先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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磐城炭坑争議  炭坑労働者1千名のストライキと山代吉宗について 1927年の労働争議(読書メモ) 

2023年06月21日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

写真・磐城炭坑デモ(1927年2月)

磐城炭坑争議  炭坑労働者1千名のストライキと山代吉宗について 1927年の労働争議(読書メモ) 
参照「日本労働年鑑第9集/1928年版」大原社研編
  「協調会史料」
  「常磐炭礦労働運動小史」庄司吉之助 (*庄司吉之助)

磐城炭坑争議
 炭坑名 磐城炭坑株式会社
 場所 福島県磐城郡内郷村
 全労働者数 4,531名
 争議   1927年(昭和2年)1月13日から2月18日
 労働組合 日本日本鉱夫組合磐城支部約700名
       同      入山支部約400名など
 スト参加者 1,039人
 検束者        300余人
 解雇者          15人

 福島県磐城炭坑。1927年1月労働者の中で健康保険料全額会社負担を主張する運動が起きた。会社は1月13日この時の中心的リーダー山代吉宗を解雇してきた。

(山代吉宗) 
 山代吉宗は、1901年、福島県石城郡磐崎村(現・いわき市)の炭鉱に生まれ、明治大学を卒業後、父の後を継いで小野田坑の飯場頭(かしら)に。相次ぐ坑内事故と目の前の悲惨な炭鉱労働者をみて、吉宗は、子どもたちを集めた少年会や青年労働者たちの勉強会を組織する。1927年の健康保険組合の評議員選挙で労働者の支持を集めて最高点で当選。しかし、会社は山代吉宗を解雇し、労働者に温情的だった山代飯場を解散させようとした。

(全山ストライキ)

            (写真・磐城炭坑争議1927年2月)
 小野田坑労働者は「山代解雇撤回、飯場制度廃止、賃金値上げ」を掲げ闘いに決起した。日本鉱夫組合、福島合同労組の支持の元、1月15日会社糾弾演説会を、翌16日には全山労働者大会を開き、要求を決議。要求に対する会社の拒絶を知った綴、高阪、内郷、小野田の各炭坑労働者が、29日、30日と次々と立ち上がり、ついに磐城炭坑全山ストライキへと拡大した。こうして争議35日間、スト20日、参加労働者1,039人、解雇者15人、検束300余人にものぼった「磐城・入山炭鉱大争議」が勃発した。

(評議会排斥)
 争議の当初は、評議会が主導権を握っていた。評議会系の福島合同労働組合幹部、関東地方評議会幹部、仙台一般労働者組合幹部らが全力で支援に駆け付けた。評議会は1月20日と21日に鉱夫組合入山支部と山代吉宗自宅において、労働問題演説会を開催し、評議会本部幹部と日本労農党三輪書記長らが出席した。1月23日には「会社糾弾演説会」を開催し、カンパを呼び掛け同時に日本鉱夫組合幹部非難のビラもまいた。これを知って怒った日本鉱夫組合側は、1月29日から評議会の応援者を追い出し、全山の争議現場から評議会幹部を排除した。こうして先年総同盟から脱退した日本鉱夫組合の最初の大争議となった磐城炭坑争議を日本鉱夫組合が統制権を完全に掌握し、日本鉱夫組合本部から加藤勘十、菊川忠雄ら幹部が相次いで来山し、強力に指導した。山代吉宗ら評議会系にはこれ以後最後まで争議の主導権を取らせなかった。
(要求)
 一、山代ら3名の復職
 二、飯場制度の撤廃
 三、賃上
 四、衛生設備の完備
 五、長屋の改善
 六、坑内作業設備完全
 七、全従業員と家族の医療の無料化
 八、白米の改善
 九、不親切な医師の行為の改善
 十、本争議に犠牲者をださないこと
 十一、予後備召集の場合、当日の賃金の半額支給
 十二、簡閲点呼の際、日給全額と旅費を支給すること
 十三、労働時間の短縮
 十四、勤続手当の制定
 十五、鶴焼賃金及安全燈料の会社負担

(交渉開始と示威行動)
 2月1日の労資交渉は、会社の強硬の姿勢により決裂した。2月2日応援部隊と共に町田抗に向けてのデモ隊は官憲と衝突し、8名が検束された。

(暴力団と御用団体の襲撃)
 会社は争議団の切り崩しとスト破りに着手し、暴力団と御用団体を使い争議団をこん棒や木刀で襲撃させた。2月8日、会社側の御用団体「磐炭会」「建国会」と暴力団が労働者の入坑を強要し、9日にはストライキ争議団を襲い抵抗する炭坑労働者との間で大衝突が起きた。反撃した争議団による磐炭会本部建物への突入も起き流血の惨事となり、官憲は700名以上を宿泊させ、11日に労働者の一斉検挙を行い、争議団員126名を逮捕し、90名を騒擾罪で起訴してきた。2月に入りストライキ参加者は1,000人にのぼり、会社はこのままではストは2千人まで増加するのではないかと恐れた。2月10日、新たに15名を首にしてきた。

(入山炭坑で磐城争議応援労働者を解雇)
 同じ地方の入山炭坑の約400名も日本鉱夫組合入山支部に加盟していた。2月9日の磐城炭坑の衝突事件当日にも入山支部約30名が争議応援のため駆け付けていた。2月10日、入山炭坑はこの支部組合員を「不良分子」として解雇してきた。この時は屈辱的敗北で終わった。

入山炭坑第二次争議
 4月に入山炭坑第二次争議が爆発した。この時も会社側は暴力団と御用組織を使い日本刀、短刀、こん棒、鉄棒などで労働者殴打するなど残虐な攻撃を加え、争議団の60名を解雇をしてきた。官憲は69名を騒擾罪で検挙し、また24名を暴力行為違反で検挙してきた。入山に応援に行った山代吉宗も暴力をふるわれ顔面に傷を負わされた事件も起きた。

(妥協)
 2月18日、仙台鉱山監督局課長の調停で麻生久ら日本鉱夫組合と会社の妥協が成立した。
会社回答
1、賃上、労働時間の短縮、飯場制度と組長制度の改善、鶴焼賃金及安全燈料の会社負担、全従業員と家族の医療の無料化、予後備召集の場合、当日の賃金の半額支給、簡閲点呼の際、日給全額と旅費を支給することは、現今の経済状態では到底できない。
2、勤続手当の制定、長屋の改善は磐炭会とも交渉中なので回答は保留。
3、坑内作業設備完全、白米の改善、衛生設備の完備、不親切な医師の行為の改善については従前同様今後とも改善に努める。
4、解雇された山代に解雇手当として1,400円を支給し、その他解雇した15名には一人当たり150円を支給する。警察に収監された者は全員解雇し、その家族には60円から80円を支給する。
5、争議団には金一封を支給する。
以上

 全面敗北であった。小野田抗労働者はこれに反対したが、少数意見として取り上げられることはなかった。

 2月19日から全員が入坑した。

(その後の山代吉宗について)
 磐城炭鉱を追われた山代吉宗は、同年1927年9月、普通選挙による最初の県議選に労農党から立候補、翌28年3月伊達郡内の製糸場争議を支援中に逮捕。その後、茨城県に移り、日立製作所や日立鉱山で活動。29年3月、日本共産党に入党。同年の四・一六事件で検挙。裁判では一審、控訴審、上告審でいずれも懲役6年の判決が言い渡された。 この過程で1931年1月26日に東京控訴院で行われた判決言渡しにおいて、山代が演説を行い裁判を妨害。すると傍聴していた母くにも呼応し万歳を連呼した。山代は秋田刑務所に6年間投獄される。1935年、出獄した吉宗は、京浜工業地帯に行き、春日正一らとともに、「労働雑誌」の普及や労働者たちと活動、のちの作家山代巴と結婚したが、1940年5月、再び特高に検挙され、広島刑務所へ。終戦の年1945年1月14日、広島刑務所で獄死、44歳の若さだった。寒い独房のなかで、極度の衰弱により死去する4日前、妻の山代巴(『荷車の歌』などで知られる作家)にあてて、「もうすぐ春です。元気で、元気で春を待ちましょう」と手紙を書いている。( 黙祷します)



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