪を犯します」と解釈できます。
この「天津罪 国津罪」(あまつつみ くにつつみ)の犯罪の内容は、六月晦大祓祝詞
(みなづきつごもりの おおはらえののりと)に記載されていますが、文章にするのも嫌になる犯罪内容です。残酷な手段による殺人、性犯罪・・・今の世界で現実に起こっている犯罪が預言されています。
神を宿す人間も、罪を犯してしまう事があると言うことです。
だから、正しい信仰を持ち、執着を水に流しながら「今」を生きる事の必要性が示唆されています。

人の内在神が鏡であるならば、相手が持つ鏡に自分自身が映り、そして鏡に映る自分の姿を初めて見ることが可能なのです。自分が持つ鏡は近すぎて、自分では見え難いのです。自分自身を正しく見る為には、相手が必要なのです。
瞑想をするとは、自分の鏡を見ようとする無理な行為です。そんな難しい事をせずとも、他人と
接触することで簡単に内省が半強制的に進みます。
大切な事は、自分の本性を見ようと意識し注意することです。
他人と面して居る時に感じる感触やイメージとは、本当に相手の内容なのか?自分の気付かない自分の姿を映しているのか?を考えなければ生けません。
ただ言える事は、一人で山や部屋に篭もる限り、正しく自分自身の神性に気付く事は、絶対に出来ないと言う事です。
自分自身を映す、他人の鏡=内在神が必要だからです。
えっ、今日も嫌いな人と会う? 良いでは無いですか~。
自分の内在神を大きく発露させて呉れる恩人かも知れませんね。

生かして頂いて ありがとう御座位ます

人類の 5% 運動を広めたいです。
    

応援して下さる方は、この3箇所をクリックして下さい。
クリックして現れるランク一覧の中から伊勢白山道を押してね。
初めての方は、まずCATEGORYの「初めての方へ」、先祖供養については
BOOKMARKの「短冊と線香による先祖供養ダイジェスト」をお読み下さい。
私の返答が無いコメントは、霊的な問題では無いと言う事です。
個人的な相談はメールでは無く、コメント欄でお願いします。

コメント (569)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする