写真・広告読売新聞 森光子「光明に芽ぐむ日」1926.12.25
1926年の女性労働者(読書メモ)
参照「日本労働年鑑第8章1927年版」大原社研編
「吉原花魁日記―光明に芽ぐむ日」朝日文庫
1、女性労働者の状態
日本労働年鑑第8集は、第一部第五編第二章で1926年当時の女性労働者について、〈女性労働者は毎年増加していくが、生活状態は逆に悪くなっている。女性労働者の約8割が紡績・染色工場で働き、寄宿舎に収容され、ほとんど自由を束縛されている。しかも過労のため甚だしく健康を害されていることは各地で行われた保険調査の結果によって明らかであり、また帰郷女性労働者の死亡調査を見る時は、いかに女性労働者が雇用主のために虐使されているか驚かざるを得ない。〉等怒りを込めて書いている。
社会局調査によると1926年(大正15年)当時の女性労働者は1,562,483人で前年よりも64,522人増加した。紡績工場で働く労働者の8割は女性労働者だった。しかも16歳未満のいわゆる幼年労働者数は、26万4,317人(1924年末時点)で、全体の14.77%だった。
長時間労働は主に紡績・染色工場であり、製糸工場に至っては13・14時間から15・16時間に及ぶものもある。撚糸業も同様である。紡績業の大部分は1920年(大正9年)以降10時間制が普通で、その上残業を企業主が好き放題に命令している。その多くは昼夜2交替制を採用している。
深夜(夜業)労働
1924年には595工場
1924年には673工場 311,136人(うち女性224,801人)
健康状態(長野県製糸工場91数の女性労働者調査)
工場内平均温度摂氏31度
背柱異常は女工の7.4%に
色盲は0.98%
トラホームなどの目の疾患も多い
三重県帰郷女性労働者調査(1923年~1924年)
女性労働者帰郷者数595人中、疾病による帰郷は94人で、その全てが紡績・製糸女性労働者である。呼吸器疾患36%、死亡者は総数11人であった。富山県下新川郡の帰郷女性労働者には毎年100人以上の疾病者があり、その約8割が呼吸器疾患で死亡するという。
2、女性労働者の争議
1926年中に発生した女性労働者中心の労働争議は約60件で、解雇問題12件、賃金問題8件であった。この年増えたのは、「芸娼妓」の待遇改善を求める17件がある。
3、浅草吉原から脱走した森光子の闘い
1926年(大正15年)1月吉原の春駒こと森光子は浅草吉原の遊廓から逃走し、高名な歌人であった柳原(宮崎)白蓮のもとに身を寄せた。のちに労働運動家の岩内善作の協力で自由廃業を遂げ、自らの経験を『光明に芽ぐむ日―初見世から脱出まで―』として発表する。1926年12月25日の読売新聞に大きく広告が掲載された。安倍磯雄の書評も付き、きわめて目立つ広告であった。1927年10月には『春駒日記』が発行された。
森光子は、群馬県高崎市赤坂町銅工職の長女として生まれ、 高等小学校まで進学するが、1923年(大正12年)に父が亡くなると、一家は困窮した。病弱な母と行状の悪い兄 、まだ幼い妹がおり、光子は6年の年季、1500円の前借金で1924年(大正13年)の春から吉原の遊廓に入れられた。玉代の分配は75%が楼主、25%が「娼妓」でその内の60%(全体の15%)が借金返済となり、手元に残るのは僅かに10%という苛酷さであった。1926年(大正15年)1月、21歳の光子は、絶望的な状況で逃走を決意し、歌人白蓮に手紙を書いた。4月23日の母の死が直接のきっかけとなって、4月26日朝9時に医者に行くといって長金花楼から抜け出した。森の突然の来訪に白蓮は困惑するが、たまたまその場に居合わせた労働運動家の岩内善作の支援によって、森はついに自由廃業を遂げた。
森光子が吉原から逃走した1926年(大正15年)は、公娼制度下の遊廓で働いていた「娼妓」たちにとって、特別な「闘争」の1年であった。1925年(大正14年)に日本政府は諸外国からの批判におされる形で、「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(21歳未満の女性の売春目的での勧誘・誘拐への処罰規定を含む条約)を留保条件つきで批准した。同時期には、女性運動者、キリスト者や労働運動家を中心に廃娼運動が高揚し、全国各地で廃娼期成同盟が設立され、各県議会に向けた廃娼建議提出運動がさかんに行われた。1926年(大正15年)5月には、全国警察部長会議と地方長官会議において、 「娼妓の待遇改善」という新方針が示された。
森の吉原遊廓からの逃走は、 『東京朝日新聞』(1926年4月27日)が「白蓮女史を頼って吉原を逃れ出た女/どうか私を助けて下さいと涙の身の上を打ち明けて懇願/長金花楼の『春駒』 」という見出しの写真入りの大きな記事で報じた。この記事の直後の6月、警察が全国一斉に遊廓の実態調査をはじめると、警察署に不正の告発をしたり、ストライキという手段で状況改善を訴えたりする「娼妓」たちが続出した。
4、夜業禁止請願運動
労働総同盟と評議会などの労働界は、「婦人および幼年労働者の深夜業禁止請願運動」に取り組み、全国的な署名運動、議会請願運動を行った。約5万人の署名が集まり、衆議院請願委員会に提出した。
5、運動
2月、全国聯合女子教育大会開催
「我が国の高等教育は男子のみに限られ女子にはほとんど門戸を閉され、極めて不合理不均等の甚だしきもので我々女子の権利を無視するものである」
2月11日、「職業婦人聯盟第一回大会」が大阪市において開催された。
2月、「関西女給総同盟組織運動」が広島市において開始された。
3月、「神戸女給革新会」が神戸三宮警察の女給取締りに抗議して「我らは団結の力によってかかる不自然な政策に反対する」と決議文を提出した。
3月21日、東京合同労働組合大会で女性労働者に大きく関係する「夜業禁止運動」「寄宿舎制度撤廃運動」「臨時雇用制度撤廃」等の決議を討議・採択した。
5月8日、「第二回大阪府下女教員聯合大会」開催
6月5日、「全国小学校女教員大会」開催。出席女性教員640名。
8月、「病院看護婦同盟組織運動」が全東京の病院看護婦に向けて労働条件改善のため開始された。
11月、日本労働総同盟婦人部は、東京市に対して「婦人幼年労働の夜業禁止」請願を提出した。
6、婦人参政権運動
婦人参政権獲得同盟、婦人参政同盟、日本婦人参政権協会が主な団体であるが、この年中心的に活躍したのは、婦人参政権獲得同盟であった。
7、田島ひで子「婦人労働調査所」設立
目的を「封建的伝統、因習による特殊な形態の下に極めて劣悪な労働状態にある婦人労働者の実情を調査し、自覚を促進し、もって我が国の労働運動の合理的発展を期す」とする。