上・1926年5月小樽メーデーに参加した女性たち
1926年の北海道労働運動その二 函館水電争議(読書メモ)
参照 「北海道社会運動史」渡辺惣藏
函館合同労働組合結成
1925年(大正14年)1月函館合同労働組合が結成され、同時に日本労働組合評議会に加盟した。函館の活動家が上京し、評議会の東京合同労働組合の渡辺政之輔らと一年にわたる交流の結果だった。4月に函館水電の争議が勃発した。北海道における交通産業の労働争議としては最初の闘争であった。8月には小樽総労働組合が結成され、9月に評議会に加盟した。同じ9月に函館でドックの船大工を中心に造船労働組合が結成された。
函館水電争議
1925年4月の函館水電の電車軌道争議が勃発するや、直ちに東京の日本交通労働総連盟に連絡が行き、東京市電自治会の島上善五郎が応援指導にかけつけた。当時において北海道は交通産業はもとより、公共的企業における労働争議は皆無の時代であったので市当局と会社は極度に狼狽し、労働者側の要求をほとんど丸のみし、争議決行3日間で労働者側に有利に解決した。5月に函館水電交誼会が結成大会が行われたが、会社による「解決協定不履行問題」が起きた。会社は、争議解決で約束した賃上、労働時間短縮、増員、共済施設の確立などを守ろうとしないのだ。函館水電交誼会は再び戦闘態勢の確立のため、職場で組織を拡大し組合員は183名となり、7月27日日本交通労働総連盟に加盟した。ストライキの声すら叫ばれたが、8月ようやく解決した。
(600余名へ組織拡大)
約4か月間の争議で暴露された会社の不誠実な態度に全労働者は怒り、また函館合同労組の応援と友情と評議会本部から相次いで駆け付ける山本県蔵、三田村四郎、南喜一らのアジテーションに軌道、車両、内線、外線、変電所等にまで組織は拡大し、その数は600余名に至った。
(1926年5月スト突入と峻烈な切り崩し弾圧)
ついに函館水電労働者は、1926年5月1日メーデーを期して立ち上がった。5月11日の招魂祭りのサイレンを合図に一斉にストライキに突入した。ストは電車、内線、外線、軌道、車両、変電所に及んだが、弾圧と切り崩しは峻烈を極め、変電所の労働者はその日の内に崩れてスト不参加を表明し、次いで13日には内線、外線、軌道、車両が切り崩されてしまった。
(官憲の総検挙弾圧)
5月15日、突如として争議団及び幹部、応援団体の労働農民党幹部、函館合同労働組合幹部に対して総検挙が行われ、またスキャッブ(ストライキ破り)が組織的に動員され、電車は部分的に運行された。
官憲は幹部を続々と片っ端から検挙弾圧してきた。
(争議の敗北)
嵐のような官憲と会社の弾圧により函館水電争議は、5月20日無条件で惨敗した。交誼会幹部26名がクビにされた。
(解雇された函館水電交誼会副会長を市会議員に当選させる)
1926年9月に施行された普選法による第一回の地方選挙の函館市議会選挙に函館水電交誼会は、クビにされた交誼会幹部の交誼会副会長青野三郎を労働農民党から立候補させ、全力で応援し、見事に当選させた。
(全国を震撼させた小樽港湾ゼネスト)
翌年1927年(昭和2年)6月、全国を震撼させた小樽港湾ゼネストが勃発した。