先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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山一林組製糸女性たちの闘い(その一) 1,300人嘆願書提出 1927年の労働争議(読書メモ)

2023年09月22日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動


山一林組製糸女性たちの闘い(その一) 1,300人嘆願書提出 1927年の労働争議(読書メモ)
参照「日本労働年鑑第9集/1928年版」大原社研
  「日本労働組合物語 昭和」大河内一男・松尾洋
  「あゝ野麦峠」山本茂実
  「日本現代史5」ねず・まさし

 1927年(昭和2年)当時、長野県岡谷には大小の製糸工場が200有余あり、約4万人の製糸女性労働者が働いていた。この年の春に勃発した金融恐慌以来、絹糸の価格が崩落し、製糸業はどん底の不景気におちこんだ。製糸資本は農家から買い取る繭(まゆ)の値段を大幅に引き下げ、また賃下げなどで製糸労働者にしわ寄せをしたため、製糸工場主と労働者のあいだにかってない緊張が高まった。もともと女性が圧倒的多数を占める製糸工場は、明治時代さながらの低賃金と酷使虐待の「女工哀史」の状態が続いていた。1925年8月の長野県警察部工場課が、県下の708の製糸工場のいっせい取締りをおこなったところ、60もの工場が訴追、戒告処分に付されたほどであった。

(山一林組)
 山一林組は、長野県諏訪郡平野村岡谷に本社と三工場があり、その他に茅野工場、上伊那郡伊那富工場、埼玉の熊谷工場、静岡沼津の高島工場、千葉の安孫子工場、愛知の稲沢工場の9工場に数千人の製糸労働者が働く大製糸工場であった。岡谷の山一林組製糸工場は、第一工場(本社)、第二、第三の三つの工場で約1,300名の男女の労働者が働いていた。数は圧倒的に女性が多かった。

(契約書)
 製糸工場の契約書は、人権も自由も踏みにじるものだった。6月から12月の半年契約で前渡金(前借金)を親が会社から渡され、会社の規則を破ったり、事故やかってにやめると前渡金の20倍の弁償をする約束だ。しかも「工場主の都合により何時解雇されても異存なく、工女の都合で解雇を乞う時は、積立金(社内預金)及び未払い賃金は没収される、または相当の損害賠償をする」というのが会社の規則だった。

(製糸女性の叫び)
※工場づとめは監獄づとめ 金のくさりがないばかり
※かごの鳥より監獄よりは 寄宿舎住まいはなお辛い
※工場は地獄で主任は鬼で まわる検番火の車
※あなたの呼ぶ声わすれはせぬが 山十製糸かごの中
※年季証文一枚銭に 封じこまれてままならぬ
※寄宿流れて工場焼けて 門番コレラで死ねばよい
※あわれなるかや蚕の虫は 糸にとられてまる裸
※うちが貧乏で十二の時に 売られてきましたこの工場

(製糸女性過酷な労働環境)
 女性たちは朝4時半(5時半の工場もあった)、工場の汽笛でたたき起こされる。もうもうと立ち込める蒸気と高熱の中で彼女たちは糸繰機の前に座る。繭(まゆ)のサナギの悪臭が全体にただよう。1時間半の労働をして15分の朝食時間、食事は朝は味噌汁と香々、昼は豆類が多く、めざしがたまにある。夕食はほとんど凍り豆腐か野菜が主で、たまに塩鮭をつける工場もあるが、大体豆類とイモ類が多く、これでは16時間、17時間の重労働に耐えられない。風邪は勿論、呼吸器疾疾患や結核にかかる女性が多い。病気になっても男の検番になぐられて容易に休ませてなどもらえない。死にそうな重病人になってようやく田舎の実家に送り帰される。彼女たちは検番を「人殺し」とのろった。成績が悪いとあるいは少しでも反抗した者は、16時間、17時間後の夜10時、11時に食堂に残されて、検番からなぐりつけられる。なぐられた中には死んだ女性もいる。しかもその上「罰金制度」があり、なにかといえば罰金が課せられ、無賃で糸繰りをさせられる時が多かった。終業は夜9時、しかし残業で10時、11時に終わる。寄宿舎は鉄の鍵がかかっていて、夜間女工が脱出できないようにしてある。まさに留置所か監獄である。

 あまりにも過酷な環境に製糸女性たちの中には少なくない者が、諏訪湖に身をなげ自ら死を選ぶ者さえいた。諏訪では「カラスの鳴かない日はあっても、工女が諏訪湖へとび込まない日はない」といわれた。糸ひき唄にも「袂(たもと)に小石を拾い込み死ぬる覚悟をしたなれど、死ねば会社の恥となり、帰れば親娘の恥となる。思えば涙が先に立つ」とある。

(総同盟)
 この地方の製糸労働者の労働組合組織化も遅れていたが、1927年はじめ岡谷に来た総同盟オルグ戸沢正一(野田醤油争議で活躍)、佐倉啄二の2人によって製糸労働者の組合運動が着手された。3月に「総同盟・全日本製糸労働組合」が結成され、8月にははやくも20余支部、組合員2,900人を擁する大労働組合に発展した。

(評議会)
 同時期、評議会は長野県下に南信一般労働組合、北信一般労働組合を結成し、こちらも製糸労働者に活発に働きかけをはじめていた。南信一般労働組合は「製糸労働者諸君、製材工、搬夫、鉄工、木工、運転手、印刷工、其他自由労働者諸君! 失業手当を制定せよ、罰則制度を廃止せよ、外出の自由を認めろ、食物を改善せよ、寄宿舎の設備を完全にせよ、賃金制を確立せよ(毎月払え)」と岡谷のすべての労働者に呼びかけた。
 8月には南信一般労働組合、北信一般労働組合、労農党が中心となって諏訪地方における〈女工虐待反対週間〉を催した。

(製糸工場争議)
 3月、青山製糸工場40人がストに入り、8月、22歳の中野よし子の指導で片倉製糸松本製糸所でクビ切り反対のたたかいがおこった。智里館製糸場でも労働争議が起きた。

(岡谷山一林組1,300余名嘆願書提出)
 山一林組の労働者1,300余人は、日本労働総同盟全日本製糸労働組合諏訪合同労働組合に加盟し、第一工場(本社)、第二、第三工場が、その第15支部となった。組合は会社に「嘆願書」(上の写真参照)を提出する予定であったが、これを事前に察知した会社は8月27日に労働者のリーダーの一人山岡益美を呼び出し、林社長は「労組脱退か、さもなければ自決せよ」と迫った。山岡益美は「私は17年間も真面目に働いてきて、何も悪いことはしていません」ときっぱりと言った。28日早朝、組合は嘆願書を提出した。
 嘆願書
  ①労働組合加入の自由を認めてください。
  ②組合員であることを理由とする転勤、降格はしないでください。
  ③組合員ゆえをもって絶対解雇をしないでください
  ④組合員に問題がある時は組合役員に連絡してください。組合役員が責任をもって導きます。
  ⑤食事・衛生の改善を願います。
  ⑥福利厚生、娯楽修養の設備を備えてください。
  ⑦賃金を一般の工場より非常に低いため、私どもの生活が実に困難です。賃金をあげて下さい。

(山一林組争議団結成)
 会社は、28日に組合が提出した嘆願書を即座に拒絶してきた。支部はただちに争議団を結成した。争議団1,300人のうち女性1,200人は平均年齢17歳、その中には12歳、13歳数十人の少女もいた。

(労働歌)
 組合は「同志のために」というビラを自動車で岡谷全域に散布した。争議団は、その夜岡谷クラブにおいて、支部臨時大会をひらき気勢をあげ、「私たちは身売りされた奴隷ではない」「私たちはブタではない」「契約通りの賃金を支払え」と絶叫した。大会終了後、袴をはき胸に組合章を付けた女工約千人は二列縦隊となって、岡谷に繰り出しデモを敢行した。全日本製糸労組でつくった「立てよ日本の女工」の歌や幾つもの労働歌や替え歌が1千名の女性たちによって高らかに夜の岡谷工場地帯にとどろいた。

「朝に星をいだきて 夕になおも星にむかう
 わが産業につくす身に 報われしもの何なるぞ

 若き血汐をいけにえに 真心こめしつむぐ糸
 みな貴人らや富者らの 栄華をかざるために消ゆ

 搾取のもとに姉は逝き 地下にて呪う声をきく
 いたわし父母は貧に泣く この不合理は何なるぞ

 かくまでわれら働けど 製糸はなおも虐げぬ
 悲しみ多き女子や されどわれらに正義あり」
(メーデー歌の節)

(8月30日ストライキ決行)
 8月30日、山一林組の三工場1,300人は一斉にストライキに突入した。その直前、会社はあわてて就業希望者(スト破り)を労働者に求めたが、応じたのはわずか16人にすぎなかった。工場の周囲は70余名の警官隊によってものものしく包囲され、警官は工場の中にも入り、サーベルの音を響かせては、寄宿舎にいる幼い少女たちを怯えさせた。

(続く)
山一林組製糸女性たちの闘い(その二) 「暴虐なる山一林組をこらせ!)」1,300人少女のストライキ 1927年の労働争議(読書メモ)



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