写真・護国神社参拝を拒否し獄死したホーリネス教会牧師補小山宗祐
読書メモ⑤ 宗教弾圧と抵抗 (日本労働年鑑 「特集版 太平洋戦争下の労働運動」他)
参照
「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動 法政大学大原社研」(第五編 言論統制と文化運動 第四章 宗教運動より)
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/research/dglb/rn/rn_list/?rn_class=1
「兵役を拒否した日本人 灯台社の戦時下抵抗」(稲垣真美 岩波新書)
「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」中山弘正明治学院学院長(『戦後65周年の明治学院の取り組み』)
「日本統治下朝鮮における神社参拝問題と聖潔教会弾圧事件」(蔵田雅彦)
「神社参拝問題と韓国教会」(Ⅱ) (金承台キムスンテ)
「内務省による宗教弾圧--創価学会の場合を事例として 」(小高良友)
宗教弾圧と抵抗
1、【宗教統制】
【内村鑑三の教育勅語拝礼拒否、不敬事件】
山県内閣のもとで教育勅語が発布された翌1891年1月9日、第一高等中学校の嘱託教員の内村鑑三は中学講堂の教育勅語奉読式で最敬礼をおこなわなかった。キリスト教信仰に基づく偶像礼拝を拒んだのだ。これが同僚教師や生徒によって非難され、社会問題化し不敬事件とされ内村は退職した。日本組合基督教会の金森通倫は、皇室崇拝、先祖崇拝は許されると主張したが、日本基督教会の指導者植村正久はこれを認めなかった。植村は「勅語に対する拝礼などは憲法にも法律にも教育令にも見えないことで、事の大小を別とすれば運動会の申し合わせと同様のもの、このようなことが解職の理由になるのは不合理だし学生のモッブ然とした内村糾弾運動を放置し迎合するのは教育上もおかしい」と主張した。
【韓国併合とキリスト教伝道】
1910年韓国併合と同時に、日本が朝鮮を植民地したまさにその年から日本組合(基督)教会は朝鮮伝道を大規模かつ組織的に開始している。韓国では、のちの3.1独立闘争でも朝鮮の多くクリスチャンが反日運動のリーダーシップを取っていた。日本の朝鮮総督府はこのような勢力を手懐けたいため、日本のクリスチャンを動員して朝鮮のキリスト者に働きかけを行った。日本組合教会が一番大規模にこれをやった(「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」中山弘正明治学院学長)。
この植民地(韓国・台湾・満州・フィッリッピン・・)への日本キリスト教団体の積極的伝道活動は、日本軍の軍事進出支配・侵略・植民地戦争をまさに「奇貨」として行われた。奇貨(利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会)。
【神社参拝強要】
韓国での日本統治末期の神社参拝強要は、皇民化政策の典型的事例である。韓国キリスト教信徒は神社不参拝運動を全国的に繰り広げた。朝鮮総督府は、この運動に対して呵責な弾圧を加えた。警察を使い一斉検挙した。廃止された教会200余、逮捕された教徒2000余名、獄死者50余名に及ぶ非業・残酷な犠牲者がでた(「日本統治下朝鮮における神社参拝問題と聖潔教会弾圧事件」 蔵田雅彦)。
【宗教団体法で各教派の統合】
1921年「大本教」の第一次弾圧、1928年には天理教の分派「ほんのみち」が不敬罪で弾圧される。
1931キリスト者の軍部を批判した矢内原忠雄が大学を追われる。
1931年の「満州事変」、1937年の「日華事変」のあと日本政府は「宗教団体法(1939年)」に基づき1941年、宗教界を統合しこぞって戦争国策に従わせた。キリスト教プロテスタント各派も統合させられ「日本基督教団」を結成させられた。
1935年~39年
「大本教」の神殿などを当局はダイナマイトで破壊し、信者61名を起訴、20名以上が拷問死。
「ひとのみち教」(現PL教団)起訴7名。
「天津教」検挙15名起訴1名、「天理本道」検挙374名起訴237名、・・・等々が国家神道に反すると、治安維持法違反・不敬事件・結社禁止で検挙され残虐な弾圧をうけた。
日本基督教団「統理」冨田満牧師は率先して伊勢神宮に参拝したり、朝鮮のキリスト者を平壌神社に参拝(1938年)させたりした。冨田は戦後も明治学院の理事長を務めている。1939年、明治学院学院長に就任した矢野貫城は、宮城遥拝、靖国神社参拝、御真影の奉戴等々に積極的に取り組み、戦後もしばらく学院長としてとどまった。日本基督教団は、戦闘機「飛べ日本基督教団号」奉納献金運動や「殉国即殉教」の掛け声で侵略戦争に加担させられている。(「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」の「戦後65周年の明治学院の取り組み、東アジアの戦後和解にむけて」明治学院学院長中山弘正より)
1938年3月大阪憲兵隊特高課長が、大阪のキリスト教牧師たちに「天皇とキリスト教の神との関係」「勅語と聖書」「神社参拝」等13項目の質問状を提出し回答を求めた。4月には憲兵隊から教会に対して「キリスト者が我が国体に対して忠良であるなら、教会は国家に大麻を奉斎してもらいたい」と申し入れた。立教大学では、配属将校が礼拝堂の十字架を破壊する事件もあった。
キリスト教プロテスタント派の多くのクリスチャンの反戦・非戦や不敬(神社不参拝・神棚不祀・宮城遥拝拒否その他)で抵抗したが、弾圧された。一方で「キリスト教の日本化」(「世界に比類のない日本精神を樹立せしめるものは、基督教でなくてはならない」藤原藤男)や教会の自給独立(外国本部からの支援の拒否)や「キリスト教報国会」(姫路)なるものすら出現した。
仏教においても1939年8月には日蓮正宗の一雑誌が発禁処分を受け、同12月宮城県の浄土宗の一住職が「世に善き戦争なく、悪しき平和なし」「無謀の戦は一年において数年の事業を毀(こわ)す」等の聖句を寺前に掲出し警察に抹消させられた。
1939年3月成立40年4月施行の「宗教団体法」は、「(日本の宗教の)根本理念はあくまでも民族的信念たる皇道精神に基礎をもとめなければならぬ。皇道精神とは国家皇室を中心とする臣民道を指す」とされた。また、「臣民たるの義務に背く時は主務大臣はこれを制限しもしくは禁止し、教師の業務を停止しまたは宗教団体の設立の許可を取り消す」とあり、さらに当時の通俗小説や映画などには、宣教師や日本人牧師などを悪意的にスパイとして扱ったものすらしばしばあらわれるようになったが、40年7月末には救世軍本営がスパイ容疑で憲兵隊の取り調べを受けた。救世軍はロンドンに万国本営を置いており、たまたま天津問題で国内の対英感情の悪化があふられていたことが背景になった。東京憲兵隊は救世軍司令官植村益造以下4名(うち1名イギリス人)を防諜上の容疑で引致し、一週間拘束して取り調べた。憲兵隊当局は文部省を通じて、救世軍のイギリス本営から離脱すること、軍隊模倣の称呼を廃止し、防諜上危険のおそれある組織を変更することなどを救世軍司令官等に誓約させた。救世軍日本本営では、2名のイギリス人幹部を帰英させ、イギリスの本営との一切の関係を絶ち、名称も「救世団」と変更して再発足することになった。同じ年9月、賀川豊彦は日本基督教会宣教師小川清澄とともに、反戦平和的講演・評論のため東京憲兵隊に検挙。賀川豊彦は1943年に検挙されている。
1941年6月政府は、1939年の「宗教団体法」に基づき、ブロテスタント諸教派の合同体として日本基督教団が設立させた。政府は、「決戦態勢下基督教会実践要項」「戦時布教方針」「決戦態勢宣言」等が次々と伝達し、米国との戦争開始にあたっては、「基督者は祖国のため結束して祈祷に努むべし」の檄文を日本基督教団に送った。
2、【弾圧と抵抗】
【灯台社】
1927年に結成されたキリスト教新団体の在日本灯台社(「エホバの証人」信徒270名)は、1933年信者100余名が「不敬罪」容疑で検挙。機関紙・印刷物全面発禁処分。
1939年1月、同日本灯台社信徒3名が徴兵・召集で軍隊に入営した時、彼らは上官に対し、「ヱホバ以外の被造物に礼拝することは神ヱホバの厳に禁ずる所なれば、今後宮城遙拝、御真影奉拝等の偶像礼拝は絶対に為し能わざる」むね、また、「天皇は元来宇宙の創造主ヱホバに依り造られたる被造物にして、現在は悪魔の邪導下にある地上の一機関に過ぎざるが故に、天皇を尊崇し、天皇に忠誠を誓う等の意思は毛頭なき」むね等を公言し、さらに馬術訓練は神意に反する流血行為の演練なりとしてその出場命令を抗拒し、ついには、兵営生活が神ヱホバの神意に反すとの理由で脱営し、また自己の支給兵器を神意に反する殺人器なりとして返納を申し出るなど、「不敬不遜の言辞を弄し」また軍事教練不応等の行動を重ねたものとして、それぞれ所轄憲兵隊により不敬罪ならびに軍刑違反として検挙された。
これにたいし同社幹部は、ヱホバの忠信者が当然とるべき標準的態度であり、右行為は軍部に対する徹底証言となった等と賞揚し、そのむねを宣伝吹聴してとくに宣明運動の積極的展開方を指令し、各地方証者等もこれを契機とし運動はいちじるしく活発さを加え、東京・兵庫・朝鮮・台湾の各地をはじめ、全面的に顕著な教勢伸長をみた。これにあわてた内務省および警視庁当局は、司法省および憲兵隊当局とも連絡協議の上、検挙方策を考究して調査をおえ、治維法違反ならびに不敬罪をもって1939年6月下旬、北海道ほか18府県において主幹者明石順三以下91名、朝鮮総督府で30名、台湾総督府で9名、総計130名を一斉検挙するに至った。
「エホバ以外の被造物に礼拝することは神エホバの厳に禁ずる所なれば、今後宮城遥拝、御真影奉斎等の偶像礼拝は絶対に為し能わざる」また「天皇は元来宇宙のエホバに依り造られたる被造物にして、現在は悪魔の邪道下にある地上の一機関に過ぎざるが故に、天皇を尊崇し、天皇の忠誠に誓う等の意思は毛頭なき」むね等を公言し、軍事訓練は「神意に反する流血行為の演練なりとしてその出場命令を抗拒し、ついには、「兵営生活が神エホバの神意に反す」との理由で脱営し、自己に支給された兵器を「神意に反する殺人器なり」として返納を申し出、また、軍事教練不応等の行動を重ね、憲兵隊に不敬罪と軍刑違反で検挙され、53名が起訴され、明石順三の懲役12年等の判決で29名が控訴。結社禁止命令(その後灯台社再建運動で6名が起訴)。明石順三の妻の明石静栄は、1944年(昭和19)6月8日、劣悪な環境がたたり、病名もはっきりしないまま栃木の女子刑務所で58歳で獄死。1945年10月9日明石順三釈放。
ドイツの「エホバの証人」は、ナチス政権下で弾圧され、第二次世界大戦終結まで多数の信者が強制収容所に収監され2000人が獄死している。
【葬儀】
1940年佐賀県戦病死したカトリック信者の遺族はキリスト教蔡を望んだが、当局は仏式での葬儀を強制した。
【検挙】
1941年には宗教関係で検挙・取締を受けた件数は1,010件に達している。
【創価教育学会】
1941年日蓮正宗が教義の内容を国家神道に合うように改変し、また日蓮の御書全集の刊行を禁じ、伊勢神宮の遥拝を檀家信徒に徹底するよう指示し、翌年にはついに「大麻の奉斎」を正式に決定し全末寺にも大麻を奉斎することを指示した。日蓮正宗内の創価教育学会の牧口常三郎はこれに断固として反対した。1942年、日蓮正宗は「大麻の奉斎」を拒否する牧口ら創価教育学会幹部に「大麻拝受」の圧力を加えたが、牧口らは日蓮以来の「謗法(ほうぼう)禁断」の態度を堅持し、大麻を焼却した。警察は、大麻焼却は神宮への冒涜であると治安維持法違反で創価教育学会会長牧口常三郎や理事長戸田城外(城聖)ら幹部21名を一斉検挙した。牧口、戸田以外は弾圧で転向した。暴力的取調べで牧口は翌年11月18日獄死し、戸田が釈放されたのは終戦直前であった。
(「内務省による宗教弾圧」小高良友)
【ホーリネス教会牧師補小山宗祐】
1942年1月函館のホーリネス教会(日聖正教会)牧師補小山宗祐が、毎朝の輪番制となっていた護国神社参拝を拒否したとして憲兵隊に検挙され、厳しい取り調べを受けて起訴された。しかし小山牧師補は判決がでる前に未決監房で死んだ。当局は自殺と発表したが厳しい取調べにも屈せず転向もしなかった小山牧師補がましてキリスト者が聖書の教えに背いて自殺するはずがなく、また遺体に酷い拷問の痕があったため、官憲に拷問で殺されたとも言われている。第一公判の内容は不敬罪ということで非公開であり、弁護士が立ち会ったかも不明である。
この小山牧師補の所属した旧聖教会は1936年まではホーリネス教会といわれており、同教会はその年末から「日本聖教会」と、「きよめ教会」(および東洋宣教会きよめ教会」=旧きよめ教会正統派)の二団体に分裂したのであるが、前者(教会197、宣教者253、信徒1万6350。1942年7月現在内務省調)が日本基督教団第六部として、後者(教会107、宣教者140、信徒7361。同上)が同第九部として合同したのは41年6月のことであった。これら元ホーリネス系の教会の牧師(信徒2万5000人、日曜学校会徒3万人、教会164、巡回伝道所300、牧師・伝道師250人)に対する大規模な検挙が36府県にわたって1942年6月におこなわれた。日本基督教団第六部では会長車田秋次(神田教会)聖書学校長米田豊・財務部長小原十三司(淀橋教会)・総務部長安部豊造(杉並教会)をはじめ「聖教会」系の56名、日本基督教団第九部では会長斉藤源八・海外伝道部長森五郎(上海教会)・大阪教会工藤玖三等の幹部をはじめ「きよめ教会」系の55名、および「きよめ教会」の分派(尾崎派)の12名が全国各地で検挙された。
検挙とその後の裁判の法的根拠となったのは、治安維持法第7条・治安警察法第8条・宗教団体法第16条等であった。取調べにあたっては、「伊勢大神宮を偶像として見るか」「天皇はさばかれるか」等の質問が使われた。5名が獄死し、2名は死の直前釈放されて直ぐ死亡した。小出明治は上告も却下され、病中服役延期願も許されずに実刑に処されたまま、遺族は突然死亡を知らされ、「獄衣はくれられないから全裸で死体を渡す」と告げられて裏口から引き取ったが、脳天に2ヵ所ナタでなぐりつけられたらしい傷跡があったという。また「きよめ教会」の工藤玖三は80才をこえて牢死した。また元ホーリネス教会は、いずれも43年4月、内務省の命令によって教会結社許可取消しの通達書が発せられ、教会は解散させられ集会所は閉鎖された。
【聖公会 聖ペテロ教会】
1942年2月 名古屋の聖公会(聖ペテロ教会)の一牧師は公債の割当購入や銃後奉公会費や防空作業を拒否した。
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戦争責任の告白
1995年「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」
「私は、日本国の敗戦50周年にあたり、明治学院が先の戦争に加担したことの罪を、主よ、何よりもあなたの前に告白し、同時に朝鮮・中国をはじめ諸外国の人々のまえに謝罪します。また、そのことを、戦後公にしてこなかったの責任をもあわせて告白し、謝罪します」。(明治学院中山学院長)