写真・伏石事件絵葉書(香川県)伏石部落に於ける組合員共同作業(1925.07)
香川県伏石小作争議 1925年主な小作争議 (読書メモ)
参照「日本労働年鑑第7集1926年版」大原社研編
香川県香川郡太田村伏石の小作争議は、1922年(大正11年)に始まる小作争議、1925年現在も闘争中。
(争議の経過)
約30名の地主たちは過去何回となく、承知しないと田畑を取り上げるぞとの脅迫のもと、一方的に小作料を値上げし、その結果伏石の小作料は一反につき一石六斗以上にもなっている。この地主による無情の搾取でいかに小作人の生活が窮迫し、家族が泣かされていたか。しかも近年の不作である。
(農民組合の結成と地主の抵抗・稲立毛の仮差押)
1922年(大正11年)、地域の小作農民約300名が日本農民組合伏石支部を結成し、小作料の永久3割減を要求した。しかし、30名の地主は地主組合で対抗し、頑として小作料値下げを認めようとはしなかった。それどころか1924年(大正13年)の春、一斉に、高松裁判所に農民の田畑の仮差し押さえと数十件の小作米請求事件を起こしてきた。11月には、農民の全ての稲立毛の仮差押を強行し、競売にかけて来た。この年は全国的の不作で伏石の農民の生活も追い詰められていたのにかからわずの残酷な血も涙もない訴訟であった。農民側にしてみれば、自分が苦労して育ててきてやっと収穫するばかりの稲を突然差押さえられ、その悲嘆はいかばかりであったか、大人しく認めるわけにはいかない。農民自身で刈り入れを行った。
(組合員1千名で稲の脱穀)
1924年12月3日地主側は、人夫2・30名を引き連れ、小作人の刈り取った稲を持ち去ろうとしたが農民の拒絶にあい、この時はおとなしく引き上げた。翌日、農民組合員約千名の応援を受けて稲の脱穀を始めた。約70名の警官隊は近くの神社に待機したが、終始傍観していた。
(大量検挙と厳しい取り調べ)
しかし、12月4日、警官隊は小作人を「窃盗罪」で続々と検挙してきた。被告農民23名は長期拘留されたまま、厳しい取り調べが続いた。また、高松地方裁判所検事局は、わざわざ大阪で開かれていた農民組合中央委員会の席上で前川正一氏を検挙し、大阪聯合会本部の家宅捜査も行ってきた。農民への取り調べは、連日連夜ほとんど拷問に近い訊問が続いた。
(予審と仲間の自殺)
1925年3月29日高松裁判所の予審終結の結果、23名の小作農民が窃盗罪として公判に附された。被告である農民組合員植田平一郎氏は窃盗罪の罪名を附せられたことに怒り、ついに縊死を遂げた。また農民側の顧問弁護士若林三郎氏も無辜の農民への不当予審結果、とりわけ農民から自殺者が出たことへの多大な責任は自分にあるとして自殺(未遂)をはかった。
(全国の弁護士の決起)
事件を知って、急遽、日本弁護士協会と自由法曹団が立ち上がった。松谷與二郎弁護士ら4名の弁護士が高松現地へ駆けつけ実地調査を行った。その結果、高松裁判所検事らの取り調べに、かなりの人権蹂躙があったことも明らかになった。
(日本弁護士協会の決議)
1925年(大正14年)7月6日、日本弁護士協会は以下の決議で、法務大臣への不信任を公表した。
決議
香川県下における小作争議の刑事被告人に対し、高松地方裁判所当局が人権を無視し過酷な取り調べをなしたる結果、遂に自殺者並びに発狂者を出せるは顕著なる事実なるを拘わらず、司法当局は単に同地官憲の手続き上不当なる点を認め、天人ともに容れざる人権蹂躙の事実に対して徒らに言を左右にその責任を免れんとす。かくのごときは全く刑政の本義にもとり法の精神を没却したる態度なりと認む。本協会はこれが責任者たる司法大臣小川平吉氏を信任せず。
大正14年7月6日
日本弁護士協会
(闘い)
7月17日から高松裁判所で開始された公判には農民側に全国から実に50名もの弁護士がついた。前日16日には、高松港に1千余名の農民組合員が組合旗を連ね埠頭で勢ぞろいし、これら弁護士を熱烈に出迎えた。農民はデモ、犠牲者の墓参、報告演説会等々とあらゆる闘いを繰り広げ、そのたびに警官隊と激突した。法廷においても予審撤回の要求、警官武装解除の申請、弁護士の抗議の退廷行動等幾多の闘いがあったが、7月17日、不当にも農民22名に「窃盗罪と窃盗教唆罪」で10ヵ月から4か月の懲役が宣告された。農民組合は8月3日控訴した。闘いは続いている。