浅原健三と本『溶鉱炉の火は消えたり』から〈苦闘十年の同志に贈る〉を紹介します。
ー1920年八幡製鉄所の2万5千人の大労働争議ー
浅原健三の『溶鉱炉の火は消えたり』は1930年に刊行されました。若き日の浅原は16歳で木屋瀬炭坑夫となり、その後上京し、新聞社の職工・配達・発送・機械工をしながら、労働運動に接近していきます。日本大学法科の専門部で加藤勘十と親しくなり日大の弁論部にも入り、後の代議士原惣兵衛らと演説の練習をはじめます。政治演説会に出かけ、行けば必ず熱心にやじりました。足尾銅山から出てきたばかりの高尾平兵衛と出会い、彼に連れられて行った本郷の労働運動社で、和田久太郎と村木源次郎と親しくなります。和田のアナルコ・サンジカリズムが浅原の思想革命を起こします。大杉栄にも会います。浅原は大杉栄の演説会の熱心な聴衆の一人でした。当時ブルジョワジーの手先となる協調主義が、御用学者や政治家により広められ、各地で御用組合「黄色組合」が作られていきます。これに反発した浅原の労働運動への熱意が高まっていきます。
兄の危篤で八幡に帰った浅原の八幡でのその後の10年の闘いが始まります。浅原と同志数人は不眠不休の努力のすえ、八幡製鉄所労働者数千名を「労友会」に組織し、1920年八幡製鉄所の2万5千人の大労働争議を友愛会と共に指導しますが、八幡製鉄所第一次ストライキ勃発と同時に治安警察法違反で逮捕されます。
1928年帝国議会に当選し、1929年の帝国議会では、山本宣治の追悼演説をおこなっています。「満州からの即時撤兵」を叫んで1932年帝国議会総選挙に立候補するも、中国出兵に賛成する社会民衆党の亀井貫一郎に敗れて落選しました。
『溶鉱炉の火は消えたり』浅原健三著は、貴重本でアマゾン等では高額ですが、今ではネットの「国立国会図書館デジタルコレクション」で無料で読めます。
浅原健三の思想が正しかった時代、労働者階級の立場にしっかりと立っていた頃の、また資本と敢然と闘っていた当時の八幡製鉄所労働者の様子や叫びが手にとるように伝わってきます。官営八幡製鉄所の大ストライキに鼓舞された全国の労働者がこぞってこの本を読んだといいます。
(しかし、その後転向した浅原は、かの石原完爾と深く通じ、侵略戦争に加担していきます。治安維持法違反の容疑で逮捕され追放された上海の地で実業家となります。1944年の東条英機暗殺未遂事件でも関与を疑われ憲兵隊に逮捕されたりもしています。)
国立国会図書館デジタルコレクションより
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179793
『溶鉱炉の火は消えたり 闘争三十三年の記』浅原健三著 新建社版
目次
苦闘10年の同志に贈る(前書き)
二十二年
溶鉱炉の火は消えたり
仁丹先生
地底
炭田を衝く
香月村血記
反動狂舞
屍を野に焼く
「西部戦線」乳る
驟雨一過
出発
戦火燃ゆ
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以下、前書き〈苦闘10年の同志に贈る〉を紹介します。
『溶鉱炉の火は消えたり』浅原健三著(苦闘十年の同志に贈る)
―八幡製鉄所の大罷工記録—
苦闘十年の同志に贈る
同志諸君!
顧みれば、過去十年、諸君の歴史は荊棘(いばら)の途(みち)であった。苦難苦闘の戦史であった。
然り!九州の階級戦線は、同志の××を以て描き続けられた惨史である、
我等の往く所、飢渇、牢獄、××、所詮は墓場への険路なりとは云へ、余りにも痛ましき犠牲の累積ではないか。
×
或る者は白色テロの刃に斃れて屍を野に焼かれ、或る者は飢餓の途上に行き倒れて無縁の孤墳と化した。或る者はチヴスの高熱に狂死し、或る者は裂けたる肺の血を吐き盡して仆れ伏した。叉、或る者は反動群の棍棒に傷き、或る者は強権の泥靴に生面を摘み躙ぢられた。
叩かれ、撲られ、蹴飛ばされ、突き倒され、唾せられ‥‥
苦闘の朝は受難の夕に続き、忍辱の夜は飢餓の朝に明けた。
×
見よ! 意気地なき弱者は逃げ出した。
或る者はブルジョアジーの魔手に良心を売り渡し、或る者は彼等の靴の紐を解く階級的裏切者と成り果てた。
逃ぐる者、売る者、買はるゝ者、裏切る者。
朝の同志は夕のスパイとなって兄弟を豺狼の足下に投げ出した。
×
だが、諸君は、よく忍び、よく耐へ、よく闘った。
諸君は誓を変へなかった。
強く、高く、プロレタリアの旗を樹てた。
然り、同志の歌声は高く、諸君の旗は燦として輝く。
×
一九二八年二月二十二日。
北九州の全無産大衆の手によって、私に「当選」が投げ与へられた日である。
私の勝利ではない。勝利は諸君の勝利である。私の凱歌ではない。凱歌は無産大衆の凱歌である。
十年の怨恨の晴れた日。私の当選は同志が十年苦闘の結晶であった。
然り!此の日は十年の決算日である。
然り!新なる闘争への出発の朝である。
此の日、
「十年の闘争史を書いて同志に献げやう。」
私は、同志が筑豊炭田に流した××を掬ひ取つて我等の闘争史を記録すべく思ひ定めた。
×
而来二年、私のペンは遅々として進まず、月日は匇忙裡に空しく過ぎた。
然も政界の風雲は解散に向つて流れている。
私の任は解かれる。
大衆の闘争指令は更改せられなければならぬ。
其日の前に、私は自己への約を果たさねばならぬ。
「無理にでも、書き終らう。」
第五十七議会へ「解散」を投げつけんと身構へた濱口内閣を凝視しつゝ、私の手は原稿紙の上を走る。
×
斯くて「溶鉱炉の火は消えたり」は成る。
拙、劣、稚、私は諸君の前に恥ぢる.誤記、妄語、全てを赦せ。
更に、同志の尊き戦史を、私を軸として記録した、此の不遜を赦せ。
解散だ!
再び、決戦の日が来た。
さあ、やるぞ! 奥歯がカチカチと鳴る。
×
一九三〇年一月二十一日、
ペンを投じて闘争の陣地に葛進する。‥‥‥‥浅原健三