先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

鈴木淳さんを偲んで

2024年10月19日 08時00分00秒 | 大久保製壜闘争

上写真・大久保製壜闘争抗議デモ隊最前列右の鈴木淳さん

上・大久保製壜闘争勝利決起集会(舟原公園)の鈴木淳さん

上・杉田育男さんと鈴木淳さん

上・地域ビラをする鈴木淳さん(1999年頃)

上・杉田育男さんのお見舞い

東京東部労組大久保製壜支部組合員だった鈴木淳(あつし)さんが、2024年10月11日に亡くなりました。72歳でした。

宮城県出身の鈴木淳さんは、1970年(昭和45年)頃宮城の福祉施設から大久保製壜所に入社します。鈴木淳さんが入社した頃の大久保製壜所は、従業員200名の内、身体障害者、知的障害者、聴覚障害者が100名もいる「福祉工場」として有名でした。しかし、その実態は24時間操業・三交代勤務、仮眠もない過酷な深夜勤務で賃金もボーナスも極端に低い支給で、その上、障害者差別、暴力、虐待が横行していました。とりわけ鈴木淳さんら男子の知的障害者は、工場の上のタコ部屋のような男子寮で2段ベットで生活していました。鈴木淳さんも男子寮で生活をして三交代勤務の検査課でベルトコンベアーで絶え間なく流れるビンを両手で箱に詰める、立ち続ける辛い労働でした。当時深夜労働(三部勤務)は連続7日間でしたが10日間連続という事も珍しくありませんでした。みんなフラフラになって働いていました。知的障害者の賃金やボーナスはもともと安い上に、「社内貯金」を引かれ手取りは数千円でした。その上職場での暴力や差別的罵倒(「子ども」「パップ」「バカ」等々)が浴びせられる日常でした。

1975年11月30日、ついに検査課の障害者ら36名が立ち上がります。マスコミでも大きく取り上げられた10日間のキリスト教会ろう城闘争は全面勝利します。

会社の猛烈な巻き返しによる組合攻撃でたった8名に切り崩される中、1976年10月、組長の鈴木銀一郎さんたちが立ち上がる新勤務体制反対闘争の時に、銀ちゃんと共に支部に加入した5人の一人が鈴木淳さんでした。淳さんは知的障害者として多くの差別を受けながらも過酷な三交代制勤務をやり抜き、大久保製壜闘争を支部のみんなと共に21年間闘います。勝利する最後まで闘いぬきます。

支部に入って男子寮を出た鈴木淳さんは、墨田区八広のアパートあすなろ荘で生活を始めます。このアパートには、同じ組合員の身体障害者の杉田育男さんや鈴木銀一郎夫妻、石井夫妻も入っており杉田宅は組合事務所となりました。この事務所での支部会議は毎週月曜日に行っていましたが、鈴木淳さんは組合の会議やストライキやデモは休んだことはありませんでした。

毎週の支部会議で淳さんは積極的に発言して職場の仲間たちの様子やの職制の動きを報告します。討論でも淳さんの短くても的確な意見にみんな感心したものです。淳さんはひとりで闘う「指名ストライキ」も敢然と闘います。

鈴木淳さんは、いつもデモや裁判の先頭で頑張り、組合員や支援のみんなから「じゅんちゃん、じゅんちゃん」と親しみをこめて呼ばれ、みんなの人気者でした。東部労組のあらゆる闘争の場には淳さんは必ずいたと言っても過言ではありません。あの有名なディべンロイ労組のピケストの闘いでも突っ込んでくる会社側の車両の最前線に座り込む淳さんの姿が記録映画にもしっかり映っています。都留工業支部や永柳支部や高砂産業支部のストにも参加している淳さんの写真があります。毎年の日比谷メーデーのデモでも東部労組の先頭に立ちます。

淳さんは、みんなにとても親切で、特に身体障害者の組合員である杉田さんや石井菊枝さんを親身になって面倒をみてくれていました。杉田さんが病気やケガで寝込んだ時など、毎日近くのコンビニから弁当を買って届けてくれました。また、みんなでよく旅行にも行きました。淳さんは日本酒が好きで、特にワンカップには目がありませんでした。彼は飲むと楽しくなります。また、カラオケが大好きで演歌を歌います。

21年間9ヶ月続いた大久保製壜の労働争議は、1997年、職場・地域・全国の仲間たちの応援で職場の労働条件の大幅な改善を実現して全面的に解決しました。鈴木淳さんたちが立ち上がったおかげで、連続勤務10日間などをやめさせ職場からは暴力や差別も無くなり、誰もが有給休暇を自由に取れるようになりました。

2012年6月13日、鈴木淳さんは、40年つとめあげた大久保製壜所を定年退職し、その後葛飾の知的障害者の通勤寮(原町成年寮)に入り、立石のアパートでひとりで生活をし、近年はグループホームでおせわになりました。昼間は奥戸福祉館に通ってパン作りなどに従事していました。青戸の東部労組本部事務所に度々こちらが困惑する程の大量なパンを差し入れてくれました。原町成年寮や奥戸福祉館のスタッフの皆様や同僚の方々には大層親切にしていただき、交流を重ねていました。本当にありがとうございました。

鈴木淳さんは今年に入り体を壊し、足立区のリハビリ病院に入院します。5月末に鈴木しげはるさんと長崎がお見舞いに行き、車椅子の淳さんと話しができました。先頃亡くなった杉田育男さんの6月のしのぶ会に出たいと言っていましたが、それも叶わずに7月末に医療サービスケアー付きの群馬県前橋の老人ホームに入りました。誤嚥(ごえん)により重い肺炎を起こし、先週10月11日についにお亡くなりになりました。まるで大好きだった杉田育男さんを追っかけたような亡くなり様でした。
以上報告です。
2024年10月19日 長崎 広
鈴木淳さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

追伸
10月18日群馬県前橋市斎場において鈴木淳さんの告別式があり、菅野東部労組本部委員長と出席しました。私は棺の淳さんの胸に東部労組の腕章を置きました。奥戸福祉館館長ら原町成年寮のスタッフの皆さんは、なつかしい菓子パンを棺にいれ淳さんとのお別れを心から悲しんでくださいました。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。