先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

『北島吉藏君』 相馬一郎 (読書メモー「亀戸事件の記録」)

2022年04月02日 07時00分00秒 | 1923年関東大震災・朝鮮人虐殺・亀戸事件など

『北島吉藏君』 相馬一郎  (読書メモー「亀戸事件の記録」)
参照「亀戸事件の記録」(亀戸事件建碑実行委員会発行)

北島吉藏君   相馬   一郎 

 銃剣一閃 !  かくして若き同志北島吉蔵君の二十歳の生涯は終った。闘争精神に漲(みなぎ)った、あの頼母しい広々した君の胸は無惨にもミリタリズムの毒牙に抉(えぐ)られたのだ。
 北島君の短い歴史は、君と最後を共にせる川合義虎君のそれに極めて似ている。明治三十七年秋田県小坂鉱山に、君は人生の第一歩を踏み出したプロレタリアートである。坑夫の倅の定めとして転転として漂浪の生活を余儀なくせしめられ転校六回、大正七年茨城県日立鉱山で小学校を卒った。
 蒼白い顔の地下奴隷の群は君の父であり、兄弟であり、友人であつたのだ。しかし獣化され切った坑夫生活より以外の世界を知らなかった少年の君には、その頃何の不満もなくひたすら馬鹿気た小学校教師の人生訓を忠実に、雲をつかむ様な成功の希望を抱いて居たに過ぎなかった。


 日立鉱山はブルジョア久原房之助の王国である。北島君は少年職工として、彼久原の柔順な養豚として親友川合君と同じ工場に通い始めたのは十五の春であった。赤くはげた畳々の山間の鉱山生活は実に単調そのものである、東京へ !   君の心は漠然と、明るみの都会へと急いで居った。
 大正八年の秋が来た。陰鬱な鉱山の空気が殺気を帯びてどよめき立った。坑夫達の唇は遂に永い忍従の沈黙を破って労働歌を怒鳴った。友愛会日立支部の提灯が闇を縫ふて走って久原の飼犬共を戦慄させた。狂奔する如くに労働者は続々と組合旗の下に雪崩込んだのだ。
 その当時機械に足を噛じられていた北島君は跛(びっこ)であったが、松葉杖に支へられつゝも演説会へ通う事を厭はなかった。むさ苦しい坑夫長屋の窓を演壇にして会長鈴木文治氏が悪鬼久原の非道を怒号して、労働者の結束を絶叫する時、地下奴隷は拳を挙げて示威的喊声を放ってやまなかった。石垣にシガミついて、この光景を黙々と眺めて居た北島君の若い心は何を決心したであらうか!
 屈従の美徳は消散して君の眸(ひとみ)は火の様な憎悪に光って呪はしく回転するベットにそそがれる様になった。工場の昼休み時、君の親友の川合君と屋根に仰向きに寝て、ひそひそ語り合って時間の過ぎるのも忘れるのであった。間もなく君の懐に「デモクラシーと社会主義」と云ふ赤表紙のパンフレットが潜んで居った。
 組合旗のはためく音に資本家久原は狼狽して不法な馘首の手が組織的に組合加入の労働者に迫って来た。鉱山の晩秋は、階級闘争に色彩(いろど)られて凄気が漲(みなぎ)った。サーベルと棍棒の共同戦線が張られて、弾圧的追山(ついさん)の手段が労働者の頭上に襲って来た。悲惨な幾つもの家族は途方に暮れて、追立てられて下山して行った。
 十六才の少年北島君には何等の為すところを知らなかった。しかしこの冷酷な事実は、君の胸深く潜入して来るべき日の反撥力となって行くのであった。かくして君の坑山生活は閉ぢられた。


 大正九年秋、 川合君の後を追って上京し、亀戸へ来て工場通いの傍ら、新知識の理解に耽った。しかしそれは極めて短期であった。平和な君の研究の静けさを破った事件が突発したのだ。それは君が力にして居た同志川合君の入獄である。
 これを転期として君の研究題目は一直線に社会主義へと向(むき)をかへたのだ。社会改造の温和気分は一掃されて、社会革命の情熱が君の全身を捕虜にした。友情に厚い君のことだ、寒い冬の夜など、獄窓の友を思ふて黙然として寝床に入らぬことも度々あった。君は実際運動のプランをたてつつ獄中の友の帰りを待った。
 大正十年四月、半年の獄屋生活を終へて、川合君が出て来たその時であった。君が暁民会その他の思想団体の連中と知る様になったのは。労働組合に加入こそして居なかったが、組合の演説会、示威運動には必ず君は、あの太い足を引きずりながら出かけたものだ。大正十一年一月、同志川合君が亀戸へ住む様になってからは君の闘争意識は鮮明の度を加へ勃々として何ものかに挑まねばやまぬ衝動に駆られて来た。暑苦しい六月が来た。しかし君の薄汚ない袷は依然として脱がれなかつ た。好きな煙草も不足勝ちな日がつづいた。
 ある日突然「オイ謄写版を買はうぢやないか」 ニタリ笑ひをしながら、こんな言葉が君の口から出た。そして僕と川合君と連れ立って上野の博覧会へ急いだ。北島君の血と油汗が、僕等の前に宣伝機関となって現れた。蚊の名産地亀戸の八月の夜は窒息しそうに息苦しいのだが、工場帰りの姿のまゝで君は幾日か夜を更(ふか)して一冊の檄文を刷り上げた。
 それは、その当時論議されつゝあった、無産階級独裁を通じてのみ労働者の真実の解放が来るといふ内容のものであったと記憶する。君の計画は漸時具体化されて来た。同宿の川合君と協力の下に組合創設の手段として個人的同志の糾合につとめた。
 大正十一年十一月、南葛労働会の創立委員として、不眠不休の活動に君はすべてを忘れて奔走し た。君の活躍舞台が開かれたのだ。


 北島君は理論家ではない。従って同志たちの火の様な激論の傍らに居っても、 常に沈黙を保って熱心に聴くのみであった。しかし君の落ちつき払った敏速な行動は同志等の等しく感服するものであった。
 思想的に徹底した君は、なほも不断の研究を怠らなかった。そして、暁民会等へたくさんの労働者を誘って行って、後から来る同志の思想的鍛錬を親切に導いて行った。
 大正十二年二月一日、赤ロシアの同志、ヨッフェ君が横浜に上陸した日である。官憲の目は異様に光つて、ヨッフェ君の身辺に近づく者の上にそゝがれた。「遠来の同志に日本青年コンミュニストのインターナショナルの精神を告げよう」 北島君は他の同志達にコソコソに、山岸実司君と共に、その前夜、思ひ出した様に横浜に急行した。途中幾多の難関を抜き切って一睡もせずに、寒い街頭で夜を明かした。スパイ共に取りかこまれながら自動車に乗らんとしたヨッフェ君を見出した時、君の心は何の躊躇をも許さなかったそうだ。群がる犬共をつき飛ばして君は油に汚れた手をのべて叫んだ。「タワリッシーヨッフェ」と青服の労働者の心からの挨拶に、ヨッフェ君は、ニッコリとその手を握り返した。
 北島君の用は済んだのだ。君は山岸君に目くばせして飄然と何こかへ消え去った。翌日の新聞に曰く「蒼白い二人の怪青年・・・犯人厳探中」と。北島君は行動の人である。


 君は組合中の年少者であったが、常に理事その他重要位置にあって、組合運動の主導勢力となって、同志達の信頼を博して居た。
 生来質朴剛直の君は、華やかな活動に気乗りしなかった。そして血気にはやる青年闘士の一笑に附したがる学生運動等への留意を怠らなかった。新人会系の有望な学生へ接近して、学生の智的独占に横棒を入れて青年労働者との融合をはかつて居った。
 又薄給を忍んでも大工場を出ることを拒んで、熱心に、気長に、その工場労働者組織化に異常の努力を払った。実に君は軽薄に堕し易い青年闘士の中に稀に見る着実、真摯な同志であった。
 青年運動の鯨波一度揚るや、逸早くも君は、組合の若き労働者に青年運動の神髄の説明者となり、運動の先達となった。又休日を利用してく秋田、信州等へも出かけて、農村青年と都市青年の共同作戦に奔走して倦まなかった。 
 反軍国主義宣伝運動は君の末期を飾る、熱烈な標語である。丁年末満の君は積極的に入営を同年労働者に説きつけ、軍隊内部よりの赤化を整然と目論んで発展の期を待っておった。
 九月三日、血に渇した銃剣は君の心臓を啜(すす)って君は斃(たお)れた!  僕等は街頭に光る銃剣に無念の情に口をしばる君の最後の面相を見る。北島君は未来を嘱目(しょくもく)された最も頼母しい青年コンミュニストであった。
 あまりに果(は)かない君の二十歳の生涯は生き残った僕等に限りない哀惜の慟哭を与へる。君を追想する時君の口癖にして居た、 啄木の歌「墓碑銘」こそ君の死屍に呼びかけるにふさわしい言葉であると思ふ。歴史の必然に棹(さお)さして君は真一文字に共産主義実現へ献身的努力を尽した。
 コンミュニストのみが知る「強き誇り」こそ君の最後を告ぐる微笑であったらう。 呪はしい銃剣の穂先に、僕等は君の面相を見る !

(「潮流」第三号(大正十三年六月)所載、「社会運動犠牲者列伝 (三)」)

********************************************************************************

石川啄木『呼子と口笛』より
墓碑銘 1911・6・16・TOKYO

われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶なほ尊敬す――
かの郊外の墓地の栗くりの木の下に
かれを葬りて、すでにふた月を経へたれど。

実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは、
‘同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能あたはず、
されど、我には何時にても起たつことを得る準備あり。’

‘かれの眼は常に論者の怯懦けふだを叱責しっせきす。’
同志の一人はかくかれを評しき。
然しかり、われもまた度度たびたびしかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者――一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き、
暇あれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。

かれの真摯しんしにして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて病の床に横よこたはりつつ、
なほよく死にいたるまで譫語うはごとを口にせざりき。

‘今日は五月一日なり、われらの日なり。’
これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。
その日の朝、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕ゆふべ、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広き額と、鉄槌てっつゐのごとき腕かひなと、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として、
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰えらびたる墓碑銘は左の如し、
‘われには何時にても起つことを得る準備あり。’



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。