先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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本『あゝ野麦峠』 岡谷に人道はありや、なしや 信州岡谷1,300名製糸女性の決起と全面敗北  山一林組争議 1927年の労働争議(読書メモ)

2023年09月20日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

(上・山一林組争議演説会
開会の辞は野田醤油争議で活躍した総同盟オルグ戸沢正一、
閉会の辞は同じく総同盟オルグ佐倉啄二。
それにしても壇上の右机に「臨監」警官が座る

演説者への「臨監」の「弁士中止!」命令は有名。
会場の前方には二人の正服警官が聴衆に向かってにらみをきかせる。
写真には写ってはいないが、
会場には他に何十人ものサーベルを鳴らす正服と私服警官が堂々と座っている。
これが当時の労働運動やあらゆる社会運動への官憲の当たり前の介入。
労資交渉の場にも警察官は臨席していた。
労働組合の会議や集会にも臨席・臨監した警官は、
事細かにメモを記録し、いちいち政府にまで報告していた。
しかも会議ゃ集会の解散命令権までたびたび行使した。
争議の調停まで警察署長が行うことが多かった。
戦前が警察国家と言われる所以。)

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「女工たちは、繭よりも、繰糸枠よりも、そして彼らの手から繰り出される美しい糸よりも、自分達の方がはるかに尊い存在であることを知った。彼らは人間生活への道を、製糸家(資本家)よりも一歩先に踏み出した。先んずるものの道の険しきがゆえに、山一林組の女工たちは、製糸家との悪戦苦闘ののち、ひとまず敗れたとはいえ、人間の道がなお燦然たる光を失わない限り、しりぞいた女工たちは、永久に眠ることをしないだろう」
信濃毎日新聞記事1927年9月22日




本『あゝ野麦峠』 岡谷に人道はありや、なしや 信州岡谷1,300名製糸女性の決起と全面敗北  山一林組争議 1927年の労働争議(読書メモ)
日本最初の大規模な製糸女性ストライキ
 『あゝ野麦峠』山本茂実著(角川文庫)です。《女工惨敗セリ》の項は、1927年(昭和2年)の信州岡谷の製糸会社山一林組の1,300名の製糸女性の決起と壮烈な闘いとその敗北の記録を描いています。びっくりするのは、山一林組争議がついに女性たちの大敗北に終ったその翌日の信濃毎日新聞の記事です。記事は「労働争議の教訓」として次のように論じます。

 「女工たちは、繭よりも、繰糸枠よりも、そして彼らの手から繰り出される美しい糸よりも、自分達の方がはるかに尊い存在であることを知った。彼らは人間生活への道を、製糸家(資本家)よりも一歩先に踏み出した。先んずるものの道の険しきがゆえに、山一林組の女工たちは、製糸家との悪戦苦闘ののち、ひとまず敗れたとはいえ、人間の道がなお燦然たる光を失わない限り、しりぞいた女工たちは、永久に眠ることをしないだろう」
 なんという慰めでしょう。なんという美しい言葉でしょう。それも1927年(昭和2年)という時代状況下での記事です。
(この本にはないのですが、市川房江さんが、この時、岡谷で福祉施設「岡谷母の家」を設定して女性たちの闘いを支援していたと、ある歴史年表で見つけました)。
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1,300名製糸女性の決起と全面敗北
 1927年(昭和2年)8月28日、信州岡谷の大製糸会社山一林組で、日本で最初の大規模な製糸女性のストライキ山一林組争議が起きた。

1927年8月28日朝6時、6名の代表が林社長に嘆願書提出
要求内容
①労働組合加入の自由を認めてください。
②組合員であることを理由とする転勤、降格はしないでください。
③組合員ゆえをもって絶対解雇をしないでください
④組合員に問題がある時は組合役員に連絡してください。組合役員が責任をもって導きます。
⑤食事・衛生の改善を願います。
⑥福利厚生、娯楽修養の設備を備えてください。
⑦賃金を一般の工場より非常に低いため、私どもの生活が実に困難です。賃金をあげて下さい。
 林社長は即座に「外の人間(労働組合)に干渉される必要はない」と拒絶。正午、組合はビラ「同志のために」を自動車で岡谷周辺住民に一斉に散布し、薪炭店を借りて「争議団本部」の看板を掲げる。

 午後7時、岡谷倶楽部で決起集会(千数百名参加)。
 20数名の女工らが次々に壇上に立ち、工場側の虐待と不正をあげ、労働者は団結せよと熱弁をふるった。 「私たちは身売りされた奴隷ではない!!」 「私たちは日本産業を担う誇り高き労働者である」 「募集時の契約通りの賃金を支払ってください」 「私たちはブタではない。人間の食べ物を与えてください」 そして最後に立った17歳の女工山本きみが「この最低限の嘆願書を受け入れてくれるまでは、私たちは死んでも引き下がりません」と涙を浮かべて絶叫した時、千数百名の男工女工はみんな泣いて、つもりつもった怒りを爆発させたのである。

 集会後、争議団は岡谷の町に繰り出した。デモ隊の高唱する労働歌は岡谷の夜にとどろき渡った。
搾取のもとに姉は逝き 地下にて呪う声を聞く
いたわし父母は貧に泣く この不合理は何たるぞ
かくまで我は働けど 製糸はなおも虐げぬ 悲しみ多く女子(おなみご)や
されどわれらに正義あり


[会社側]
 製紙業界経営者全体がふるえ上がる。もし山一で女工が勝利したら、おそらくすべての工場で女工は一斉に蜂起するに違いないと。
 製紙業界は「一致団結して山一を絶対に勝たせる」「今後山一の争議女工を一切雇用しない」と決議した。
会社側の団体交渉拒否の声明書
「団体交渉権の確立は会社の管理権を失うことで、これは製糸業の経営を不可能ならしめ、ひいては日本産業の基礎を危殆(きたい)におちいらしむるもので、国民として許すべからざるものである」
 
山一林社長は大量なならずものゴロツキと警官隊を動員して総力をあげて組合攻撃
田舎の父母へ卑劣な手紙をだす
 会社は多くのゴロツキやならず者を雇い、ビラやポスターで「一部の扇動者に騙されるな」「犬も3日養えば主の恩を忘れじ」「破壊は易く、建設はむずかし」「働け稼げ、不平不満は身を滅ぼす」と宣伝し、また「争議団が爆弾を投げる」とデマをばらまく。こうして動揺させた田舎の親を大挙動員して娘たちを力づく、無理やり田舎に連れ帰る。それを阻止しようとする女性たちとの必死な攻防が続いた。

糧道攻め
 警察・ゴロツキ・在郷軍人・町の右翼青年団が、竹ぶすまで炊事場、食堂、寄宿舎を占拠・ロックアウトし、1,300名全員を工場の外へたたき出す。豪雨の下でふくろだたきにあう女工。官憲は労組幹部を60名もの大量逮捕。
この時の信濃毎日新聞記事(1927年9月22日)、「白昼公然、少なくもわれら長野県において同胞の子にむかって飢餓のいたるをもっておびやかす工場主の存在するを――実に長野県の大なる恥辱でなくて何であろう。あえて問う、岡谷に人道はありや、なしや」とその記事は怒りに震えている。

 全国から大量の食糧の差し入れ、支援が届けられた。しかし9月17日、21日間、激烈に闘い抜いた争議団は、ついに解散を決めた。全面敗北だった。最後まで「母の家」に残り、争議団解散を宣言した47名の女工たちの最後のビラには、「ついに一時休戦のやむなきにいたりました。・・・・・しかしながら私どもは屈しませぬ。いかに権力や金力が偉大でありましても、私どもは労働者の人格権を確立するまではたゆまず戦いを続けます。私どもは絶望しませぬ。最後の勝利を信ずるがゆえであります。終わりに私どもを激励し援助下さった多くの人々に対し厚く感謝します。」と悲痛な叫びが伝わる。

 亀戸の東洋モスリン2千名の女性たちが決起したのは、山一林組争議敗北の3年後の1930年10月だった。
http://blog.goo.ne.jp/19471218/e/8fdc46d0555a7df1207cab3fd694ad6b

(写真・1927年頃の岡谷地域・製糸工場風景)

(下の写真・旧山一林組本社事務所1920年建築)



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