先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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全国を震撼させた小樽港湾ゼネスト(その3) 全市民的大衆闘争 1927年の労働争議(読書メモ) 

2023年09月11日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動





全国を震撼させた小樽港湾ゼネスト(その3) 全市民的大衆闘争 1927年の労働争議(読書メモ) 
参照 「日本労働年鑑第9集/1928年版」大原社研編
   「北海道社会運動史」渡辺惣藏
   「協調会史料」

1、全市民的大衆闘争としての小樽港湾ゼネスト
 小樽港湾ゼネストの大きな特徴は、この争議が小樽港湾の艀(はしけ)労働者などの争議団と小樽市民による市当局との闘いが結びついて闘われたことだ。労働農民党は、終始小樽市民の要求と争議団の要求を掲げ、争議団の市民からの孤立化を防ぎながら闘いを進めた。評議会と労農党は、計画的に工場代表者会議と市民大会をひらいて広く全市民にアピールを続けた。

2、家族と市民は対市当局との闘いで争議を支援した
 家族大会では、港湾ゼネスト支援だけを求めるのではなく、家族自身が市民としての要求を掲げて、市当局に突きつけた。
市当局への要求としては、
 一、小学校の授業料撤廃
 一、市営無料診療所の設置
 一、電灯料金の値下げと即時消灯の禁止
 一、差し押さえ反対
 一、市営助産院の設立
等、これら市民にとって切実な日常生活の身近な要求が取り上げられた。労農党はこの統一要求のもと、市民大会の開催等と結びつけ、同時に市民に小樽港湾ゼネストへの理解と支持を求めつつ、市民独自の闘いへと発展させた。こうして小樽港湾ゼネストは、港湾労働者の経済闘争だけに限定されるのではなく、家族・市民自身の対市闘争も含める画期的な闘いとなった。市民・家族の対市当局との闘いは、小樽港湾ゼネストへの最大の支援となった。

3、千名のデモ
 24日夜、小樽合同労組と労働農民党小樽支部は市民大会をひらき、つづいて26日夜には恵比寿座でゼネスト応援演説会を開催し、全市の工場労働者に小樽港ゼネストへの支援と共同闘争のアピールをした。28日には「現場改善デー」をもって全市で示威行動のデモを計画したが、警察はたちまち禁止命令を出してきた。しかし、このデモは警察の弾圧をはね返し断固として決行された。同日午前8時に約千名の労働者は手宮公園に集合してアジ演説で気勢を挙げ、集会が警察から解散を命じられるやいなや、街頭デモに撃って出て、デモは果敢に手宮沿岸を出て竜宮神社坂をかけのぼり、中央通りに進行するや警官隊が襲い掛かってきた。ついに稲穂町第一通りの山田自転車店付近で多数の警官隊に包囲され、大混乱のすえデモは解散させられた。

4、婦人行商隊
 27日、争議団の家族会で婦人行商隊が結成され、行商隊は直ちに小樽市内・全道に散った。全道の農民・労働者・市民は熱烈にこの婦人行商隊を歓迎し向かい入れた。商品は飛ぶように売れた。全農北連や函館合同労組などから米俵をはじめ続々救援の物資、カンパが贈りこまれ、争議団の意気はいよいよ高まった。

5、小学校児童の同盟休校闘争
 争議団の小学生児童の同盟休校闘争も行われた。評議会は児童のために特別塾を開設し、小学校教師の経験を持つ日農北連委員長荒岡庄太郎が旭川から出向いて、これの指導を行った。

6、小樽市内連日のデモ
 市内では連日デモが繰り返された。7月1日3名の組合幹部が検束された時は、すぐにその夜300余名が小樽公園に集合しデモを敢行し不当検束に抗議し反撃した。争議団は小樽公園、手宮公園、若竹公園・・と次々と突然集合してはゲリラデモを行うため、警官は徹夜の警戒体制に引きづり込まれた。

7、工場代表者会議
 7月2日夜には小樽木材積取人夫代表者会議が第22番屋でひらかれた。翌3日夜は第二回代表者会議が開催された。同夜第二回稲穂町住民大会も開かれた。

5、闘争本部
 小樽合同労組は闘争本部を設置したが、闘争の激化にともなって官憲との検束・弾圧からの防衛のため、移動本部をもうけ、その数は19ヵ所に及んだ。これも小樽全市民の応援があったからこその成功であった。

(続く)
全国を震撼させた小樽港湾ゼネスト(その4) 戦線の拡大全道へ 1927年の労働争議(読書メモ) 



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