すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

【森保ジャパン】自主性にまかせる「幅」と「深さ」

2020-11-22 08:06:10 | サッカー日本代表
リベラルで民主的な放任主義

 選手の自主性にまかせる、という森保ジャパンを見ていると、なんだかドラマ「金八先生」がブームだった頃の学校を思い出す。

「生徒の自主性にまかせる。校則などもってのほかだ」

 学校の先生がもしこう言えば、「民主的でリベラルな先生だ」と拍手喝采。持て囃される。だが校則で基準を決めておくのは必要だし、子供である生徒がすべてに関し「正しい判断」ができるとは限らない。

 これと同じで、

「選手の自主性にまかせる。ゲームモデルやプレー原則など必要ない」

 などと言い始めたらサッカーにならない。

 森保ジャパンを見ていると、なんだかこうした「リベラル主義こそ素晴らしい」的な胡散臭さを感じてしまう。

芸術は即興性こそが大切か?

 サッカーはよく芸術になぞらえられる。確かに芸術家のインスピレーション、即興性は重要だ。例えばジャズのコンサートで、ギタリストが即興で鳥肌もののすばらしいギターソロを弾いたとしよう。

 すると当然、「あのギタリストは天才だ」と誉めそやされる。

 なんだかこれも、森保ジャパンと共通しているように感じる。つまり以下のような感じだ。

「あの切羽詰まった局面で、あの選手は瞬間的なインスピレーションでプレイを選択した。天才的な選手だ。監督に言われた通りやるのでなく、彼は『自分』を持っている」

 こう誉めそやされる。森保ジャパンを取り巻く状況は、こんなふうに芸術における即興性が賞賛されるのとも共通している。

 サッカーは野球とちがい、ワンプレーごとに監督がブロックサインで指示を出すわけにはいかないのだから当然といえば当然だが。

森保監督をめぐる二元論

 さてここで議論はふたつに分かれる。

「プレイが止まることの少ないサッカーは、選手による局面ごとの自主的な判断がより求められる。その集積こそがサッカーだ」

 この論法を極限まで突き詰めれば、最後は「監督なんていらないよね」ということになってしまう。【主張A】

 だが他方、サッカーはこうも言える。

「複数の選手が共通の『意図』をもち、同じ方向性でプレイする。そのときゲームプランやプレー原則は絶対に必要だ。それがなければチームは烏合の衆になってしまう」【主張B】

 さていったい、どっちが正しいのか? 正解はもちろん両方の折衷案だ。

 ゲームプランやプレー原則を前提にした上で、こまかなワンプレー、ワンプレーは選手がインスピレーションで判断する。それがサッカーだ。

「炭鉱のカナリア」はいつ鳴くのか?

 さて、では肝心の森保ジャパンはどうか?

 森保監督は「ベースになる幹の部分は選手に提示し、あとは選手の判断にまかせている」

 こんな感じのコメントが多い。これだけ見れば上にあげた【主張B】に近いように感じる。だが実際の試合を見ていると、森保監督が選手にプレー原則を提示しているようには見えないのだ。

 森保監督を支持する人はこういう。

「森保監督は細かくコンセプトを決めてやろうと思えば、それができる人だ。だがあえてそれをやらずに選手の自主性に任せ、化学反応を見ているのだ」

 とっても便利な言説である。こんな論法が通るなら、どんな無能監督も「選手の自主性を重視している。だからあえて指示してないんだ」で済んでしまう。ではいったい、いつまで化学反応を見るつもりだろうか?

 こうしてジャーナリストが監督やサッカー協会に忖度し、真実を言わない。正しい指摘をしない。

 なんだかこれって、どっかの政府とそれを取り巻く御用マスコミの有り様にそっくりだと思いませんか?
コメント (1)
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