パンフレット「大久保製壜闘争が教えてくれたもの」
1995年大久保製壜闘争20周年を機に、東部労組は「争議全面解決を目指す総力戦」の方針を決定するために6月合宿を行います。ここでの――大久保製壜闘争20年の闘いと争議の全面解決に向けて――の講演記録です。
講演テーマ「大久保闘争が教えてくれたもの」
講師 長崎広(当時、東部労組大久保製壜支部副委員長、東部労組副委員長)
1995年6月5日
(はじめに)
自己紹介(略)
(三日戦争、杉田育男さんとの出会い、東部労組との繋がり)
大久保製壜職場の御用組合の会議で20代の若者だった僕と橋本さんと黒崎さんの3人が「職場の障害者虐待酷使や暴力はひどい。労働組合なら労働組合らしくやれ」と発言した翌日自宅に解雇予告通知書が送られてきました。一ヵ月後に解雇です。それっビラまいて、門前でシュプレヒコールでもあげて、抗議闘争をやるのかなと思って勢い込んで当時から地域で骨太で有名な東部労組に相談に行きます。そして足立実委員長に「これこれで首を切られたから、 助けてください。明日から僕らはどうしたらいいですか?」と聞きました。すると、門前に押しかけるとか、そんなことは何も言わなくて、足立さんは、 「君たちは職場の障害者、労働者のために声をあげて首を切られたのだから、障害者や労働者が立ち上がらないはずがない。障害者の家を一軒一軒たずね、必死に訴えなさい」と言います。僕らは正直期待外れでしたが、こっちも相談に行った手前、足立さんの助言を受け入れて、足立さんの言う通りやることにしました。
普通は解雇予告手当を出せば次の日から会社に来させなくていいのだけれど、当時大久保製製壜では首を切るときに、その金を惜しんで30日間働かせて、そのあと首にしていたのです。私たちもそうされたおかげで働きながら解雇撤回闘争を闘えました。
たまたま僕は夜勤の時に当たり、検査課で肉体労働の夜勤をして、昼間一軒一軒労働者の家や障害者の家を訪ねて「これこれこういう事で首になった」と訴えます。一日目やって駄目で、二日目やって駄目で、三日目まで延べ七十時間まるっきり寝ないで夜勤をやります。仲間たちに動きはありません。それで、三日目の夜中の11時か12時頃ですかね、立っていてフラフラします。「これは倒れる、もう限界だ!」と会社の塀を乗り越えて近くの公園に行き、足立さんに電話します。 「足立さんから言われる通りやったが、仲間たちは誰も立ち上がりません。それより俺、もう体が持たないので、運動はいいから今日は帰らせてもらう」と言います。てっきりわかったと言ってくれると思っていたら、足立さんは「だめだ」と。「今君らが帰ったら仲間たちはどう思う。君らが逃げ帰ったと思うだろう。倒れるのなら職場の中で倒れなさい」と言うのです。まー、今でもそう思ってますけど鬼のような人なのですね(会場爆笑)。 それでしょうがないから職場で倒れようと再び工場の塀を乗り越え、仕事を始めたら、全然倒れなくて朝まで労働をやってしまうのです。 朝7時になり、ようやく「さあ帰ろう」と二階の休憩室に行くと、杉田育男さんを先頭にした身体障害者と知的障害者、職場の30名の全労働者が休憩室に座り込んでいます。真っ青な顔をしてみんな黙って座り込む。ブルブル震えている仲間もいます。でも帰らない。互いに腕を組んで休憩室から動かないのです。杉田さんたちは「長さんたちの解雇を撤回しろ!」と職制に言います。職制たちは「お前ら帰れ」とどなります。しかし、がんとしてみんな帰らない。大久保製壜、会社はじまって以来の労働者の決起です。会社は腰を抜かします。昨日まで殴られても蹴られても一つも反撃してこなかった、まるで奴隷のような労働者、障害者が突如人間として自分の前に現れたのです。今度は会社が怖れおののきます。こうして3人の解雇が撤回されます。かつて東部労組ではこれを「三日戦争」と呼んでいました。その後、身体障害者の杉田育男さん(初代大久保製壜支部委員長)と長崎、橋本さん、黒崎さんが東部労組に人り、直接東部労組とのつながりが出来ます。
それでは、「大久保闘争が教えてくれたもの」に入っていきたいと思います。
(生まれて初めてのストライキ)
その一つに、生まれて初めてのストライキの闘い、生まれて初めての大衆闘争という事があります。最初に組合を作った時、教会ろう城やった時も新労組結成の時もですね、この闘いがその後十年も二十年も続くなどとは誰も夢にも思わなかった。とにかく闘いに立ち上がった時というのはそれまでの積年の恨みを爆発させるというか、「自分たちの持っているこの怒りをどうやったら会社に感じさせることができるか、どうしてもわからせたい」という気持ちで会社に対する怒りをぶつける。それこそ明日の事なんか考えていなかった。
そういう意味で先ほどご覧になったビデオで、大久保製壜の重役をみんなが糾弾しているあの場面、あれがその当時の本当のみんなの気持ちだったと思うのです。 「もし許されるのであれば、あのままずっとあいつらをやっつけていたい。明日でも明後日でもずっとあいつらを吊るし上げていたい、それこそぶっ飛ばしていいというならぶっ飛ばしたい」そういう気持ちだったと思います。
できればこいつらを障害者の仲間や僕たちが毎日やらされているように、一カ月に二十二日間も夜10時から朝7時までの立ちっぱなしの深夜労働をやらせて、もし途中で居眠りをしたら、うしろから蹴りを入れるとかね。あるいは箱詰めをやって、一本でもビンを下に落としたら、ぶん殴るとかね。あの高熱での作業をあいつらにやらせたいとかね。そういう気持ちだったと思います。そういう意味で、あの場面はその後の新労組の人たちや、 支部の人たちの闘い、そして俺たちの原点だったと思っています。本当に怒りや憎しみ、それだけでした。
(イチリーツ! ニカゲーツ! )
今回のパンフレットの中でも教会ろう城の時の「詩」があります。これ、杉田さんたち障害者の仲間の叫びを僕がまとめて書いたものですが、その中でその教会ろう城の時のみんなの気持ち、「イチリーツ 二カゲーツ これしかなかった」という文章があるのですね。本当に『イチリーツ ニカゲーツ(一律二カ月)』それしかなかったです。ただ、あの詩を書いた時はこれしかなかったという事がすごく誇らしく、威張って、自慢げに言ってるのですね。今考えるとあの当時の自分たちのレベルがものすごく低かったと思います。
というのは、やってる本人は朝起きて礼拝堂で『イチリーツ ニカゲーツ』、庭へ出て『イチリーツ ニカゲ ーツ』、堀切菖蒲園駅のホームで、曳舟の駅で、亀戸の労政事務所でと本当にそれしかなかったのです。しかし、そうやって教会堂に帰って来て深夜の一時二時、みんなが寝静まってから東部労組の執行委員全員は、足立さんを中心に会議をやリ「今日の闘いはどうだったか?」「今日出てきた敵の弱点はどうだったか?」と、そういうことを全部分析します。そして「明日、こう闘おう!」と出てきたのが「次の日、記者会見をやろう」ということや「次の日東京都庁へ行こう」「次の日は思い切って大衆団交で糾弾しよう」という方針で、それらは夜中に立てられます。
当時の東部労組の執行委員も組合員も足立さんも含めて全員が工場労働者です。朝まで会議をやって方針を出して、そのままみんな自分の工場での仕事に就いていった。大新の仲間たちは、沢村さんを僕たち闘いの現場に張り付けてくれるために、有給を取って沢村さんの工場で働いた。大新の人たちは、自分たちは全然大久保闘争の表面に出ないで闘いを支えてくれたのです。そういうことは、今のビデナには一切出てこないわけです。夜中の一時二時に戦術会議をやってるなんて全然でてこないし、でてこないどころか、闘ってる俺たちがそんなこと知っちゃいないですね。そういう意味では当時の東部労組の執行委員のみなさんの苦労や疲労がなければ教会ろう城の勝利などない。だからといって、足立さんたちが夜中の一時二時まで会議をやっても俺たちがいなかったら、そんなものは屈でもないわけだし、その二つが重なった時にあの勝利があったとつくづく思います。
ただ、その初めてのストライキ、初めての闘いに立ち上がった時の当事者の僕たちの事に絞って言わせてもらえば正直言って、僕たち自身、一体何のために闘っているのか、何を獲得しようとしているのか、一体どこに向かおうとしているのか、そういうことは、理解してなかったですね。さっきも言った通り、当時は怒りや憎しみで、自分たちが一体、何のために闘っているのか、自分たちが望む本当の職場の様子というのはどういう状態なのか、さらには自分たちにとって自由とは何か、ということなどほとんど考えてもいなかったし、理解もしていなかった。思うこともなかったですね。とにかく、今の自分の怒りを会社にぶつける、それを分からせる、それだけだったのです。
だから、もし、あの『一律二カ月』という差別ボーナスに反対する要求がなかったら、あのままずっと無期限ストライキをやって、多分全員が玉砕(ぎょくさい)して解雇されていたと思います。あの『一律二カ月』の要求があったために、キリスト教会ろう城闘争自体の区切りがついたと思います。そういう意味で東部労組の戦術原則にある『有理、有利、有節』(東部労組が闘った大衆闘争の戦術面の総括を工場・職場闘争の戦術原則としてまとめた。全体で十五項目あるうちの十三番目にある「味方に有利な力関係を基準として闘争をしめくくる。受け身のままずるずる闘わない」の中からの引用)というのはすごい考えだと思います。
とにかくここで何を言いたかったかというと、36名の労働者の怒りと憎しみとぎりぎりの必死の闘い、それと東部労組の指導、これがあって勝利ができたということ。もう一つは、それにもかかわらず闘ってる本人というのは、そのときは闘っている自分たちの意味や何を闘い取ろうとしているのかということを、正直、理解していなかったのではないかと思います。
(闘って労働者の価値に目覚めた)
今言ったようにそういう状態だったのですが、闘ってみて初めて闘争自体が肝心かなめの僕たちにいろんなことを教えてくれました。一人一人は本当に無力で独りぼっちだった労働者が、団結して闘争を始めたとき、事態が本当に変わって来た。それまで気が付かなかった事、それまでだまされていた事を闘争自体が教えてくれます。
例えばその一つが労働者の価値、労働者の力です。ビデオにも出ていましたが闘争以前の状態というのはこれは本当にひどいものでした。それこそ「給料が安いから上げてくれ」とか言ったら「お前、明日からこなくていいよ。お前の代わりなんかいくらでもいるしね。別に検査課の仕事なんか誰にだってできる仕事なんだ。お前なんか一人や二人いなくてもいい」と言われる。また、それこそ指を骨折したって労働させるし、ケガと弁当は自分持ちです。「結婚式だから有給で休みたい」と言ったら「その日は仕事の都合があるからそっちの結婚式の日をかえてくれ」と、そんな話すらあります。これは二十年前の話では無くて、つい半年前に、ある職制がひとりの労働者に言ったそうです。それとか「会社は社長が生きてるからもっているのであって、社長がくたばったら、この会社はすぐにつぶれちゃう」とか、「障害者だから、お前らの給料は安い、中卒や高卒だからお前らの給料は安い」とかね、会社も言うし、実は、僕ら自身もそういうふうに思っていました。
ところが、三六名の十日間のストライキで、そこに現れた事態というのは、大久保製壜検査課ので四っつ目のラインは完全に止まったりする。それから、部課長以下全員が検査課に来て箱詰めだ、流しだ、と検査課の肉体労働をするのですが、全く仕事が追いつかない。ベルトコンベアーのラインにはビンが山のように溜まる、ビンはバンバン下に落ちるし、床はガラス破片で一杯になる。当時、ビンの箱詰め作業は、全部手でやっていましたが、あれだけ会社が見下していた知的障害者の人たちが、一人でやる箱詰め作業を健常者二人がやっても間に合わない。結局、残った三つのラインも回転数を落とし、スピードを落とす。さらに、出て来た製品の多くが社内アウト、ろくに出荷が出来ないという、いってみれば大久保製壜のビンの多くが役に立たない状態になる。150名のうちわずか36名の人達の、しかもたった10日間の闘いで、そういう事態が起きるのです。
昨日まで「お前らゴミの吹きだまりだ!」とか、「お前らの仕事は誰にでもできる!」と会社に言われてきた検査課の障害者、労働者の仕事が、大久保製壜の中でいかに大事な仕事だったのか。大久保製壜で作り出す価値や大久保製壜で作り出す儲け、それらを僕たちが本当にストップさせるだけの力があったということがたった十日間のストライキで僕たちの前に現れます。
それまで自分のやってる仕事というのは、それこそ誰にでも出来る仕事なんだと思っていた僕たちにとってそれはものすごくびっくりすることでした。自分たちはそういう仕事をやっていたのだ。もっと尊敬され、もっと報われてもいい、もっとほめられてもいい仕事をやっていた。自分の給料が人の二分の一、三分の一なのは自分たちの仕事が二分の一、三分の一ではなくて、社長が勝手にそう決めているのだということに気が付く。自分たちがあまり勉強好きじゃなく、中卒や高卒だから給料が安いのだ、と考えていたことは間違っていた。自分たち自身の価値というのは本当にすごいものなのだ、ということを闘争自体が僕たちに教えてくれます。
とは言っても、教会籠城の時にそれに気が付いたのではなくて、今こうやって言えるのもその後、徐々に僕たちが気が付いたことなのです。闘争自体が自分たち自身の価値や、自分のやっている仕事の素晴らしさなど自分たちが気が付いていた以上のことを教えてくれたのだ思います。
(今度は連中の方がこわがっている)
もう一つ、闘いの中で僕らが見たもの、闘いが教えてくれたものに、『闘いにおびえる資本家の姿』があります。
あのビデオにあったように、会社重役が本当にブルブル震えている。あれが昨日まで威張り散らしていた社長一族の姿だ。昨日まで俺たちは一日一日を食うために、毎日の安い給料もらうために社長一族という言ってみれば他人のために言いたいことも言わないで我慢して働いてきた。それこそ当時は、朝、社長の車が会社に着くとだれかが必ず「おやじだ!」と叫んで親指を立てる。すると職制は一斉にいなくなって、残った障害者、労働者がビクビク、オドオドして、社長がいなくなるのを待つ。それくらい怖い状態でした。
だからといってそれが闘争してすぐになくなるという事ではありませんでした。闘争中も、社会福祉会館から大久保製壜を通って曳舟駅に行くという初めてのデモの時、会社の前にいられたのは二十秒から三十秒だったですね。それこそ、新労組ができて、次の日にストライキをやった時とは、全然違う闘いだった。最初は門前にいるということ自体すごく怖かったのです。今でこそ、ビデオじゃ格好いい『キリスト教会ろう城』だなんて言っているけれど、あれは『籠城』と言うよりは『会社を逃げだした』と言う方が正しいと思いますね。そのくらいみんな怖ったのです。
何日か闘いを経て、東部労組副委員長の沢村さんが車に組合員を連れて会社の前を通った時、支部の人達は亀の子のようにみんな首をすくめたという話を聞きました。それくらい怖かったのですね。教会籠城が終わってもまだ会社の前を通ると、体が条件反射的に動いてしまうといったことは、何回も経験しています。それまで受けたきた障害者虐待暴力への恐怖ですね。
しかし、あの闘いの中で、あれだけ威張っていた、あれだけ僕たちが恐れていた大久保一族が、じつはものすごい僕たちの前でおびえている。これを僕がまとめた詩の中で『今度は連中の方がこわがっている』と書いています。
だから闘う前まで本当に奴隷だった、ロボットだった僕たちが、闘いの中で人間になったと思います。あいつらにも人生があるように、俺たちにも人生があるのだ、俺たちの人生を俺たちが決めてなにが悪いのだということとで、みんな立ち上がりました。
どの会社もそうですが、職場内では24時間のすべての主導権は会社が握っています。どこでも会社の中に、工場の中に一歩入れば、あらゆるヘゲモニー(主導権)は会社側が握っています。だけど教会籠城の十日間の闘いの時、俺たちの人生は俺たちが握っていたのです。たった十日間だったけれどそれは間違いない。その時の解放感というか、自由というか、解き放たれるというか、それはもすごい貴重な経験だったですね。
僕は、それまで頭でっかちで、『労働者の解放』 『障害者の解放』とか言葉では『解放』ということはわかっていたのですが、その十日間のスト中の解放感というか、自由というか、あれこそ労働者の解放という言葉を使っていいのかなと、そう思います。
もう一つは、これは十日間の闘いだけじゃなく大久保製壜闘争全体の中で、僕たち自身が教わった事なのですが、今言ったように闘いの中で、会社をあれだけ怖いと思っていた事が実は幻想であり、あいつらはなんて卑劣で、臆病で汚い奴らだという事が分かるのですが、それは職制に対しての幻想も同じでした。〇〇さんという職制はいい人だと思っていたけれど、教会に知的障害者を切り崩しに来た彼と闘う中で、この人も結局は会社側の人間なんだということに気が付いてきます。
それから俺たち自身の中にある幻想ですね、こういうとことも闘いの中ではっきりしてきます。例えば職場のボスだったSという闘争が始まる前まではみんなのリーダーで理論的でよくしゃべって統率力があって、いかにも会社と闘って勇気がありそうだという人がいたわけです。それでその人は例えば善場さんや、銀ちゃんに対しては「あいつらは駄目だ、会社の犬だ!」というふうに言っていましたから僕たちも正直いって、組合を作る前の秘密の会議には善場さんや銀ちゃんには声を掛けなかった。
ところが、いざ教会ろう城に入って闘いを始めた時に、このSは十日間の団交の中でビビってしまい一言もしゃべらない。敵の前で一言も発言をしないどころか、勝利した後に向こうが強くなったらすぐ何人かの組合員を切り崩してそそくさと組合を脱退して裏切っていく。その逆に『会社の犬』だと言われていた善場さんや銀ちゃんたちの方が、その後20年間もみんなのために立派に闘ってきている。善場さんなんかは教会ろう城に入って一日二日というのは真っ青でブルブル震えていたけれど、三日目くらいからは水を得た魚のように闘いだして、それがずっと二十年間それが続いている。だから、俺たちが仲間を見るときの基準というのは、口先や表面的なことだけじゃだめだ、ということも闘いが教えてくれました。
(敢然と闘う支部と先輩や仲間の指導援助)
次に、大久保製壜闘争が教えてくれた『敢然と闘う仲間とそれを指導し、支えてきた先輩の仲間の力』にいきます。
教会ろう城闘争に勝利して職場に戻った直後からの、本当に今思い出しても腹の中が煮えくり返るほどひどい残酷な組合つぶし攻撃。それこそ、障害者の中でも重度の身体障害者の北原さんを、一番灼熱地獄の煙突のすぐそばに作業場をわざわざ作って、そこで重労働をやらせる。それでついに北原さんはぶっ倒れてしまう。そんなひどい組合つぶしをやってくる。橋本さんを真冬の寒い雨の中わざわざ雨にぬれるように外で仕事をさせる。また、黒崎さんが管理職をにらんだといいがかりをつけて懲戒処分にする。僕なんかも、街でSと会ったら「Sをにらんで通行妨害をした」ということで懲戒処分される。特に橋本さんに対して、それこそ肉体的にも、精神的にもあのⅠ課長がいじめにいじめぬく。それはもうメチャクチャひどい組合弾圧でした。だけれどもそういう弾圧に耐えて、本当に『敢然と闘う』 力を僕たちは持っていた。労働者にはそういう力があった、ということが言えると思います。闘う前は自分たちがそんなにやれるとは思っていなかったのです。 正直なところ、僕なんかも逮捕されたほうが楽なんじゃないかと思ったほど苦しい時が何十回もありました。
これは、決してかっこつけるわけじゃないのですが、出勤中、荒川の木根川橋を渡る時、橋を渡ってしまうとあきらめがつくのだけれど、渡るまでがものすごく勇気がいりました。その時にはさっきのビデオの中にも流れていたインターの歌を唄って自分を自分で奮い立たせるということもありました。「闘え、雄々しかれ」と明治学院の校歌を歌って自分をふるい立たせる時もありました。泣き言を言わない障害者の杉ちゃんや羽野さんなんかの方が、このようなことがもっといっぱいあるかとと思うのですが、そういう時もありました。
ただ『敢然と闘う』というとき、大久保製壜闘争では、いつもシュプレヒコールをあげたり、そんな場面ばかりですが、新労組ができてつくづく思ったのだけれど、例えば今の委員長の小林さんは、組合をつくってからの一年間、団体交渉で会社をにらみつける事以外は一言もしゃべらなかった。もちろんにらみつけていて、びびっているわけじゃないのだから心配はしないのだけれど、やっぱりなんとかマコチャンにしゃべってもらいたい。しかし、それでも一年間彼はにらむしかなかった。そして、一年後、本当にダムの水がセキを切って落ちるような感じで突然団交で会社を糾弾し始める。それは秋元さんの時も同じだった。秋元さんも三年間一言も団交でしゃべらなかったけれど、三年後に突然しゃべりだす。また、羽野さんは内部に対する不満は言わないです。黙々とやることはやる。会議ではあまりしゃべらないのですが、二十年間、毎週水曜日に続けている会議に、一度の遅刻、 欠席もありません。
だから、『敢然と闘う』というのは、なにもシュプレヒコールをやったり、勇ましく会社とやりあう事だけではなく、小林誠さんや羽野さんたちの態度も本当に『敢然と闘う』という姿勢だと思います。だいたい最初に調子いいこと言う奴は、やめるのも早いね。そういう奴は、最初バンバン闘って、苦しくなるとやめていっちゃうのですね。東部労組がなかったら俺なんかもとっくにやめているのだろうって気がしてますけど(…笑い)。
じっくり自分の頭で考え、悩んで苦しんでやる人は、 後からいつの間にか一番前の真正面に出ています。東部労組の戦術原則の中 に『先進、中間、遅れてる人』と書いてありますが、一 回『先進』と決めたら一生『先進』だといったらとんでもない間違いで、先進だったのが、いつの間にか一番遅れてることがいっぱいありますね。逆に、遅れていた人が、いつの間にか先進になっていたこともあります。
そうやって大久保製壜闘争が、まがりなりにも敢然と闘ってこれたのは、東部労組の指導とそれを支えてくれた皆さん、地域や全国の支援の人達、本当にそういう人達のおかげだろうと思います。さっきの『一律二ヶ月』要求を決める問題であるとか、『有利、有理、有節』だとか、そのような問題など多くの事を東部労組の先輩から学びました。そしてそれは、大久保製壜闘争が始まる前の東部労組の先輩たちの犠牲や敗北、失敗などの経験が大久保製壜闘争に役にたってるのではないかとつくづく感じます。 例えばこんなことがありました。あるとき東部労組の機関紙の編集長が病気になって倒れてしまい、僕が臨時に機関紙の編集長をすることになります。その中で東部労組十周年の歴史をドキュメントふうに記事にするということで、当時の足立さんや沢村さんに来ていただいて、東部労組の歴史を聞いたことがあるのですね。それで、話が全部終わった後、こういうことを僕が聞くのですね。「大体、すばらしい闘いがいっぱいあったのは分かるのだけれど、当時闘っていた人達が今残っていないのは、なんでなのですか? これだけやった人達ず残っていれば今頃、東部労組は何千人という組合になっているのじゃないですか?」と。言ってみれば、「足立さんたちの東部労組のやり方に問題があるのじゃないのか!?」といった質問だった思いますが、そういう事を聞きます。当時僕は20代だったから、ものすごく残酷もことも平気で聞けた年頃ですね。そうしたらですね、足立さん、そこで黙ってボロボロ涙を流し、ほとんど答えてくれなかっです。
今考えて足立さんにものすごく悪いこと聞いたなとつくづく思います。それなら大久保製壜闘争は、結成以来総数70名の人が立ち上がっているのですね。それだけの人たちが立ち上がって、いま20数名ということはそれ以外の人は全部会社をやめて去って行ったか、あるいは裏切って同じ職場の中にいるわけです。それを例えば今の東部労組の若い20代の奴から「長崎さん、70名全部残っていたら支部は職場では多数派じゃないですか。そうならなかったのは長崎さんたち支部に問題があったのではないですか!」なんて言われたら僕だったら泣かないでそう言った奴に「ふざけんじゃない!」ってね。「お前なんか闘ったことないからそういうこと言うんだ!」と、たぶんそういうふうに言うと思うね。今の僕だったら。会社だって暴力団まで雇って必死にやってくるわけだし、こっちだって生身の人間だし、そりゃ、動揺するしやめる奴だって出てくる。それを、そんなことを若造に言われたら「てめえーふざけんな、この野郎!」と言ってると思うね。本当にそのくらい悔しいよね。橋本君が心身ともにボロボロにされて・・・(絶句)。本当に悔しいですよ。
東部労組の人はみんな分かると思うけれど、曙(全曙支部)にしたって、都留(都留工業支部)にしたって、たじま支部にしたって、あれだけ何十人組織しても何人かは切り崩されている。えらい辛い思いをしている。それだけ職場での闘争というのは生きてるっていうか、生身の闘いだよね。敵だって必死だし、向こうは東部労組と仲良くしたくない為に刑務所にまで行くぐらいだから。そんなに甘くはない。
それで気が付いたのですが、足立さんたちがそれだけ悔しい思いをして、東部労組を作ってきた経験が今の大久保闘争や東部労組の各支部の闘いに役にたっているのだな、と今度のことでつくづく思いました。
ただ、だからと言って大久保製壜支部に間違いが無かったか 、と言えばそうではなかったと思います。あのときあのようにすればよかった、このようにすればよかったと思うのがあるし、多数派にならなかったというのは、きっと僕たちの側にも原因があると思いますね。 しかし、だからと言って変に感傷にひたって「橋本さーん!」と言って、泣いてみたってしょうがないわけです 。それよりこれからどうやって仲間を守り、増やしていくかが問題です。例えば今、善場さんが心臓で体が壊されそうになっていますが、その彼とどうやって体を壊さないように、最後の勝利まで一緒に職場で闘っていくようにするかとか 、そういうことを一緒に考えていく。これからの闘いの方法を考えていくのに、過去の経験を生かしていきたいと思います。
大久保製壜闘争が、東部労組の過去の先輩たちの犠牲の中で、こうやって今までやってこれたという事はもう少しおおげさに言うと、日本に資本主義ができて日本の労働者の戦前戦後の何百万の先輩達の歴史があるから東部労組も僕たちも今あるのだろうなと思うのですが、そんな事しゃべりだしたら本当に大ボラふきになってしまうので、次にいきたいと思います。
(『社会に向う目』)
大久保製壜闘争が、教えてくれたものの中で『社会に向う目』という事があります。これは、闘争に入る前は、政府の問題や法律だとか労基署だとか職安だとかね、警察とかあるいは、社会で起きるいろいろな問題などは、はっきりいって、自分たちにとってどうでもいい問題だと思っていました。ところがどうしても闘争に勝たなければいけないということで、必要に迫られて、役所に行くと、いかにいい加減で、どうしようもない所だということが分かります。警察というのは弱いものを助けて泥棒をつかまえるものだと思っていたら、障害者を虐待する社長は逮捕しないで、こちらがポスター貼っただけで逮捕され、結局は資本家の味方だった。あるいは民社党の国会議員が助けにきてくれたというので、最初はものすごく期待して、これでもしかしたら事態が動くのではないかと思ったら、逆に会社側に丸め込まれて帰ってしまい、なんだ、政党なんてそんなものかとつくづく失望させられた。
このように、結局闘いが、俺たち自身の目を社会ら向けさせ、社会の出来事が実は俺たちにとってものすごく大事な問題だということを教えてくれたと思います。今迄まで無知だった人間が利口になる。こういうことも闘いの中で教わったことでした。
(仲間は必ず立ち上がる)
次に『仲間は必ず立ち上がる―職場戦術、方針の結びつき!』に進みます。
『仲間は必ず立ち上がる』というのは東部労組で言えば、大衆路線ということだと思うのです。
大久保製壜支部は過去20年間で、工場の全労働者200名中約総数70名の労働者があれだけの組合つぶしの中で立ち上がってきていますが、それは職場戦術、すなわち仲間や会社に対する自分たちの態度、自分たちがどういう態度で向かっていくのかということが仲間が立ち上がる上で重要な事だと思います。
東部労組に入り、大久保製壜闘争が始まり何年かは僕たちも正直言って仲間が必ず立ち上がるなんていうのは、口では言いますが、内心は本気で思ってはいませんでした。『仲間は必ず立ち上がる』と大久保製壜支部のスローガンに書いていましたが、多数派支部の人から「そうはいってもいつまでも立ち上がらないじゃないか」とハッパをかけられた事がありますが、実際はお題目でずっと言っていました。でも、お題目で言っていると、仲間は必ず立ちあがらない、という事が闘っていくうちに分かってきたのです。仲間が本当に立ち上がると実感したのが、銀ちゃんや、石井さんたちが立ち上がったときです。
またちょうど十周年目、このビデオができて二年後くらいに、あの6名の仲間が立ち上がって支部に参加する。その時「ああ、こうすれば仲間が立ち上がるのか」 といういい経験をしたのでそのことを紹介したいと思います。
当時、支部は力を持ちはじめた状態でしたので会社は、支部を直接いじめることができなくて、そのかわりに大労組員をいじめていました。さらに、大阪からはTという職制を社長が連れてきて、「徹底的に労働者を締め上げろ」と命令して検査課に派遣します。そして、このTが大労組の労働者をメチャクチャにいじめます。
僕たちは銀ちゃんたちと相談して、このTを徹底的にみんなから分離するという戦術をたてます。例えば、製場課の課長とTが仕事のことで口論している時には、その間に割って入り「俺の親方いじめるのか!」と言って課長に加勢するなど、そのような場面をたくさんつくります。
さらに、Tが大労組の障害者の湯村さんや小林さんたちを、三交替から一部三部勤務(日勤と夜勤を繰り返す勤務体制、三交替の場合より夜勤の回数がさらにふえるのできつくなる) にするという労働強化を命じてくる。
この湯村さんという人は、杉田さんや支部の人とも十年来仲良く付き合ってきた人なのですが、その湯村さんを、Tが一部三部勤務を命じたと聞いた時に、僕たちは思い切って湯村さんのアパートに行き 「湯村さんが本気で闘うのであれば、あなたを絶対に守る」と言います。すると、湯村さんは「一部三部勤になったら体がもたない。その時は自分はもう会社をやめざるをえないので、 支部に参加して闘う」と腹をかためます。翌日から湯村さんは職場で闘いはじめ、支部はそれを応援します。
しかし、当時自分たちは、十数名しかいない少数派支部ですから、すぐに湯村さんが支部に入ったことを公表しないで団交をやるという戦術をとります。そして、その団交では「Tが、他の幹部の連中に相談しないで勝手に労基法に違反する事をやっているのだ!」と、徹底的にTだけを攻めます。とにかく、Tが勝手にやったということで攻めに攻める。すると会社幹部の連中も、それらは実際にTが勝手にやったことですから驚いてしまい、さらには「これはほっておくと湯村が東部労組に入ってしまう」と恐怖して、湯村さんをすぐに元の職場に戻すといった勝利をおさめました。そして、湯村さんが支部に入ったことで、入りやすくなったアッちゃんや残りの五人の人たちも加入します。
それで思ったのですが、もしあの時、Tと会社職制全体と分けないで、追及していたら、会社は引かなかったと思います。もう一つは、湯村さんに対して、「湯村さんも一緒に闘おう」と言わないで、俺たちが代わりにやっていたら、すなわちこれが『代行主義』で、これでは湯村さんは立ち上がらなかったと思います。
だから、ただ「仲間は立ち上がる、立ち上がる」と言っていても立ち上がらない。立ち上がるにはこちらの態度やこちらの戦術が大きく影響するのではないかと思います。
次に、その後の1987年に、みなさんよくご存じの22名の青年たちが大労組から脱退して支部と一緒に立ち上がるのですが、その時も、『仲間は必ず立ち上がる』という問題がこちらの戦術や態度によるものだ、という事のすごくわかりやすい例があるので紹介します。
これは新労組ができる二年前に、先ほど言った6名の人たちが支部に入るということで、会社はすごく危機咸を持ちまして、いろいろな職場の中でしめつけをしてくるのです。例えば、新しい職場の組長にAというものすごくみんなから憎まれている奴を抜てきしたり、「会社に自転車ではなく歩いて来い」などと言って規制を厳しくして当時の男子寮に対する締め付けを激しくします。 また、管理職が職場で威張りちらすということもしてきます。そのような中で新しい動きが起こってきます。
Bさんという組長がいるのですが、この人は教会ろう城時のストライキで三六名が休憩室に座り込んだ時に、僕たちの代表が「いまからストライキに入るから他の機械を全部止めて下さい」と製場課に伝えに行くと「わかった、機械は止めるわけにいかないが、検査課の徐冷炉から出てきたビンは全部捨てていい」と言ってくれた人なのです。このBさんを会社が「長崎と若手を組ませるとよくない」ということで、ずっと僕と仕事を組まされていた人です。そしてたまたま彼と酒を飲んだ時に、彼が「長崎は今まで俺たちをバカにしているから酒を一緒に飲んでくれなかったと思っていた」と言うのですね。「いや、そんなことはない僕はもともとから酒が飲めないんだ」と言ったのです。事実僕はアルコールがまるでダメで、競馬もしないし、仲間と付き合う機会が、正直言ってあまりなかったのです。しかし、それがヒントになって、酒の場に付き合うようになる。そして、このBさんのつてで、当時の製壜課の労働者と一緒に、酒を飲むようになります。その中には酒がものすごく好きな人とか、浅草のスナックやクラブで飲む人とか、そんな人もいて、一時は付き合うこちらもメチャクチャでした(・・・笑い)。
このようにして若手の青年たちとも仲良くなり、そのような中に「大労組はダメだ、だからといって、支部にはおっかなくて入らないけど、この酷い職場を自分達でなんとかしたい 」という人たちが出てきます。そこで僕が色々アドバイスすると、若い人たちが秘密に動きだすのですね。
そうこうしているうちに、会社は「もう一回大労組をしめつけなくてはいけない」と考え、例の地獄の特訓で有名な富士宮研修に大労組の組合員を次々に送り出す。その時、彼らが相談にくるのですが「それは支部の問題ではなくて、君たちの問題だから、君たちが闘えば俺たちは応援するよ。若いのだから君たちが先頭で闘えよ」と、そういう言い方をします。そして若手の人たちが富士宮研修反対の闘いを起こしていく。
やはりあの時も、もし支部が代わりにやるのではなく、「本当に君たちが立ち上がれば、俺たちは一生懸命それを応援する」という姿勢でよかったと思います。
もう一つ、大衆路線ということですごく印象的な話があります。職場の仲間たちが、本当に物事をよく見ているということを多く経験していますが、その中で二つだけ例をあげます。
新労組を結成するときに、誰を組合に入れるかという話をしていて、その中に入れてはいけない人間、つまり『 会社の犬』と思われる人間を模造紙に名前を挙げていくのです。当時の新労組の誠くんたちが挙げていく名前は6名ぐらいでしたが、それは支部が十年間『会社の犬』と思っていた人が全部入っていて、こちらが思っていない人は入っていなかったですね。これは本当にびっくりしました。
もう一つは支部を脱退して会社についた裏切ったSをみんなはものすごい軽蔑していました。彼が裏切ったのはまだ新労組ができる10年も前でしたが、みんなは本当に腹の底から軽蔑している、それもびっくりしましたね。それであまり軽蔑しすぎて、Cくんという人が「新労組に入りたい」と言ってきたのですが、新労組の人たちは「お前はSの仲間だから」と入れなかったのですね。これは失敗でしたが、そのくらいSに対しては、労働者はみんな軽蔑していたのですね。 会社と闘っていくことを裏切った人間に対して普通の労働者はものすごい軽蔑をするということをつくづく知らされました。
(大久保製壜闘争勝利、そして長期方針の実現めざして)
次に大久保闘争の今回の新方針、そして東部労組の長期方針について話します。前社長が覚醒剤謀略事件で逮捕され社長をやめ刑務所に入る。また橋本さんや支部をあれだけいじめた、みんなから一番恨まれていたあのⅠ鬼部長がガンで死ぬ。そうなる前は、俺たちはそうなったらどんなにかいいだろと考えていたのですね。ところがね、いざ前社長が実刑2年で刑務所に入ったときも、またⅠ鬼部長がガンで死んだときも、なんかポッカリ、心の中に空白ができるような気持ちで、こう爆発するような、「勝った!」という気持は起こらなかったですね。
それ以後何年か経っていますが、今でもボオットとしているのです。どうしてそうなのか?それは結局、前社長が刑務所に入っても、鬼部長が死んでも、労働者いじめなり、障害者差別なり、俺たちの状態は変っていない。またそのことで会社が俺たちに少しでも謝った、そういうことがないからだと思うのです。
だから今度の二十周年闘争では、大久保闘争を本当に勝ちたいと思います。二十周年を東部労組全員、支援の人も含めてみんなで勝利を迎えたいと思います。そしてそうなれば、俺たちは一体何のために闘っているのか? 俺たちは職場がどういう状態になるのを望んでいるのか? そうことがもっとはっきりしてくるだろう、と思います。
それで、具体的な大久保闘争の新しい方針(巻末に掲載)に関しては、明日小林誠委員長が説明してくれるということなので、東部労組の長期方針に対する若干の僕の考え方を最後に述べて終わらせていただきたいと思います。
東部労組が掲げる長期方針「東部で一万、南部で一万、全国で百万」は、もうこの二年間何百回と聞いているわけですが、僕はこう思うということを話します。
もちろん、南部で一万、東部で一万が実現できれば、それは即東部労組全支部の組合員の給料だって上がり、生活だって当然よくなるわけだし、組合の力だってもっと強くなるわけだから、そういう意味ではみんなで頑張って一万人、百万人にしていきたいと思います。しかし、それだけではありません。
多くの未組織労働者は闘う力をもっている、しかし労働組合もなく、自分たちの闘う力を発揮できるチャンスや境遇がない、だから資本家にいいようにやられている。しかし、そのような人たちも必ず立ち上がっていく。そんな仲間がふえる時の感動というのは、東部労組全体で今迄たくさん経験がありますよね。
最近曙の労働者が東部労組に参加したのは、御用組合の組長が組織化のきっかけを作ってくれたという話を紹介します。 僕の職制で御用組合大労組のDさんという組長がいます。このDさんという人はビデオにでていた当時は、会社側で暴力を振るったこともある一人なのですね。
ところがこのDさんが二十年間のなかでだんだんとこちら側に近付いてきて、つい去年、夜勤のときに「長崎、 小村井の駅前でビラまいている奴ら、あれはお前らの仲間か?」と聞いてきたのです。こつちは全然知らないし、だいたいこの20年間小村井駅でビラまくのは大久保支部の僕たちだけで、それ以外はビラをまいた労働組合なんかありません。だから、あそこの駅員も、大久保支部の場合だったら絶対文句をいわなかった。曙がまきだしてから、文句をいうようになった(…爆笑)。
それでびっくりして、「Dさん、それは俺たちの仲間じゃない。悪いけどビラもらってきてくれないか」と言ったのですね。そうしたらDさん夜勤の二日目、休憩時間にやって来て、「ほれこれだよ」とビラを持ってきてくれたんです。毎日、朝と晩そこでまいていたのですね。それを見たら曙だったのです。 ビラを読んだらものすごい闘争の中身ですよ。それで 連絡取ろうと思いましたが、どこの上部団体とも書いてないし、だいたい、組合の連絡先の住所も電話番号も書いてない、『全曙労組』と書いてあるだけです。そして、ビラによればその日の朝もまくことになっているわけだから、夜勤が終わってその足で朝7時30頃、小村井駅へ行きます。その日はものすごい嵐の寒い日で、雨がザアザア降ってましたが、30分待っても1時間待ってもビラがまかれない。8時10分頃、しょうがないから小野塚さんに電話で「夕方ここへ来てくれ」とお願いして、電話を切りもう8時30分だから家に帰ろうとふと見ると小村井駅前の交番の前の道端のガードに立て看板があって、そこに『国家権力の介入を許さないぞ』と書いてあるのですよ。「あやぁ! こりゃ過激派だ!」と思いました(・・爆笑・・・)。また、よりによって、そこはあの大久保支部の黒崎さん達がビラを電柱にはって逮捕された場所の目の前、しかも交番の前でしょ。交番の前のガードレールにそんな立て看板。本当に過激派だと思いましたね。
それで、職場がすぐ近くだと確信してオートバイで行ってみると、掘っ立て小屋の前で、嵐のザアザア降りの中で十人ぐらいの労働者がたむろしていたので「ビラを見たのだけど、何かできることあったら連絡してください」と言って連絡先を教えて帰ってきたのです。
そして夕方、小野塚さん達が行くと、わざわざ喫茶店まで連れて行って、話をしてくれた。それから曙の労働者と僕たちのつながりができたのですね。過激派では全然なく、全く普通のドライバーの皆さんでした(爆笑)。しかし、こんな仲間の僕たちの地域にいたというのは、本当にびっくりしましたね。また、彼らの闘い、特に、敵をやっつけるという気持の激しさはすごかったです。
何がきっかけになるか分からない。あれだけ暴力まで振るってきた御用組合の職制が、こんな素敵な曙の労働者と僕たちの団結のきっかけになるのだからね。
そして、新しい仲間とこれから出会った時のドラマ、感動、そういうのがこれからも何十、何百と出てくる。それはものすごい楽しいことだし、僕たち自身もう一回やる気にさせることだし、そういうことをもっともっと増やすということが長期方針だろうと思います。
また例えば、曙の人たちは僕のおふくろがガンで手術をしたといったら「お見舞いだ」といって、僕の家にまでわざわざ来てくれたのです。本当に義理固い人たちだと、正直感動しましたね。今後の僕たちとこれから出会う一万人の仲間との関係がこのように、お互い魂に触れる、それこそ「この人のためだったらどんな苦労してもいい」そういうような団結というのを、東部労組が作っていけたらいいなと思っています。
以上で僕の話を終わります。(・・・拍手)
≪追記≫
この講演のあと、長崎さんに対する活発な質疑応答がおこなわれ、合宿の一日目は、成功のうちに終わりました。長崎さんはこの合宿に、危篤のお母さんの看病の合間をぬってかけつけていただき、合宿一日目終了後すぐに、病床にあるお母さんのもとに帰られました。翌日、小林誠大久保製壜支部委員長より以下の新方針の提起があり、討議ののち満場一致で確認されました。
以上
(1995年9月10日「大久保闘争が教えてくれたもの」東部労組パンフレット制作委員会)
***********************************************************************
(別紙)
争議の全面解決をめざす総力戦 大久保闘争の新方針
1995年6月
東京東部労働組合
同大久保製壜支部
1. 会社の最大の弱点=「犯罪者企業」高裁、最高裁判決がこれを証明している。
①覚醒剤犯罪企業
②不当労働行為企業
③障害者差別企業
これを全国的に暴露、宣伝し大久保資本を社会的に徹底的に孤立させ、職場での主導権を奪い、闘争の全面解決をめざす。
<会社への申し入れ>
20年におよぶ争議を終結させ、普通の労使関係を確立するために、つぎの問題について協議にはいりたい。
一、会社は障害者差別を温存する大幅査定を抜本的に改善する。
一、会社は覚醒剤・ぶ告事件にかんする責任を明確にし、長崎広氏に謝罪する。
一、会社は千葉辰雄氏の懲戒解雇を撤回し、また組合敵視の労務対策を改める。
一、労資双方は争題のわだかまりを処理し、今後労資間の諸問題を平和的に話し合いをつうじて解決できるような環境をつくる。
2.具体的戰術
①新パンフレット「おれたちはロボットじゃない」を武器に全国キャンペーン。(初刊 5000冊、定価 300円)
②全国各地で「報告集会」と「大久保闘争記録ビデオ上映会」での訴え。
③大久保闘争に連帯する声明文を頂きたい。
④1995年10月から「争議解決をめざす総力戦」に入る。
A 第一段階は地域・全国の労組団体・著名人→「争解決要求」の集中
B 第二段階はマスコミへの配布・東武信金・大正製薬をはじめとする取引先要請行動
C 第三段階は全国支援共結成、決起集会→争議解決の申し入れ団交
D 第四段階は職場内「争議解決要求」のストライキ決行
E 第五段階は労働省・厚生省・通産省・都庁への要請行動→行政圧力を引き出して決着をめざす
3.全国への要請
(1) 新パンフレット「おれたちはロボットじゃない=争議の全面解決をめざして=」の普及に御協力下さい。
(2) 7月から9月にかけて各地で「大久保闘争報告集会」 「大久保闘争記録ビデオ上映集会」等の主催、設定に御協力下さい。
集会は私達の希望としては、①ビデオの上映 (1時間) ②支部の訴え(3 0分)③討論(いろいろ助言をいただきたい)という内容で設定していただければ幸いです。
(3)全国の仲間、団体、著名人の方々に「大久保闘争に連帯する声明」をいただき、10月以降の「争議の全面解決をめざす総力戦」で対会社、取引先、 行政、マスコミ等で使わせていただきたい。