「山内みな自伝 十二歳の紡績女工からの生涯」新宿書房
「あの二重の壁に包まれて立っている檻の中否牢獄のような寄宿舎へ帰って鉄の門をくぐる時『今まで何をしていたか、門限より10分も遅れたぞ』と罰に処せられてその次の日曜の外出を止められた時、その鉄の門と二重の壁を破壊する事より他に何も考えられませんでした。人の住みそうにもないボロ畳の上に埃だらけのセンベイ布団を敷いてそこへ体を横にして生暖かい空気をすわされた時、過労に疲れたからだに長時間の安眠を欲求するよりほか、その瞬間はなにも考える余裕を持たれないのです。しかしながら私どもにはそれすらも与えられていないのです。夜間の12時から夜業に出勤しなければならない。身を切るような寒い晩に腰までさえない浅黄木綿の単衣の筒袖に同じさらしの袴(はかま)をはいて出かける時、いかに善良な女工でも夜業を廃止したくないと考える者があろうか。
五体は機械にきざまれたかと思われるほど疲れきって生きているという意識すら失った時、食欲をも忘れてマシンの影にまきあげた糸を枕にねむった時、あとから金の棒で高い山を追い廻される様な、たった30分の時間に追われて起きる時、生き地獄を思わずにいられましょうか。二度目に私共がマシンを廻す時、われとわが手をみつめながら資本主義に対する反感が胸のドン底からムラムラと燃え上るのです。私共はこの苦しい12時間の労働をわずか露命をつなぐだけの安い安い賃金で掠奪(りゃくだつ)されているのだ。私どもはこのマシンを廻すために、この手は蚊のそれのようになった。この糸をまくために全精力を出した。その代償として目はくぼみ、顔は青ざめ、肉はおとろい、血は搾られたんだ。
そうだ、私どもの人生の中で最も誇りとする青春、若いまっ赤な血を資本家は搾っているのだ。私どもは長い労働をすればするほど多くを搾られるのだ。12時間なんて働くまい。人間らしい生活をするには、私どもやはり人間の子として学問もしなければならないんだ。学問をするには金がいる、時間も必要だ。否私共には学問どころか外出すらも一週間に一度しかできないんだ。私をしばるこの鎖。やっと12時間の鎖がとかれても、一切の人間社会と交通を絶たれた石垣塀の寄宿舎に帰っても外出の自由を奪われている身には外で集会があろうと何があろうと一切でることができないのです。一体こんな人達にとって治警の五条が問題でありましょうか。」【1922年5月15日山内みなさん21歳の演説原稿より】
(1922年治安警察法第5条改正施行。神戸、名古屋、東京で「治安警察法第5条改正祝賀記念演説会」が開催された。5月15日東京での祝賀演説会の山内みなさんの演説予定原稿より抜粋。山内みなさんは発言を拒否され、この演説は実現しなかった)。
【満12歳で紡績工場女工に】
宮城県本吉郡歌津村字村樋口の農家に生まれた山内みなさんは小学校を卒業した1913年、満12歳で前借金10円、約束の期間は3年3か月間で紡績会社東京モスリン吾嬬工場(現墨田区文化団地)の女工となる。東京モスリン工場は当時総数6千人の女工が働き、その多くは工場内寄宿舎に入っていた。
【労働時間】
労働時間は昼夜12時間の交替制の深夜業。午前零時から正午まで一週間働き、一日の公休が入り、次の一週間は正午から午前零時までという2交替勤務。午前零時から立ち続けで、座る椅子さえなくろくな休憩もとらず、ふらふらになりながら午前6時まで働き4千人も入る食堂で急いで朝食をとり、再び工場へ戻って正午まで働く。朝食は南京米のぼろぼろのご飯に味噌汁とたくあん二・三切れに大根かジャガイモか油あげ、味噌汁は大根かわかめに決まっている。夕食のおかずは、時々魚が付く。たいてい醤油で煮づけたさばかいわし、にしんのの切り身。12時間労働の中で休憩時間は15分と食事30分と15分。休むといっても、椅子ひとつないので、床にべったり座るか箱をひっくり返して椅子にする。
毎月の賃金からは食費代と前借金分として1円と強制的に社内貯金代1円が引かれる。
【寄宿舎】
明るい間は眠ることができず、たいてい夕方6時ごろにならないと床の中に入らず、睡眠時間は4時間か5時間。夜の11時に起きてふとんを上げて、顔を洗い、寄宿舎から食堂まで5分ほど歩く長い廊下の吹きさらしの中を、裏もついていないブラウスとスカートに、はんてんを着て、足袋をはいたまま食堂に行く。冷たくなりかけたポロポロの南京米のご飯を食べる時の寒さは、からだが凍るようで、がたがた震える。お湯をかけ流しこんでそのまま工場に走りこむ。
寄宿舎は15畳ぐらいに女工23人。女工ひとりに対し、私物の荷物とふとん用に押し入れ半畳を上下に仕切ったその片方だけが与えられる。女工は日の目を見るのは昼の12時に交替する時だけなので太陽に縁がなく皆、色の白い娘ばかり。休みは週に一日。外出は舎監の許可なくてはできない。外出禁止や制限もあり門限時間を3回超すと次の休みは外出禁止、無断外泊は3か月の外出止め。会社には医務室も医者も看護婦もいたが形ばかりの外部むけの看板だけのもので何の役にも立っていない。寄宿舎の中に学校があり山内みなさんは尋常小学校5年に編入したが、こちらも女工募集の看板用だけの中身で、しかも疲労と寝不足のためまともに誰も出席しない。先生も男の先生がひとりだけで、他にはお花とお裁縫の女の先生がいるだけ。
【ストライキ】
山内みなさん満13歳の1914年6月20日女工6千人の紡績工場東京モスリン吾嬬工場でストライキが勃発。突然エンジンが止まり、男工や女性の監督助手らが叫ぶ「仕事をやめろ、外に出ろ」と。全員が仕事をほっぽりだして工場の入口に殺到。ドアの入り口では男工と守衛がもみあい草履で頭の殴り合い。女工は全員寄宿舎に引き上げた。
年上の女工さんは喜びながら「ストライキというもんだそうだ、おらの給料も男工もあんまり安いから、あげてけろそんでねいとかせげねえというごったから、よかんべいと思ったのさ、男工さんが仕事せいと言ったら工場へ行くべえ、それまで寄宿舎で休んでいればいい」。二日目の朝、守衛と舎監と暴力団が一緒になって、女工の寝ているふとんをはぎ工場へ追い出した。会社は友愛会の会員20名をクビにし、その代わり、退職者には規定以上の金を与えるというので友愛会は妥協した。ストは惨敗だった。
【友愛会】
東京モスリンのこの年のストは1日だけで終わった。警察がみんなを連れて行った。「ストライキとは会社にとって一番いやなことなんだ。警察がでてくるのはおかしい」と山内みなさん。先輩労働者稲葉さんは「警察は会社の犬だ。給料少し上げてくれと言ったって、さっぱりらちがあかないからストをやったんだ、なんにも悪いことをしたんじゃない」と憤慨。「やっぱり友愛会でなければだめだ。みんなで会員になろう。会費は一ヶ月で10銭だから」と言われた山内みなさんはこの時友愛会に加入。
「友愛会でなければ会社は相手にして話を聞いてくれない。友愛会は私たちの味方なんだな、と私は感じとりました。それで、友愛会にはいる意味がしつかりつかめました。」と山内みなさん。
【労働者としてめざめる】
「私はそれから友愛会の会員をふやすことと、月末の会費集めに、一生懸命になりました。」
1917年16歳。友愛会創立5周年大会で、準会員でしかなかった女性も正会員とすることが決まった。大会3日目は渋沢栄一男爵邸での園遊会。
1918年17歳。友愛会大会代議員となる。賀川豊彦と知り合う。8月の米騒動、寄宿舎の2階に上ってみると押上方面で米屋が襲撃されていたのが見えた。
1919年18歳。1月27日日本橋支部発会式で初めての演説。
「私は日本の女労働者が製糸工場に、紡績工場に、その他あらゆる方面において男子のそれより多いという点から見て、私共は自覚して資本主の圧迫的待遇から免れ、社会の人としての待遇を得たいと思ひます、それには私共女労働者として団結する必要があると存じます。」
第一次大戦が前年11月に終わるやすさまじい物価高騰と経済変動の波が押し寄せ、全国でストライキが勃発し、「労働者の立ち上がりは友愛会の労資協調主義では解決できなくなりました。」。この年の友愛会7周年大会で大日本労働総同盟友愛会と改称し労働組合となった。
この大会で婦人部を代表して総同盟理事(いまの中央委員)に選出される。
11月東京モスリンを解雇され一ヶ月間の就労闘争を一人で頑張り抜いた。しかし、友愛会松岡主事は会社とボス交渉して「5千円」で話をつけてしまう。
鈴木文治友愛会会長宅で暮らす事になったが、松岡駒吉から「実は鈴木会長は女ぐせが悪くて、いたるところで問題を起こし、今の奥さんも恩師の夫人であったのだ。」と聞いて驚愕。松岡駒吉宅に引き取られる。
【一生を運動者として生きる決意】
1920年19歳。市川房枝と同居、「運動者になるつもり」で中学に学ぶ。
市川房枝は友愛会をやめて平塚らいちょうらと新婦人協会創立の準備活動へ。山内みなも手伝うが新婦人協会に失望し次第に批判的になる。
「ときをへるにしたがい、次第に批判的になっていくのをどうすることもできませんでした。なによりもそのブルジョワ的な雰囲気、直接的には平塚さんに代表されるそれが、私にはなっとくいかないのです。協会の資金は、上流・中流の夫人の寄付がかなりあり、台湾銀行頭取の奥さんが、平塚さんのファンで、馬車で乗り付けたのを見たこともあります。」
「平塚さんはやはり、山川菊栄さんの批判のように、貴族的、ブルジョワ的婦人運動者だなあ、と思ったのでした。」
「この頃の新婦人協会は無産婦人と共同行動など考えていなかったし、小ブル思想でかたまった人たちに指導権を握られていて、婦人労働者とは無縁のものになっていたと思います。」
芝の専売局に入りストに参加。富士瓦斯紡績押上工場「団結権要求」の1800名女工のストライキを応援。
【山川均】
1921年20歳新婦人協会をやめ、山川均夫妻に呼ばれる。
【評議会・東洋紡三軒家工場ストライキの指導】
山内みなさんはその後、大阪で総同盟大阪連合会婦人部副部長して主に紡績女性労働者の争議指導支援に奮闘。水平社の女性組織運動にも寄与。1925年の総同盟の大分裂ではあらたに結成された左派の評議会に参加し関西評議会婦人部副部長として活動。
1926年東洋紡三軒家工場ストライキの指導。警察に追われて東京へ。労農党の遊説隊に参加し岩手根長野、福井、鳥取の各地で演説。婦人同盟の結成にむけて奮闘するも共産党の3.15弾圧、共産党からの婦人同盟の結成の一方的中止に反発するも婦人同盟解散。戦後も数々の活躍した。
以下目次のみ
三章 労働組合運動のなかで(大正11年-昭和2年)
1 山川均の下で
2 『労働週報社』
3 大阪へ
4 大阪の労働運動と婦人運動
5 東洋紡三軒家工場ストライキ
6 警察に追われて東京へ
7 労農党で
四章 関東婦人同盟
1 婦人同盟の創立趣旨
2 婦人同盟準備会
3 関東婦人同盟の結成
4 全国に拡がる婦人同盟地方支部の活動
5 婦人同盟全国準備委員会
6 昭和3年の国際婦人デー
7 関東婦人同盟の解散
五章 弾圧と戦争の暗雲の下で
1 橘との出会い
2 料亭「むさし志」
3 自立への道
六章 戦後から現在まで(昭和20年―昭和50年)
1 仙台での活動と選挙運動
2 荻窪に洋裁店開く
3 杉並から原水爆禁止運動
4 住民運動
あとがき
山内みな略年譜