「賀川豊彦」読書メモ④ 転向問題から見た賀川豊彦
参照
「転向と懺悔―賀川豊彦における戦前と戦後の接点」遠藤興一 明治学院大学社会学・社会福祉学研究147巻 2017.2.20)
「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」中山弘正(『戦後65周年の明治学院の取り組み』)
転向問題から見た賀川豊彦(「転向と懺悔―賀川豊彦における戦前と戦後の接点」遠藤興一 明治学院大学社会学・社会福祉学研究147巻)
1934年著書『愛の科学』の中国語翻訳版の序文で、賀川は中国人に謝罪している。その賀川が日本の侵略戦争を中国などアジアを解放する正義の戦争だと主張しはじめる。なぜか。
1940年松沢教会で説教を終えた直後、渋谷憲兵隊に拘引された。18日間の拘引・尋問中、賀川は抵抗的姿勢は一度もせず、むしろ「当局が私を取り調べるのは当然である」として「理想は理想である。しかし、理想のために国法を破ることは聖書も禁じている」のだから、たとえ「一人になっても国を守らねばならぬ」の姿勢を憲兵にも示した。結局数回に及ぶ検挙・取り調べを受けながら、すべて無罪放免となった。10月賀川は「皇紀二千六百年」という文章の中で、「全能者は、・・・皇統連綿御仁慈の限りを尽くして民を愛し給もうた、世界に比類なき統治者を日本に与え給もた。・・・皇祖皇宗の御人徳と上御一人の御成徳の然らしむる所以である。」と書く。この年1940年青山学院で開催された「紀元二千六百年奉祝全国基督教信徒大会」で賀川は「皇統連綿・・・光輝を感激にたえさる」と参集した2万人の信徒の前で読み上げた。
1943年5月20日詩集『天空と黒土を縫い合わせて』では「真珠湾の勇士の血潮に、ソロモン列島の盡忠烈士の熱血に、義憤の血潮は、天に向かってたぎり立つ」、「ただ皇国のみ仕えんとするその赤心に、暁の明星も、黎明の近きを悟り得た」、「大和民族の血潮は竜巻となって、天に沖する。されば全能者よ、我等の血を以って新しき歴史を書き給え」といった文章があふれている。
この頃、憲兵隊が石賀修という青年を良心的兵役拒否で逮捕した。この青年は「賀川豊彦から影響を受けた」自供したために、賀川は東京憲兵隊本部で1943年11月3日から9日間の訊問を受け、その時賀川は憲兵隊のもとで石賀修に良心的兵役拒否を撤回するよう迫った(この時の体験を石賀は後に、「高名なクリスチャたちの神よりもオカミを恐れるかのような言動があさましく、情けなかった。私は年甲斐もなく涙を流した。」そして「私は賀川氏の説得的なことばに耳をかそうとせず、タダッ子のように泣きわめいて、近くの憲兵たちを驚かせた」という。)。その時まで賀川は「国際戦争反対者同盟」と良心的非戦論者の「国際友和会」の会員であったが、この事件によって「国際戦争反対者同盟」から脱退し、「国際友和会」を解散してしまう。こうして賀川の積極的戦争擁護・戦意高揚論へと「転向」は急進化する。
1944年NHK海外向け英語放送で、米国等に向けて「悔い改めよ」「白く塗りたる墓の如く(米国滅亡の予言)」と語った。
10月にはひたすら「キリストの弟子は十字架を負いて皇国に殉ぜよ」と説く。さらに我等はアジアを解放するために戦っているのだから正義は我が方にある、胸を張って殉ずる気概を持たなければならない言い、さらに「君国の為にたとひキリストに捨てられても国に殉ずる覚悟がなければならならぬ・・・国に殉ずる心根こそキリスト精神そのものである」とまで言う。
賀川が発行している宣教雑誌『火の柱』には1944年戦局が厳しさを増すにつれ「肉を殺して霊を殺し得ざる何ものを恐れる必要はない」「唯一人になるとも、大和島根の防衛に当たる」「七世報国の誓い」「皇国の勇士」「決死報国」と、ほぼ毎号のように書き続けた。
1920、30年代はキリスト教社会事業者、労働運動家、反戦平和運動家のインターナショナリストと国の内外から認められ、それが40年代には、ナショナリストとなり、ついには主戦論・軍国主義擁護へと変わる。
1943年10月「国難至る・・・死ぬべき時は今だ」「国土防衛への挺身」「皇国を死守する」・・・・。
1945年8月15日敗戦直後の8月28日日本基督教団統理冨田満は「令達」第14号で「本教団の教師及び信徒はこの際聖旨を奉載し国体護持の一念に徹し、益々信仰に励み、総力を将来の国力再興に傾け、もって聖慮に応え奉らざる」と牧師・信徒に通達する。東久邇宮から賀川は政府参与就任要請と「一億総ざんげ運動をやるので協力してほしい」と頼まれ、賀川はこれに積極的に応じた。8月31日日本基督教団第一回教団戦後対策委員会において冨田は「この際進んで総懺悔更生運動を起こす」とし、賀川を中央委員に任命した。9月23日弓町本郷教会で開催された「更生運動大祈祷会」の奨励者は賀川であり、10月21日松沢教会ので「総懺悔祈祷修養会」の奨励者も賀川である。全国の主要都市の教会で開催された「総懺悔運動」集会の講師のほとんどが賀川である。
賀川の戦争擁護・責任を問う声も内外で起きたが、GHQは賀川を糾弾するよりは、賀川を利用したほうが日本統治にとって得策だと「賀川弁護」の論陣を張った日本基督教団を支持した。それはまさにGHQが天皇の戦争責任に触れず逆に天皇を利用して日本統治をした姿勢と一にしている。賀川もまたマッカーサーに向けて1945年8月30日に早くも「天皇免責」「天皇制擁護」の請願公開書簡を『読売報知』に寄せている。天皇に対し賀川には明らかな「臣下意識」がある。であるからこそ賀川自身には戦争責任は無縁である。これは「すべての人が天皇の臣下であるという臣下意識を持ち、自分が政治的な最高の責任者ではなく、天皇の輔弼(ほひつ)する臣民にすぎない。そこからは政治的責任意識は出てこない。」(丸山真男)。のである。
1945年11月2日日本社会党の結党大会で、浅沼稲次郎は国体擁護の演説し、賀川が「天皇陛下万歳」三唱の音頭を取ったことに荒畑寒村らが憤慨して退場したことは有名である。
1947年2月7日賀川は天皇、皇后を前に「御進講」をした。