のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

認識力について(4)

2023-09-02 | 5次元宇宙に生きる(空間)

のしてんてん五次元龍「涅槃」

 

 

 

人間の持っている認識能力を(1)~(3)でその全体の概要を見てきた。

認識論的に言えば、人間の認識能力は五次元による世界認識が最大であると思われるのである。

 

ところで人間は、自分と世界をどのような仕組みで認識しているのだろうか。

この疑問を論理的に理解するために、考えられる構造は次の通りである。

 

認識は以下①~②の通り身体と心の二面性をもって成り立っている。

認識を生み出す五つの概念のうち、

三つの概念は主に身体に関する認識を担い

二つの概念が心の認識世界を作り出している。

これを①②に分けて考えてみよう。

 

① 実在の世界を物質の観点で眺める能力

 

世界をあるがままに見るためには三次元の能力で十分である。

自分の感情を交えず、ただ「これ」という認識は三次元で可能になるということである。

人間を「心」と「体」の合わさった存在だと考えるなら、

三次元は「体」を認識するための概念だと考えられるのである。

つまり三次元の世界認識は、物質世界をありのままに、感情を交えないまま認識しているのである。

違った見方をすれば、

三次元認識は誰もがほぼ同じ認識を共有できる世界だということなのである。

ほぼ同じというのは、人間は世界の中で宿命的に立ち位置が違うということである。

すべてのものは、世界から存在する地番を与えられている。いわゆる住所である。

しかし実生活のようにはいかないだろう。我々は決して同じ住所に棲むことはできないのである。

二人が同じ風景を見ていても、完全に同じ風景とは言えないのが事実であろう。

そして自分の存在する地番から一生涯、転出転入が不可能だという現実を

三次元認識は私達に告知するのである。

三次元認識で観る世界は、ある意味冷たい機械の世界観だと言える。

いわば実在に対する、実在の認識なのである。

もちろんこれは論理を進めるために言っているだけで、実在には認識そのものが存在しないだろう。

人間が素晴らしいのはここから心を生み出したことである。

すなわちそれが「認識」なのだ。

実在に次元など存在しない。ただ全一の存在なのである。

しかし人間は自分の存在する地番から目覚めたのだ。外を眺め、世界を理解しようとし始めた。

この運動が心を生み出したのだ。

その土台となるものが三次元認識なのである。

認識の誕生!!

これは素晴らしいことだ。

永遠に眠る実在の凍土に落ちた種が

己の地番を立ち位置にして、己の幹を伸ばし、木の葉を茂らせ花を咲かせる。

たとえ迷いと苦と争いが絶えなくとも

素晴らしいことに変わりはない。

これは永遠の人間賛歌

なのである。

 

 

② 心の世界を描き出す能力

 

実在の中で己の地番を与えられた人間が次のステップに足をかけたのは。

「動いている」という気付きからであった。

与えられた地番は不滅の存在であっても、不動の存在ではないと知ったのである。

 

自分は動くことが出来る。

世界も動いている。

そこで人間は「時間」の概念を生み出したのである。

時間の次元に足を踏み入れた人間はここから人間独自の心の世界を生み出すことになるのである。

物質世界を、時間の概念を使って認識する四次元世界が花を咲かせ始めたのである。

これが「心」に他ならない。

心身という人間の基本型は、この四次元認識そのものを指しているのである。

 

 

時間の概念は、実在から見れば意外だったのかもしれない。

それは存在に地番を与えた瞬間に生まれたものだからだ。

実在を分割する地番がなければ時間は存在しない。

 

もちろん、「実在に時間は存在しない」という意味は、実在に動きがないという意味ではない。

実在にとっては、そんな認識など必要ないという意味である。

しかし人間にとって、これは実在からの独立を意味するのだ。

実在の関り知らぬところで、人間は己独自の文化を築き始めたのである。

四次元とは人間が自らの認識として最初に習得した時間の概念を主軸にした認識世界なのである。

世界を時間軸で認識する力は、人間に能動的な生き方を与えてくれた。

それはとりもなおさず、現在の文明を築く礎になった。

実在の中で突出する独自性をつかみ取ったのである。

しかし苦悩が副作用のように現れたのも事実であろう。

何故苦は生まれたのか。

四次元のイメージ図を見ていて何か気付くことはないだろうか。

苦悩は明らかにこの図の中に隠されているのである。

 

時間の概念によって、人間は自分の存在を根無し草のようにしてしまったのである。

図を見て分かるように、「私」の依って立つべき芯がどこにあるのか分からないのだ。

辛いことがあれば未来に自分の身を置き、

悔しいことがあれば、心は過去に拠り所を求めている。

現在に身を置こうとしても、過去の悔恨と未来の不安が決して今に心を安住させてくれない

これが時間の概念が生み出した苦なのである。

 

あらためて図を眺めていると

四次元認識の世界は、未完成の心の図に思えてこないだろうか

これを満たされた心ということはできないのである。

 

古来より様々な宗教や哲学が起こり、苦を取り除こうとしてきた。

悟りと称して、四次元認識から欠落した心を満たそうとしてきたのである。

大日如来、阿弥陀仏、釈迦やキリスト、ワンネス、パラレルワールド、

すべて、四次元認識の欠落している部分を、認識のための新しい概念を考える前に、今ある認識世界を基に悟りをつかもうとする努力なのであろう。

しかし新たな認識の力に注意が向かなかったために

その救いは特殊な教義や行為によって、部分的に実現したに過ぎなかった。

その救いがなぜ万人にいきわたらなかったのか。

それは人間が基本的に持っている認識の力に対する分析と理解に今だ及ばなかったからである。

 

人間の基本的に持っている力に意識を向ける

それも呪術的ではなく、万人に開かれた論理(思考能力)を働かせることなのである。

そんな観点から四次元思考を見つめると

明らかに心を完全に表現し得ていないことが分かるのである。

足らないものは何か。

それは己という中心軸なのである。

それが欠落している認識を回復させてくれるだろう。

 

あらためて下の五次元のイメージ図を見てもらいたい。

図の形だけでも、満たされた心の空間を感じないだろうか。

これはしかし見た目だけではないことが、実在を意識するだけですぐに分かるであろう。

 

スケールの概念は心の中芯で時間の概念と直交している。

原点で二つの概念は重なるのだが、時間は左右に過去と未来という虚構の世界を作り出す。つまり原点だけが実在だと考えられる。

それに対して、スケールの概念が作り出す極小・極大の世界は、実在の原点だけを見つめた認識世界だと分かるだろう。

ここで見る世界は、己を小さな目で見るか大きな目で見るかの違いだけであるから、これは実在する己の全体像を眺めているのである。

すなわち、スケールの概念が見せてくれる世界観は、己を含む実在そのものの姿であることはう言うまでもないことであろう。

 

瞑想とは意識するしないにかかわらず、

意識をスケールの軸に向けて己を眺めていることなのである。

つまり五次元とは

今まで行われてきた求道。例えば瞑想し、悟りの境地に入り、涅槃の世界を求めようとする様々な試みを否定するものではなく、

むしろそれが、人間の本来持っているスケールの概念という認識能力を理解し知ることで

様々な道を通りながら、悟りという完成された人間の心を見出す力になるのである。

 

しかし私は個々の人間存在を否定して単一の顔を強要する

どんな宗教もAIも団体も認めない。

それらは五次元に反するからである。

 

5次元はイメージ図からも分かるように

中心は常に己しかない。

これは実在から存在する地番を与えられた人間の宿命であるとともに

誰からも抑圧されない存在である証明だからである。

人間は神であると同時に迷える羊でもある。

失敗もするし過ちもあるだろう。

しかし万人が一人残らず己の尊い神殿を構えているのである。

そこに安置されているのは己の姿なのだ。

 

五次元をよく理解するとそんな風景が

必ず見えてくる。

 

次回、人間の認識力にあるさらなる真実に目を向けていきたい。

 


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