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故郷の実家の本棚にある愛読書のなかの1冊です。
『モモ』 (Momo) は、1973年のドイツのミヒャエル・エンデが
発表した児童文学(子どもの読みもの)です。
1974年にドイツ児童文学賞を受賞し各国で翻訳されている
ベストセラーで特に日本では根強い人気があり、
多くの人に読まれています。
若い芸能人たちが「私の一冊」などと紹介しているのを
目にしたこともあります。
ストーリーは:
イタリア・ローマを思わせるとある街に現れた
「時間貯蓄銀行」と称する灰色の男たちによって人々から時間が盗まれ、
みんなが心に余裕が無くなってしまった中で、
貧しいけれど友人の話に耳を傾け、
自分自身をとりもどさせてくれる不思議な力を持つ少女、
モモの冒険によって、奪われた時間を取り戻すとい内容。
忙しさの中で生きることの本質を忘れてしまった現在の私たちに
警告を与えてたくて、作者は『モモ』を書いたのでしょうね。
1987年に西ドイツ・イタリア制作により映画化もされ
エンデ自身が本人役で出演しました。
彼の『果てしない物語』(ネバーエンディグストーリー)は
映画で見た人も多いことでしょう。
白い竜のような生き物に少年がのり、空を飛ぶ光景と
主題化が印象的ですね。:-)
致死的退屈症
致死的退屈症(ちしてきたいくつしょう)とは、本作に登場する架空の病気である。この病気は精神的な症状が見られる。症状としては主に、慢性的な空虚感、抑鬱気分、絶望感、感情不安定、社会的関係への関心のなさ、情緒的な冷たさがある。
引用:ウィキデピアフリー百科事典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A2_(%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%96%87%E5%AD%A6)
長くなりますが、作者の生い立ちです。
日本人と結婚しているのに興味を持ち、記しました。
1929年 11月12日、
バイエルン州ガルミッシュで生まれる。この頃からナチスが台頭し、ミヒャエルが小学校に入学する頃、父エトガーが「退廃芸術家」の烙印を押され、生活が苦しくなった。
1941年 ギムナジウムを落第。
1945年 16歳の時、疎開した14~15歳の少年が軍に徴兵され、一日訓練を受けた後、前線に送られ、初日に学友3名が戦死する。ミヒャエルにも召集令状が来たが、彼は令状を破り捨て、ミュンヘンまでシュヴァルツヴァルトの森の中を夜間のみ80km歩いて、疎開していた母の所へ逃亡。その後、近所に住むイエズス会神父の依頼でレジスタンス組織「バイエルン自由行動」の反ナチス運動を手伝い、伝令としてミュンヒェンを自転車で駆け回った。
1948年 戦後に転入したシュタイナー学校を退学、演劇学校に入学。
1950年 演劇学校卒業。1シーズンだけ舞台に立つ。
1951年 女優インゲボルク・ホフマンと知り合う。
1953年 父、息子とほぼ同年の愛人と同棲。ミヒャエルは絶望した母を精神的、経済的に支える。
1961年 『ジム・ボタンの機関車大旅行』がドイツ児童文学賞をとり、生活が安定
1964年 インゲボルク・ホフマンと結婚。イタリア移住。
1972年 『モモ』完成。
1977年 日本訪問。能・歌舞伎を鑑賞。禅僧と対談する。
1979年 『はてしない物語』完成。
1985年 妻インゲボルク・ホフマン死亡。ミュンヘンに戻る。周囲にドイツ語を話す人がいなくなったことが帰国理由。
1989年 「エンデ父子展」のため再来日。
『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と結婚。
1995年 8月28日、胃癌により満65歳で死去。
葬儀はミュンヘンのキリスト者共同体で執り行われた
皆さんは時間泥棒に支配されていませんか?
携帯電話・コンピュータ(ゲーム)・テレビ・ラジオ
そして無益な立ち話・噂話.....
中国に移り住み、敢えて携帯電話を持たずに過ごしています。
日本にいたときはポケット入れ、便利に使っていましたが、
絶えず鳴るバイブにいつも支配されていたんですね。
テレビもない、携帯もない、ラジオも聞けない
ここでの生活はまるで「モモ」に出会ったように
自分だけの決め事で時間が流れます。
さて、PCが表示している日本時間から離れて
体内時計を1時間戻し、寧波の朝をスタートさせます。
皆さんの今週が実り多い時になりますように。
『モモ』 (Momo) は、1973年のドイツのミヒャエル・エンデが
発表した児童文学(子どもの読みもの)です。
1974年にドイツ児童文学賞を受賞し各国で翻訳されている
ベストセラーで特に日本では根強い人気があり、
多くの人に読まれています。
若い芸能人たちが「私の一冊」などと紹介しているのを
目にしたこともあります。
ストーリーは:
イタリア・ローマを思わせるとある街に現れた
「時間貯蓄銀行」と称する灰色の男たちによって人々から時間が盗まれ、
みんなが心に余裕が無くなってしまった中で、
貧しいけれど友人の話に耳を傾け、
自分自身をとりもどさせてくれる不思議な力を持つ少女、
モモの冒険によって、奪われた時間を取り戻すとい内容。
忙しさの中で生きることの本質を忘れてしまった現在の私たちに
警告を与えてたくて、作者は『モモ』を書いたのでしょうね。
1987年に西ドイツ・イタリア制作により映画化もされ
エンデ自身が本人役で出演しました。
彼の『果てしない物語』(ネバーエンディグストーリー)は
映画で見た人も多いことでしょう。
白い竜のような生き物に少年がのり、空を飛ぶ光景と
主題化が印象的ですね。:-)
致死的退屈症
致死的退屈症(ちしてきたいくつしょう)とは、本作に登場する架空の病気である。この病気は精神的な症状が見られる。症状としては主に、慢性的な空虚感、抑鬱気分、絶望感、感情不安定、社会的関係への関心のなさ、情緒的な冷たさがある。
引用:ウィキデピアフリー百科事典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A2_(%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%96%87%E5%AD%A6)
長くなりますが、作者の生い立ちです。
日本人と結婚しているのに興味を持ち、記しました。
1929年 11月12日、
バイエルン州ガルミッシュで生まれる。この頃からナチスが台頭し、ミヒャエルが小学校に入学する頃、父エトガーが「退廃芸術家」の烙印を押され、生活が苦しくなった。
1941年 ギムナジウムを落第。
1945年 16歳の時、疎開した14~15歳の少年が軍に徴兵され、一日訓練を受けた後、前線に送られ、初日に学友3名が戦死する。ミヒャエルにも召集令状が来たが、彼は令状を破り捨て、ミュンヘンまでシュヴァルツヴァルトの森の中を夜間のみ80km歩いて、疎開していた母の所へ逃亡。その後、近所に住むイエズス会神父の依頼でレジスタンス組織「バイエルン自由行動」の反ナチス運動を手伝い、伝令としてミュンヒェンを自転車で駆け回った。
1948年 戦後に転入したシュタイナー学校を退学、演劇学校に入学。
1950年 演劇学校卒業。1シーズンだけ舞台に立つ。
1951年 女優インゲボルク・ホフマンと知り合う。
1953年 父、息子とほぼ同年の愛人と同棲。ミヒャエルは絶望した母を精神的、経済的に支える。
1961年 『ジム・ボタンの機関車大旅行』がドイツ児童文学賞をとり、生活が安定
1964年 インゲボルク・ホフマンと結婚。イタリア移住。
1972年 『モモ』完成。
1977年 日本訪問。能・歌舞伎を鑑賞。禅僧と対談する。
1979年 『はてしない物語』完成。
1985年 妻インゲボルク・ホフマン死亡。ミュンヘンに戻る。周囲にドイツ語を話す人がいなくなったことが帰国理由。
1989年 「エンデ父子展」のため再来日。
『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と結婚。
1995年 8月28日、胃癌により満65歳で死去。
葬儀はミュンヘンのキリスト者共同体で執り行われた
皆さんは時間泥棒に支配されていませんか?
携帯電話・コンピュータ(ゲーム)・テレビ・ラジオ
そして無益な立ち話・噂話.....
中国に移り住み、敢えて携帯電話を持たずに過ごしています。
日本にいたときはポケット入れ、便利に使っていましたが、
絶えず鳴るバイブにいつも支配されていたんですね。
テレビもない、携帯もない、ラジオも聞けない
ここでの生活はまるで「モモ」に出会ったように
自分だけの決め事で時間が流れます。
さて、PCが表示している日本時間から離れて
体内時計を1時間戻し、寧波の朝をスタートさせます。
皆さんの今週が実り多い時になりますように。