戸根明彦ブログ

ZIDEN.Produce.(自伝・自分史の制作)の運営をしています。HP:www.ziden-produce.jp

第5章 基盤(4)

2012-12-24 22:26:47 | 日記
それでも私がその時考えていたのは、
ここにいる全員が最後まで続けるかも分からないし、
どこかで一度でもチャンスがあるかも知れないのだから、
とにかく最後までやり続けていこうと考えていたかと思う。

それと実兄も同校でやはりサッカー部にいて、
補欠ではあったが試合に出てゴールを決めたということも
サッカー部の監督からも聞いていて、
なおさら情けないと思われぬよう頑張ろうと思ったものだった。

入部後の私はとにかく未経験でセンスも何も無かった私が
人に勝つには一生懸命やるしかないし、
全てに全力で取り組む中で自分を活かせるものを探そうと努めていた。

そんな毎日の練習で欠かすことの無かった
中距離のランニングと筋力の強化において、
単純ではあったが必要不可欠なこの中距離のスピードと
スタミナを他の同級生には負けない力をつけようと
決めて取り組んでいたのを覚えている。

実際のところ経験のある同級生は中学時代にこの部分は鍛えてきていて、
ある程度のスタミナがある上で技術の向上を目指していた感があった。
また高校生になって付き合う友人や遊びも変わってきていて、
体力面では逆に落ちていく者もで始めていった。

そんな中で私は日々黙々と向上を目指すだけだったので、
体力も体格も成長し、技術は人に劣っていても
スタミナでカバーできるようになっていき、

3年生が引退し2年生、1年生のチームになった頃には、
練習試合等では試合に出してもらえるようになっていった。

2年生になってからは更に同級生の数も半数以下となり、
出場機会も増えていった。

そして1つ上の先輩が引退となるととうとうレギュラーポジションを得られ、
経験のある下級生が入ってきてもそのポジション
(センターバック)を譲ることはなかった。

3年生になりインターハイの地区予選が終わるまで
全試合フル出場を果たし、最後までチーム一の
スタミナは維持し続けてこれたと思っている。

チームは決して強豪では無かったが、
その当時インターハイや総体の常連だった
県代表の南宇和高校と最後の大会の予選で当たった時は、
前半を0対0で折り返し、相手を慌てさせた事もあった。

最終的には控えにまわっていたレギュラー陣が
次々に投入され完敗だったのだが、
一瞬でもそれまで積み上げてきた地道な努力が報われた気がした。

ゼロからはじまった私の挑戦は確実に私に自信と成長をもたらしてくれた。
今の状況において、この時の下向きな思いと努力が
今まさに必要な時なんだと思える。

・・・つづく

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第5章 基盤(3)

2012-12-23 23:53:24 | 日記
そんな状況で高校入学当初の学校生活は決して楽しいものでもないし、
厳しい環境の中でヘトヘトだったのだが、ここを乗り越え、
耐えたことによって精神的、体力的な強さを身につけて行けたのだと思う。

2年生から3年生になる頃にはそんな成長した私とは逆に
体力的に落ちていく同級生が多くなり、
体力、知力ともに自然と目立つ存在になっていき、
何となく一目置かれていく自分があるのを感じていた。

クラスの中ではいつのまにか前に立っている感覚であったが、
あくまでも自然体でいようとしていたのと、
比較的孤独力も身につけていたので、リーダー的存在にはならなかった。

私は昔から一定のグループにどっぷり浸かるタイプでないので、
学校や部活動の仲間のみならず、色んなところに顔を出し、
時間のある時はサッカー以外で楽しみとしていた
麻雀で他校の生徒とも友好を持っていた。

あまり大きな声では言えないが多少の賭けあいもあって、
アルバイトなどする暇のなかった私は
少ない小遣いを取られないように、
そんな遊びの中でもそこそこ頑張らなければならず、
負けているうちは決して辞めない粘りを持っていた。

他の友人たちよりは多少体力に自信はあったので徹夜もしばしばだったが、
皆が疲れて集中力を欠き始めてからが私の本領発揮といったところだった。

ここで少しサッカー部に入部した理由についてお話したい。
以前にも述べたが、中学時代の私は柔道部に入っていたのだが、
体も小さく力も無かったので試合にはほぼ出られず、

やはりレギュラーとして試合をしたいとの思いから
出来るだけそのチャンスの多い人数が試合に出られる競技で、
かつ興味のあったサッカー部への入部を決めたのだったが、

他の中学で経験を積んできている同級生が多数入部する人気の部活であった中で、
未経験の私が試合に出られるチャンスはその時点では
かなり低い確率だったと言わざるを得ない。

同級生の入部は20人から30人ほどだったと思うが、
先輩も含めて50人近くの部員の中で
未経験者は1~2割な訳だからチャンスは少ない。
しかも入学当初は体も小さく、体力も無いのだから無理もない。

・・・つづく

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第5章 基盤(2)

2012-12-22 21:33:04 | 日記
そんな中、私はというと、大人しくて真面目な学生として
穏やかな田舎から来た小柄な男の子ということだから、
いきなり緊張状態となる訳だ。

同じ町の中学からは同校に3人入学し、
私は機械科のクラス、もう一人も機械科だったが別のクラス、
そしてもう一人は電子科に入っていた。

要するに3人とも皆クラスメートは初めましての状態だったのだが、
私の他の2人は入学後早々とやんちゃ組(いわゆる不良)に属し、
そのうち1人は2年生になる前に退学することになtった。

彼とはその後一度も会っていないし、声さえ聞いていない。
一時期チンピラのような事をやっていたと
風の噂に耳にしたことがあった。

そんな環境の中で私が自分を失わずにいられたのは、
誰よりも厳しい環境に自らを置いていたという自負心と
自分で作っていった体力、知力の成長、
それと周囲にいた先輩の強さも影響があった。

まず入学時隣の町から同校に通っていた先輩たちと
朝の通学は共にあったのだが、
周りからはちょっと恐れられていたその先輩たちに
守られるような感覚であったのと、
高校入学と同時に入部したサッカー部の先輩もその中にいた為に、
何かと面倒を見てもらっていたのだった。

そうは言っても、クラスの中ではそう上手くはいかなかった。
クラスの中の3/4がいわゆるツッパリか無気力な生徒なものだから、
教室での授業などはまともに聞いておらず、
多少まともなのは工業実習や体育の授業位で、
殆どの先生が手を焼いていた感じだった。

クラスの中にはその後の進路を考えて
頑張ろうとしている生徒もいたが、
そんな環境では勉強など進む訳が無かったと思う。
恐らくは家に帰ってから勉強していたことかと思われる。

私自身も頑張って学ぼうという姿勢でもなく、
周りがそんな環境なので普段は寝ているか、部活動に一生懸命であり、
期末や中間のテストの一週間前だけ部活動も短縮されていたので
その時に、集中的に試験範囲の予想問題を
短時間で暗記するだけでも結構良い点数を取れていた。

そんな短期集中さえもしない生徒が多かった為、
クラスでは常に成績は上位に食い込んでいた。

また体力的にも入学時は小さかった体も
やっと成長し始めてきて、同時にサッカー部に入部したお陰で、
スタミナや筋力も日々成長し
どんどん体力も同級生に追いつき、追い越して行った。

2年生になる頃にはクラスの中でも
私を押さえ込もうとする者はいなくなっていった。

もともと私自身は争いは避けるタイプなので、
強く衝突する場面はなかったが、
それども入学当初は友人もなく、
下手をするといじめにあいそうなシーンも体験した。

現実として結構ひどい目に遭っていた同級生は何人かいたが、
助けに入る者もなく私自身もそんな人を助けるどころで無かった。
正直周りに人はいても孤独を感じる初めての体験だった。

・・・つづく

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第5章 基盤(1)

2012-12-21 20:01:47 | 日記
さて続いて人生を左右する高校時代に入る訳だが、
高校での頑張りがその後十数年を支えてくれていたことを
今更に思うと同時に、

もう少し先を見る目が私にあったり、
その頃の環境や人からのアドバイスがあったりすれば、
また違った人生になっていたんだろうとも思えるほど、
大事な時期だったんだと考えさせられる想いだ。

先にも述べたように高校はかなり思い切った選択をしたのだが、
本人としてはそんなに悩んだ訳ではなく、
自然な選択肢だったとも言える位のものだった。

学業も好きでも得意でも無かったし、
高校卒業後の就職も考えていたので、
余程の事がなければこの選択以外は無かったのかと思われる。

ただ考えていた以上に厳しい高校生活だったお陰で
私はこの時期で大きく成長できたと認識している。

まずはそのタイムスケジュールが凄い。
朝5時半起床、片道1時間半の通学、
帰りは部活動もしていたので家に着くのは
22時を過ぎている事もしばしばで、2時間を超えるありさま。

春~初秋の季節以外は朝も真っ暗で、
最寄り駅まで自転車のライトを点灯し、
懐中電灯も鞄には入っていた。

冬には積雪もある山間の家まで四苦八苦しながら通っていた。
こんな環境の中で自分で選んだ事でもあり弱音は吐かなかったが、
どうしてもたまには遅刻もあった。
ただ頑健な体と精神のお陰で病欠はまず無かった。

この高校は風光明媚なみかん山とリアス式海岸の広がる
愛媛県吉田町(現在は宇和島市と合併)にあり、
吉田高校という校名だ。

なに一つ名を馳せたものも無いので、
地元民以外は聞いたこともない学校だろう。

私が入学する数年前には校則により
男子生徒は全員坊主頭というルールを作ろうとした学校に対し、
それに反発した当時の生徒達は校庭にバリケードをつくって、
学校に抗議し、ニュースにまでなった事があったらしい。

私が入学した頃もまだ上級生も同級生も
血気盛んなのが多かったので、
たまに他校とのいざこざやどこかの広場で
争ったような話は珍しくもなかった。

そんな事もしばしばあって、
退学や謹慎はしょっちゅう目にしていたので、
無事卒業する人の数が減るのも頷ける。

・・・つづく

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第4章 自我(6)

2012-12-20 20:15:53 | 日記
体育の授業は基本的な競技の反復、
陸上や水泳はどちらかというと得意ではなく、
かと言って球技においても部活動を普段からやっている人には
得意種目では差をつけられ、
何をやっても上手くない科目だったので、
評価もあまりよくなかった。

勉強についてもこれといって得意科目があった訳でもなく、
逆に理数系の科目はこの頃から苦手意識があったかと思う。

答えが決まっている暗記型の勉強は
得意ではなかtったんだと思われる。

かと言って文系の科目も高校受験や学力テストは
ほぼ暗記型の問題なので成績としては
決して良いとは言えなかった。

そんな中で唯一評価されていたのが美術や技術といった
センスや表現力がものをいう科目だったと思われる。

自分自身でも他の科目よりは集中していた時間だったと思われる。

小学校時代にも美術については先生から
進む道としての勧めを受けたこともあったが、
ちょっと絵がうまいくらいで
食べていける仕事だとは思えなかった。

恋については女の子と話すこと自体なかったし、
そんな場面があったとしても
何をどう話していいかわからなかったので
基本的には消極的だったし、
周りでも誰かが付き合っている等と聞いたこともまずなかった。

それでも興味がなかったわけではないので、
先にも話したゲームの罰ゲームとして、
好みの女の子を仲間内で告知し合っていたことから、
意識していた女の子がいたのは確かだ。

そんな遊びをよくやっていたので、
いつしか噂話のように誰は誰が好きだ等と拡まることがあり、
私も相手の女の子まで噂が届き気まずくなった事もあった。

どうせなら自分の口から告白したかった位だが、
そんな勇気もないしこの娘の事もよく知っている訳でもないのだから、
残念な結果は予測できた。
もしうまくいってもどう付き合えばいいかも分からない。

その後20年ほどたってその娘(その人と言っていい位大人だったが。)
に会う機会があったが、やはり私の眼は確かだったと思った。

遊びは割と交友の幅も宏かったので多くの友人たちと付き合い、
色んなところで色んな遊びをしていた。

私が嫌っていた人は何人かいたのだが、
多分そんな人を含めても
私は誰かに嫌われていた感覚はない。

そんな中学時代は多少の困難はあったものの
平穏無事に過ごした3年間だった。

・・・つづく

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