先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

読書メモ⑥ 韓国での宗教弾圧と抵抗

2022年03月08日 02時00分00秒 | 賀川豊彦・キリスト者

写真・朝鮮神社

読書メモ⑥ 韓国での宗教弾圧と抵抗
参照
「日本統治下朝鮮における神社参拝問題と聖潔教会弾圧事件」 蔵田雅彦)
「神社参拝問題と韓国教会(Ⅱ) 金承台(キムスンテ)

【日本統治下朝鮮における神社参拝問題と聖潔教会弾圧事件 蔵田雅彦】
 日本総督府の神社参拝強要は、皇民化政策の残酷無慈悲な宗教弾圧であり、50余名もの獄死・殉教者をもたらした。1935年韓国のキリスト教学校、崇実中学校長マッキューン、崇義女子中学校長スヌーク、安息教順安義明中学校長リーらが朝鮮総督府の神社参拝命令を拒否したことで廃校の危機にみまわれた。北長老教宣部は神社参拝拒否を決議した。マッキューンとスヌークは36年には校長職を解かれた。1937年7月日本は中国への全面侵略戦争に突入する中で、ますます戦争協力への動員として宗教統制、宗教報国がすすめられた。

 韓国のカトリックの天守教はローマ法王の通牒により神社非宗教論を受け入れた。メソジストの監理教も1938年には「神社参拝は国民の当然守るべき国家儀式である」と受け入れた。最後まで抵抗したプロテスタントホーリネス教会系の長老教会に対して、朝鮮総督府は長老教会内の民族主義者たちを検挙し、一方で日本基督教会の冨田満議長を説得のために韓国へ派遣し、最後には朝鮮長老教会総会で、神社参拝を決議させた。

 しかし、長老教会を中心に牧師と信徒による神社不参拝運動が全国的に繰り広げられた。朝鮮総督府は1940年6月から警察を使い一斉に検挙弾圧した。廃止された教会200余、逮捕された教徒2000余名、獄死者50余名に及ぶ非業・残酷な犠牲者がでた。長老教会の牧師と信徒は他の教派に比べて明確な反天皇制と反神社参拝の立場に立った。総督府の圧力で総会では神社参拝を決議させられたが、あくまで反対する牧師と信徒たちは神社不参拝運動を頑強に続けた。彼らは信仰的立場から殉教(死)をも覚悟した。

 1941年3月に日本で改正されたばかりの治安維持法が韓国でも施行され、1941年8月6日には江原道金化郡の東洋宣教会金化聖潔教会の二人の信徒が「再臨信仰」が国体に反するとして弾圧の対象となった。不敬罪その他の容疑で検挙起訴されている。二人は天皇と神宮への不敬、政治に関する不穏の動き、造言蜚語などの罪に問われた。この金化聖潔教会の不敬事件は、1942年の日本での戦時中最大の宗教弾圧であるホーリネス教会系の牧師134名の一斉検挙に先立つものである。続いて1943年5月には、朝鮮の「東洋宣教会聖潔教会」が一斉に検挙弾圧され、9月には教会は閉鎖され12月には強制的に解散させられている。「東洋宣教会聖潔教会」は、日本の中田重治らが1901年から活動をはじめ1905年に正式に創立した宣教団体だ。1907年からは朝鮮での宣教をはじめた。1917年東洋宣教会聖潔教会として教団組織が成立した。

【「神社参拝問題と韓国教会」(Ⅱ)  金承台(キムスンテ)】
 1934年長老教会は李仁植牧師の名で二度にわたって朝鮮総督ら対し請願書を提出しようとしたが、阻止された。日帝は、神社参拝の討議すら禁じた。朴寛俊長老は総督に請願書と警告文を送り、神社参拝強要の不当性を警告したが、何度も警察に連行され、拘留・取り調べを受けた。1939年2月彼は直接日本政府と帝国議会に抗議申し入れをするために、ちょうど神社参拝拒否で宣川保女学校の音楽教師職を辞し神社参拝拒否運動を行っていた安利淑を伴い日本に渡った。日本の神学校に通っていた朴長老の息子永昌と共に3名で、救世軍司令官山室軍平、日本基督教会長老日匹信亮、政友会議員松山常次郎、前朝鮮総督宇垣一成などを訪問し陳情した。また文相荒木貞夫、社大党議員安倍磯雄らとも面会を試みたが、できなかつた。そこで彼らは殉教する覚悟で「宗教団体法」を審議していた第74回帝国議会衆議院会議場に傍聴者として入り込み、傍聴席の壇上から「警告書」のビラを下の議会席に向かって放り投げた。

 (警告書ビラ)
 第一、宗教法制定反対、
 第二、国教を神道からキリスト教にすること、
 第三、神社参拝強要などの悪法実施と良心的教育者の投獄を撤廃すること、

 この事件で3人とも逮捕され、警視庁に拘禁されたのち平壌に回送されて獄中生活を強いられ、朴長老は6年間の獄苦によって獄死させられた。多くの牧師や信徒が全国いたるところで神社参拝拒否運動に参加した。1938年馬山文昌教会の牧師で、神社参拝反対で牧師職を辞任した韓尚東は、慶尚道地域の神社参拝運動を指導していた。神社参拝運動を単なる宗教運動に止めることは目的が達成できない。速やかに政治運動に転換させる必要があると認識した彼らは、1939年12月以下の決議をした。
 1) 神社参拝を肯定する教会を破壊すること、
 2) 神社不参拝の信徒で新老会を組織すること、
 3) 神社参拝を肯定する牧師から洗礼を受けないこと、
 4) 神社不参拝の同志の相互援助を図ること、
 5) 家庭礼拝および家庭祈祷会を開催に力を入れ、個人伝道の手段で同志を獲得すること。
そして釜山、馬山、普州、居昌、統営など活動区域を分け、猛烈な活動を行った。韓尚東は逮捕された。

 平壌では朱基徹牧師が殉教を覚悟で神社参拝に反対したため、日帝は1938年第一回逮捕以来、1944年平壌の監獄で獄死するまで前後4回逮捕し、7年間の投獄のすえついに殉教したのである。
 このように神社参拝拒否を理由に投獄された者は2000名にのぼり、200余の教会が閉鎖され、50余名が殉教した。
 
 神社参拝拒否運動は、偶像礼拝を拒否し信仰の純粋性を守り、日帝の非道な植民地政策、皇民化政策に反対する抵抗闘争でもあった。だからこそ日本政府、朝鮮総督は神社参拝拒否運動参加者すべてを治安維持法・保安法・不敬罪などを適用し、大弾圧をしたのである。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。