Malang Indonesia ジャワ島ぐらし

高原の学園都市マラン。Universitas Brawijayaや街での出来事を綴ります。

The coldest winter I ever spent was a summer in San Francisco.

2012-08-15 | Reading, Literature poem song
とは、『トムソーヤ』『ハックルベリーフィンの冒険』で知られる
マーク・トウェインの名言だそうですが........

On sunny Sunday, temperature is going up, up, up.......
reached to over100.
Escaping to coast area is a great idea
so we went to San Fransisco.
Tourists have never expected that freezing cold weather
in August just same as Mark Twain.


南部出身の彼でなくても、
サンフランシスコの8月の寒さには
誰もが震えあがるでしょう。
「霧のサンフランシスコ」とは聞いていたけれど、
実際にその霧と寒さを体感してビックリでした。


30℃を超える、Pleasantonから車で1時間弱、
サンフランシスコ ピア39、フィッシャーマンズワーフは
太陽がある昼間でも体感気温、15℃位。
ミニスカート、ショートパンツのお嬢さんたち
は震えあがる8月の休日でした。


埠頭で横たわるSeaLion:アシカ
ちなみにアザラシは海豹と書いてsea dog、
オットセイはfur seal ですね。
ついでにゴマフアザラシはPocaです。

  

コロラドの事件の後、星条旗が半旗で掲げられているのを多く見ます。



どこにでもいるのでしょうか。暴風の中、保護柵に上ってパフォームする人



チョコレートショップのウインドウはももうハロウィン

写真は若かりし日のマークトウェイン


は晩年期です。


SFの霧発生のシステムについて分かりやすく説明してくださっているサイトを見つけました。

長いですが、引用させて頂きます。
(サイトでは動画もあり、理科嫌いの私にも理解できました)

以下、引用です********************************************

カリフォルニアの沖は、寒流が流れているため霧が発生しやすい。海洋の湿った空気が寒流の冷たい水(ペルー海流と同じように、湧昇流により下層の冷たい水が表層に上がってくるのであります)によって冷やされ、霧が発生するのです。カリフォルニア沖の太平洋上では、8月に限らず霧が発生しやすいのです。



 8月は、内陸のセントラルバレーが高温になる一方、寒流が流れる太平洋上はそれほど高温になりません。セントラルバレーでは気温の上昇によって大気が膨張し、空気の密度が低くなります。すなわち、内陸部に低圧部が形成されるわけです。太平洋上は気温が上昇しませんから、大気はそれほど膨張せず、空気の密度が濃いので、高圧部です。高圧部と低圧部があれば、大気が高圧部から低圧部に移動して、風が発生します。



 すなわち、夏はセントラルバレーが熱せられ気圧が低くなるので、海上にできている霧が、そこにひきずりこまれます。そして、その通り道にサンフランシスコがあるので、8月のサンフランシスコは霧に覆われるときが多いのです。

 霧に覆われれば、日照にめぐまれませんから、気温があまり上がりません。ふと考えると、これは、東北地方の太平洋側で、初夏にオホーツク海気団から「やませ」が吹き込んで大量の霧が発生すると、気温が上がらず、冷害になるようなもんであります。

 そして、9月になって、内陸部で気温が下がり低圧部がなくなると、風が吹き込まなくなり霧は晴れて気温が上がる、という仕掛けです。

 

ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ

2012-08-08 | Reading, Literature poem song
ブログのコメントで教えて頂いたスピーチ。

英語字幕のスペイン語でスピーチを聴いて
打村明さんの翻訳を読みました。

以下、翻訳を引用させて頂きます。

スピーチの動画+英語字幕
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=ezofj2ydzz4



ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)
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会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。
ありがとうございました。


暁烏 敏(あけがらす はや)

2012-05-10 | Reading, Literature poem song
十億の人には十億の母あらむも
 わが母にまさる母ありなむや


この歌を詠んだのは暁烏敏(あけがらす はや
明治10年石川県にうまれの、真宗大谷派の僧侶で
高浜虚子に師事したこともある人です。

北海道旭川生まれ『氷点』『塩狩峠』『道ありき』で有名な
三浦綾子さんが著書の中でこの歌を引用していると聞き
ちょっと気になって原典をあたってみました。

日曜日は母の日。
自分が生まれた時のことを覚えている人はいないでしょうけれど
自分を生んだ時のことを母親はいつまでも忘れないのでしょう。

よい日曜日をお迎えください。


http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/eb/f6daa2004d5573887e7fa1d92e3938ef.jpg


from Wiki
Ayako Miura (三浦綾子, Miura Ayako, 1922-1999) was a Japanese novelist.
She published over eighty works of both fiction and non-fiction.
Many of her works are considered best-sellers, and a number have been remade as feature-length films.

Her debut novel, Hyōten (氷点, "Freezing Point"), was published in 1964,
and won the Asahi Shimbun's Ten Million Yen Award that same year

English translationsMiura novels that have been translated into English include the following:

Hyōten (Asahi Shinbunsha, 1965). Translated into English as Freezing Point (Dawn Press 1986).
Shiokari Tōge (Shinchôsha, 1968). Translated into English as Shiokari Pass (OMF Press,1974).
Yuki no Arubamu (Shôgakkan, 1986). Translated into English as A Heart of Winter (OMF Press, 1991).
Kairei (Asahi Shinbunsha, 1981). Translated into English as Hidden Ranges (Dawn Press, 1993).
Hosokawa Garasha Fujin (Shufunotomosha, 1975). Translated into English as Lady Gracia (IBC Publishing, 2004).
Michi Ariki (Shufunotomosha, 1969). Translated into English as The Wind is Howling (Intervarsity Press, 1977)

メイビス・シュー(許美静)

2009-12-07 | Reading, Literature poem song
シンガポールの人気歌手 メイビス・シュー(許美静)がうたっている
阳光总在风雨后(明るい光がいつも風雨の後に)という歌は
元気付ける歌、応援の歌として広く親しまれています。

喜びと悲しみに満ちた人生を
好きな人と共に歩む。
転んだときもじっと待つときも
勇気を持って頭を上げる

あなたが荒れる海を行くときに
迷わないよう、私は灯台になって待っているから
希望はいつも風雨の後に現れてくるもの
希望は自分の手の中にある

風に吹かれても、雨に降られても気にしない
雨の後には虹がかかることを信じて
私はずっとあなたのそばにいるから

という歌詞は四川大地震後の学校や
スポーツの試合後にも応援ソングとして広く歌われています。

http://japanese.cri.cn/1001/2009/05/20/1s140600.htm

で彼女の歌声を聴くことができます。
私は目下、歌詞を映して中国語の勉強中です。



Yángguāng zŏngzài fēngyŭhòu

阳光  总在 风雨后

Gē xŭ mĕi jìng

歌: 许 美 静

Rénshēnglùshàng tiánkŭhé xĭyōu

人生路上 甜苦和 喜忧

Yuànyiyŭnĭ fēndānsuóyŏu

愿意与你 分担所有

Nánmiăn céngjīng diēdăohédĕnghòu yàoyónggănde táitóu

难免 曾经 跌到和等候    要勇敢的 抬头

Shuíyuàn cángduŏzài bìfēngdegăngkŏu

谁愿 藏躲在 避风的港口

Nìngyŏu bōtāoxiōngyŏngde zìyóu

宁有 波涛汹涌的 自由

Yuànshìnĭxīnzhōng dēngtădeshŏuhòu

愿是你心中 灯塔的守候

Zàimíwùzhōng ràngnĭkàntòu

在迷雾中 让你看透

Yángguāng zŏngzài fēngyŭhòu wūyúnshàngyŏu qíngkōng

阳光 总在 风雨后   乌云上有 晴空

Zhēnxī suóyŏudegăndòng mĕiyīfènxīwàng zàinĭshŏuzhōng

珍惜 所有的感动    每一份希望 在你手中

Yángguāng zŏngzài fēngyŭhòu qĭngxiāngxìn yŏucăihóng

阳光 总在 风雨后   请相信 有彩虹

Fēngfēngyŭyŭ dōujiēshòu wŏyīzhíhuìzài nĭdezuŏyŏu

风风雨雨 都接受    我一直会在 你的左右


百人一首

2009-09-17 | Reading, Literature poem song
子どものころお正月になると家族で「百人一首(ひゃっくにんいっしゅ)」
のカルタとりで遊んだ記憶のある日本人は多いでしょう。

国語語辞典で調べると

代表的歌人一〇〇人の歌一首ずつを集めたもの。藤原定家が小倉山の別荘で撰したと伝える「小倉百人一首」が最も有名で、これを模倣して種々のものが作られた。カルタとして正月の遊びになったのは江戸時代以降。百人首。
◆アクセント : ひゃくにん-いっしゅ 5

:「大辞林 第二版」  となっています。


私が最初に覚えてのは

これやこの 行くも帰るもわかれては 
   知るも知らぬも あう坂の関(大阪の関)
  
      蝉丸 という僧が読んだ歌です。


この寧波の地に留学生(遣唐使)としてやってきた
阿倍仲麻呂が読んだ歌も百人一首に収められています。

大陸のどの山を見て彼は故郷への郷愁を深めたのでしょうか?
寮の部屋から見える東の山並みは
阿倍仲麻呂の故郷大和(今の奈良県)の低い山並みに似ている気がします。


大和三山といわれる
香具山(152.4m)
畝傍山(199.2m)
耳成山(139.7m)を詠んだ和歌は数多くあります。

特に『万葉集』には中大兄皇子(後の天智天皇)や
柿本人麻呂の和歌をはじめ、
持統天皇(天智天皇の娘で天武天皇の妻)の

「春過ぎて夏来るらし 白たへの衣ほしたり 天の香具山」などが有名なです。



私自身は『万葉集』にある男女の愛を中大兄皇子が詠んだ

      香具山は 畝傍を愛とし 耳成と 

          相争いき 神代より
 
           かくにあるらし いにしへも

     (香具山は畝傍山を愛し耳成山と争った
      それは神代の昔からあったことなのだから
      今でもそんなことはあるのだろう)

が好きです。額田王をめぐる天武天皇・天智天皇(中大兄皇子)の
三角関係を歌ったのでしょうね。ちなみに
額田王ははじめは天武天皇(大海人)と夫婦関係にあり、
天智天皇(中大兄皇子)に望まれ、側室となりました。
大海人と額田王の間には一人娘がありました。

詳しくは『天皇たちの和歌』P211にあります。


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日本には台風が到来しているとか。
今日もいい日でありますように。


写真は学生が通訳の面接を受けに行った中国系の繊維会社「申繊信○」です。