伊勢ー白山 道

集団では無く、社会の中で心身の健康を正しく個人で目指します

悩む前に練習する事

2009-09-24 10:26:36 | Weblog
毎日、私は神棚の水を交換しています。
無言の見えない存在に対して、ただ水を置く行為を日々するのは良いものです。
そこに意味や目的を考えない、見い出さない、期待をしません
もし、この行為に反応などを感じていれば、現実界の意識に囚われたまま、迷うことに成るでしょう。要は、自己意識の向上は起こらないのです。外部からの刺激に巻かれて行くことに成るからです。
何も感じずに、ただ、水を神棚に置いて行く。これを繰り返して行きますと、「自己の内面」と向き会う事が無意識下で始まります。では、神棚以外の場所でも、同じ水交換の作業をしても良いのか?
これは、やはり違うのです。
神棚が表現している世界は、大自然の森を再現しています。
社殿と榊と水容器は、森林に囲まれた湖水と木の住居です。人工の社殿は、人間を意味しています。人間と大自然が一体と成り、調和して暮らす姿の全体像が、神様の本当の姿を表現しているのです。
本当の神様の姿とは、固有の形態をとらずに、色々な要素が調和して機能している姿に垣間見ることが出来ます。家族が楽しそうに食事をする姿にも、神様の一面が表現されているのです。
水を神棚に置く行為とは、自分自身も神棚と言う世界に湖水を出現させる創造神の一人として参加している事にも成ります。
茶道の極意も、決められた作法をひたすら無心に繰り返す行為により、「自分の心を見つめる」ことに在ります。
人間の意識の向上を邪魔するのは、肉体が発生させる刺激が原因の1つにあります。肉体の注意を作法行為に向けさせている間に、心は肉体の縛りを離れて自己を見る事が可能と成ります。
難しい事をいろいろと書きましたが、要は神棚や先祖供養などで、無心に水や感謝の気持ちを
「与える行為」の練習をする事が大切なのです。練習の実績を積まない限りは、日常のパターンの刺激に巻かれて行くと言うことです。 他から何かを貰う、得る、ばかりを求めるから、心が苦しむのです
皆さんの内在神の本質は、「与える」存在です。 他人の役に立てれば、なぜか嬉しい気がするのが人間の本質です。
どんな貧乏でも、ウンともスンとも言わない見返りを呉れない存在に対して、水の一杯ぐらいは
「与える」ことができます。
不安な人が多いですが、悩む前に見えない存在へ「与える」練習を積んで行くことです。 
自己の内面が変わります。

生かして頂いて ありがとう御座位ます

人類の 5% 運動を広めたいです。
    

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私の返答が無いコメントは、霊的な問題では無いと言う事です。
個人的な相談はメールでは無く、コメント欄でお願いします。

コメント (660)
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