野田醤油争議(その九) 総同盟本部と協調会 1927年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会史料」
『野田血戦記』日本社会問題研究所遍
『野田大労働争議』松岡駒吉
『ぼくたちの野田争議』石井一彦
総同盟本部の姿勢を会社が調査の対象にしないわけがない。1923年には総同盟・反総同盟挙げて野田争議を応援した。しかし1924年以来の総同盟の左右の対立、1925年総同盟の分裂、日本労働組合評議会結成など、あの時と今の違いを何より分かっていたのは会社だ。直前の山一林組争議でも総同盟は評議会系、労農党の支援を拒絶して敗北している。
(ストに公然と反対し、スト当初は応援すらしなかった総同盟本部)
総同盟本部(関東労働同盟会松岡駒吉会長)は野田支部のストライキに公然と反対した。丸三運送店問題でも、1927年5月11日の野田支部臨時総会に総同盟本部役員西尾末広ら3名が乗り込み、野田支部の要求自体を撤回(保留)させ、ストライキの断行を中止させた。『野田大労働争議』の中で松岡駒吉は、「要求条項の保留、罷業断行の中止を勧告したのは、財界の大動乱(金融恐慌)の社会情勢に鑑みたるのみならず、かような労働組合の節制ある態度により、会社の感情的態度も幾分あらたまるであろうと信じたるが故である。さらば、この会社の態度が改まりたるならばその機会において、労働組合員の会社に対する態度を改善し、よって新しい労資関係の出発を計ろうとするの根本精神があったのである」と5月のスト中止について述べている。今回野田支部は総同盟本部松岡らの指示に従わず、9月16日全面ストライキ突入を敢行した。この時も松岡は、「関東労働同盟会(総同盟本部)は、一執行委員を野田に派遣し、罷業の正常なる進行を監視すると共に、冷静に解決の機会を捉えんために努力するにとどめ、積極的に罷業応援の方針を採らなかった。・・・いたずらに闘争的態度に出づることは益々労資の感情を激発せしめ、争議をしていよいよ深刻なる感情争議に至らしむる結果解決を一層困難にするを恐れたからである。」(松岡駒吉『野田大労働争議』の第七章労働組合の態度及戦術)とこのストを応援しなかったと書いている。
総同盟本部が最初からストライキに反対していることやストライキが始まってもしばらくは応援にもこなかった事実を会社はすべて知っていた。当時の集会、会議には必ず「臨監」なる警察が同席し詳しく記録も取っている。当然会社に筒抜けになる。総同盟本部はそれを知り尽くすほど知っている。5月の野田支部臨時総会には多くの警官も同席、当然スパイもいる中で総同盟本部は公然と野田支部の要求自体を取り下げさせ、ストライキの決行もやめさせた。それでも組合攻撃を止めない会社に、野田支部はやむなく敢然と立ちあがり全面ストライキを敢行した。しかし目の前で1,500名の野田支部の仲間たちがストライキに立ちあがっても松岡ら総同盟本部は今度はそのストの応援すらしない。その理由として、「いたずらに闘争的態度に出づることは益々労資の感情を激発せしめ、争議をしていよいよ深刻なる感情争議に至らしむる結果解決を一層困難にするを恐れたからである。」と抜け抜けと言い訳をしている。
また総同盟本部は、1927年野田醤油争議においては評議会などの労働組合からの支援は、カンパやキッコーマンボイコット以外はすべて断っている。
総同盟本部のこのような一連の態度を知った会社が小躍りして喜ぶ姿が目に浮かぶ。会社の徹底的な野田支部攻撃の強硬な態度は一層強まった。まるで総同盟本部が会社の強硬姿勢を誘導しているようではないか。
(協調会の登場・矢吹一夫の暗躍)
会社は以前から協調会を引き入れ利用しようとしていた。協調会常務理事添田敬一郎は、側近の大月久治を野田醤油会社に泊まり込みで派遣させた。また添田敬一郎の手先として送り込まれた矢吹一夫が、1923年の争議では野田醤油の「職員」として登場し、今回1927年の大ストライキでは、会社は矢吹を堂々と「嘱託」として雇い利用した。矢吹は暗躍した。矢吹一夫は少年時、最下層労働の経験者であったが、その後右翼の大物大川周明の下で働き、1921年協調会に入り(潜りこみ)、のちに各地のストや争議の「調停」を専門にする、いわば争議を食い物にする「フィクサー」「黒幕」と呼ばれる男であった。協調会常務理事添田敬一郎は、彼に給料千円とは別にポケットマネーを500円も与えて添田の手先として使っていた。矢吹一夫は吉野作造や総同盟麻生久、赤松克磨らに近づいた。矢吹一夫は武藤章らの軍人を麻生久や赤松克磨らに引き合わせ、麻生久らの陸軍クーデター派支持の流れを作った関係者の一人だと言う者もいる。
1928年スト最終局面で協調会渋沢栄一副会長と添田常務理事が総同盟鈴木、松岡と争議中止に向けてタッグを組んだ。
(右翼団体に調停を依頼した赤松克磨)
赤松克磨は、吉野作造の娘婿で1922年山川均や堺利彦が結党した日本共産党に加入するも逮捕されるやすぐに転向し、その後総同盟に属し(日本労働総同盟逓友同志会会長)、社会民衆党の中央委員となった。矢吹の仲介で関東軍参謀板垣征四郎らと新宿の飲み屋で接触し、赤松は12月21日に開かれた有名な右翼団体大化会、大行会などの会議に出席し、野田醤油争議の調停を懇願した。その結果右翼団体は大川周明を実行委員長として調停に立つことを決定した。それを受けて赤松や総同盟の西尾末広がしきりに野田町に来ていたが、12月30日大川周明はなぜか調停から突然手を引いた。
(渋沢栄一)
裏舞台では協調会副会長の渋沢栄一が、総同盟の鈴木文治、松岡駒吉と何度も接触し、また松岡は福永千葉県知事や政務次官森挌らと会合を重ね、渋沢の意向も伝え、鈴木内相、警保局長、検事総長まで動かした。こうして松岡、添田、県知事3者の争議終結、争議団員747名解雇・金銭解決の最終合意案ができたのだ。
表舞台では添田敬一郎ら協調会役員が野田醤油争議解決調停役として野田争議の労資交渉の場にはいつも同席した。
(総同盟本部のスト中止に向けた動きー闘争主体の移行)
12月3日、争議団は、「一、闘争主体を関東醸造組合に移行する 二、2ヵ月後には関東同盟に移す」を決議した。野田支部の闘いを更に拡大する目的と、もう一つは総同盟本部としてストライキ中止に向けた主導権・決定権を総同盟本部松岡が握る狙いもあった。
1928年2月2日午後2時半、野田劇場で開催された野田支部緊急総会で「要求条項の一切を撤回し、争議解決を白紙をもって松岡駒吉氏に一任すること」が決議された。
(争議解決協定)
一、争議団は解散(組合野田支部の解散ではない)
二、747名は解雇。会社が選別した300名だけ復職させる
三、解雇手当など総額45万円(一人平均約413円。総額45万円は今の9億~18億円相当か?)
1928年(昭和3年)4月19日午後5時、協調会3階会議室の労資交渉で最終合意した。
会社側 社長茂木七郎右衛門、常務茂木七左衛門、同茂木佐平治、顧問太田霊順、工場長並木重太郎
争議団 総同盟会長鈴木文治、同関東同盟会長松岡駒吉
調停者 協調会理事添田敬一郎、千葉県知事福永尊介、横井警察部長、協調会労働課長草間氏ら4名
翌20日野田の本社で協定締結式が行われた。
会社側 社長茂木七郎右衛門、常務茂木佐平治、顧問太田霊順、石塚人事係主任
争議団 総同盟関東同盟会長松岡駒吉、争議団長小岩井相助、野田支部長小泉七造、関東労働同盟会主事斎藤健一ら
調停者 協調会理事添田敬一郎、千葉県知事福永尊介
(「ダラ幹」)
「ダラ幹」とは堕落した労組幹部の略。闘う労働者民衆から軽蔑・蔑視として面罵された言葉である。4月20日午後3時協定式の前の最後の争議団大会に押し寄せた争議団員と家族5千名。解決案の報告を受けた会場はたちまちどよめき「なんだその条件は! 松岡の馬鹿野郎!」「卑怯者ダラ幹!」「こんな条件で解決できるか。茂木の門前で屍をさらすまで闘え!」等々の叫びで場内総立ちとなった。最終的には松岡の提案で全員で黙とうを捧げ争議団の解団式に代えた。怒って席を蹴って退場した者も少なくなかった。
(「松岡を野田から一歩も返さぬ」と野田駅に押しかけた女房連)
4月25日午後1時帰京のため野田駅に来た松岡駒吉に、夫が解雇された女房連が押し寄せた。「失業者747人に徹底救済の誓約をとらねば松岡を野田から一歩も出さぬ」と一斉に詰め寄った。あまりの怒りのすごさに野田支部の幹部はなだめるのに必死だった。
(総同盟・協調会のその後)
総同盟の役員であり、野田醤油争議で右翼の大川周明に争議斡旋を依頼した赤松克麿らと自由法曹団で有名な弁護士だった松谷与二郎議員らは、その後満州侵略を擁護し、ファシスト政党日本国家社会党を結成している。右傾化を突き進む総同盟は、小林多喜二が虐殺された1933年に「産業及び労働の統制に関する建議」を決議した。日中戦争勃発の1937年この年の労働争議は、戦前最高最多の2,126件参加者21万3,622人、ストライキも戦前最高の627件、スト参加者12万3,730人と空前の記録、つまり労働者、人民民衆が戦前の最高最多の闘いとストライキに立ち上がっているまさにその時に、総同盟は「罷業(スト)絶滅宣言」と「労働奉公銃後三大運動」の決議をしている。協調会は日中戦争が始まると産業報国運動を提唱し、戦争協力の先駆けとなった。
以上