戸根明彦ブログ

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第4章 自我(5)

2012-12-19 22:33:25 | 日記
また南予(愛媛県を3分して、松山中心に中予、
今治中心に東予、宇和島中心に南予と言われている。)
では少ない工業系の学校ではあったが、

その地域の進学希望者も勉強できる普通科を配した学校であり、
工業系の高校では珍しく女子も相当数いる学校だった。

1クラス40名前後で普通科が3クラスと
工業系は機械科が2クラスと、
電気科、電子科、建築科の8クラスで3クラスなので、

生徒数は1000名近くの筈なのだが、
とにかくこの地域では一番のやんちゃな生徒の集まりだったので、
特に工業系のクラスは1/10程度が卒業できない様な状態で、
2年生、3年生の教室は空間的な余裕があった。

話が少し先に進んでしまったが、
中学時代に話を戻すこととする。

私は中学3年間部活動として柔道をしていたのだが、
中学入学時に新しく新設された部活であり
先輩のいない部活だったので、
入部時は1年生のみだから、皆と仲良くやれると思っていたのと、
体も鍛えられてかつ、色んな場面で身を守ることが
出来るようになって、周りからも馬鹿にされないだろう
と思って、入部を決めたのだが、

先にも話した通り、体の成長が遅かった為に、
どんどん同級生や後輩にも力量を超されてしまい、
結局誰でも参加できるような試合以外は
大会での出場機会もなく、

部員数も多くなり、ただただ選手の投げられ役にまわる日々となっていき、
とても楽しいものではなかった訳だが、
後々これが役に立ってその後の人生の展開に
のもをいうようになるとは
その頃は夢にも思っていなかった。

・・・つづく

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第4章 自我(4)

2012-12-16 18:10:49 | 日記
その頃の私は肉体的にも精神的にも決して自信もなく、
消極的対策としてその後は目立たぬように
過ごす事が多くなってしまった。

ただ言えるのは、自分自身の中に
何が悪で何が善であるかの判断があり、
悪には加担できない自分を認識し、
その意に反した時は自分で無くなるのだと思えた出来事だった。

そんな不安定な時間も長くは続かず、
あっという間に中学生活も3年生に入ると
既にその後の進学に向けて皆んな準備に入っていった。

一部に就職を希望する者もいたが、
殆どが高校進学を希望し、
学力にかなった高校を希望したり
その上を目指し猛勉強を始める者もあった。

その時はその後の人生に大きな影響を及ぼすこと等
たいして思ってもいない者が多く、
先輩や周りの先生や大人もより上のレベルを
目指せという人もまずいなかったので、
とにかく合格できるレベルの高校への
進学が着地点と考えている者が殆どだった。

かくいう私も高校進学については合格できるレベルで、
しかも受験勉強などしなくても大丈夫くらいの
学校への進学を希望していた。

ただ多くの同級生と違っていたのは、
高校卒業後のことも既に決めていて、
高校卒業後は経済的理由もあり、
就職するという意思もあったので、
できる限り就職に有利な学校で、
就職先の実績も安定している学校であった
地域では唯一の工業高校である高校への進学を決めていた。

その高校は実家からは汽車とバスを乗り継いで、
1時間半かかり便数も少ないため、
朝は5時半に起きて6時半には汽車に乗車して
8時までにバスに乗り継いで
8時半にやっと学校の門をくぐるといった
今まで経験した事もない過密な朝だったのだが、

兄や先輩たちもそうしていたし、
無事卒業もしていたので、
やれる筈だと思い込んでいた。

・・・つづく

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第4章 自我(3)

2012-12-15 23:47:48 | 日記
中学入学後1年を過ぎる頃には同級生たちは
成長期を順調に過ごし肉体的な成長を遂げていったが、
なぜか私はなかなか体の成長が進まず、
とうとうクラスでの中では一番小さい位の
ところまでいってしまい、
段々とその差を感じずにはいられなくなっていった。

精神的にも多感な時期でもあるので、
少し不安定な心の状態を生まれて初めて
感じる時期を経験する事となる。

田舎の純朴な中学校という事もあり、
それ程摺れた子供も少なかったが、
やはりこの年頃の子供とも大人ともいえない
年代の学生としては、
それぞれが精神的、肉体的な不安定感はあったと思われ、

中学2年生位になると大人や先生に反発して
背伸びして大人になろうとするグループや、
まだまだ子供であろうとする精神的に弱いグループ、
その狭間で行ったり来たりするグループが
混在し安定感を失いつつあった。

その頃の私は、それまでと同様に交友関係を
拡げたり、深めたりも出来なくなり、
一部のグループの中でしか
活動できなくなってきていた。

それでも何とか自分自身を見失わずに済んでいた
一つの出来事があった。
それは自らの誇り(自らである為の尊厳)を
再認識できた出来事でもあった。

その頃同級生の中であるゲームが暇があると行われていて、
じゃんけんや、ちょっとしたゲームで負けると、
意中の女の子を告知するか、ズボンを脱がされる
という罰ゲームが流行っていて、

ある時クラスメートである女の子が
男子生徒からいじめられている現場に遭遇したのだが、
その女の子が私の寮の同部屋の同級生が
ゲームで負けた時に告知していた
好きな女の子だったこともあり、
何とも思わず間に入りいじめを静史したのだったが、
(私としてはその女の子に気があったりしたわけでなく、
気軽な気持ちだったのだが)、

いじめていた方としては面白くなかったようで、
あくる日そのグループのリーダー的な人間から、
警告的な攻撃を受けることとなった。

・・・つづく

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第4章 自我(2)

2012-12-14 20:00:05 | 日記
さて無事小学校を卒業して中学に入り、
寮生活もスタートを切ったものの、
それでもやはり環境はガラッと変わった訳で、

体の小さかった私は2年生、3年生はもう大人に見える程の
体格の違いがあり、同級生にしても
町内の3つの小学校から集まり、
小学校の時は1年生から6年生まで変わることの無かった
クラスメートが3つのクラスに分かれ、
初めましての同級生が1/3いる訳だから、

なんというか不安と期待は最高潮だったし、
知っているはずの小学校時代の先輩たちは
もう小学校時代の子供らしさは消えていて大人に近い感覚で、
誰にも頼れず誰からも頼られずの心細い感覚だったかと思われる。

それでも周りの誰しもがそうだったし、
私と不便なところに生まれた境遇の仲間は
寮にいた分その共通項もあって、
割と親近感をもって距離は縮めていけたのかと思われる。

その分不安や心細さは早い段階で少しは
解消されていたような気がする。

さて、中学生活をスタートして間もなくは、
新しい環境と本来の学業によって日々刺激に満ちていて、
成長を感じる毎日だったと思う。

私は小学校高学年頃からオープンな社交性、
交友関係を拡げることに自信を持っていたので、
中学校入学当初から学校でも寮生活でも
積極的に新しい友人づくりや交友、交流範囲を
拡げていき色んな場所で友好を深めていった。

普段の学校生活も充実していたし、
休みの日は新しい友人たちと更に交流を深める
動きをしていたのでいつも誰かと居るのだが、
決して中心的な存在という訳ではなかった。

・・・つづく

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第4章 自我(1)

2012-12-14 00:35:20 | 日記
3年間を通うこととなる中学校は、
実家からは10Km以上もあり、
毎日通学するには困難なため、

町内で一つのこの中学校に通うことに難のある
各地域の子供は町から学生寮を用意されており、
私もこの寮に入る事となった。

私の姉や兄も地域の先輩たちもみなこの寮に
お世話になりながら、中学校を卒業していた。

学校での勉学や部活動等の学校生活もさることながら、
この寮での生活は欠け替えのない深く濃い思い出と言えよう。

若干13歳前後の歳で親元を離れ、自由と規律を学ぶ事ができた訳だ。

この寮生活を経験したお陰が大きいと思うのが、
その後の同年代の人との精神性の違いだった。

やはり親に甘えたり、頼ったりの機会がだんぜん少なかったお陰で、
己で考えたり、判断したりしなければならなかったし、
また先輩や後輩は兄弟のように接する場所でもある為に、
歳の近い兄弟の無かった私でも、
否応なく人間関係を学んでいけた。

誰しも似たような感覚を味わうと思うが、
この中学校時代というのは体も心も多感であり、
心身ともに大事な時期であったのかと思われる。

その後の人間形成にとって、重要な時期であるにも拘らず、
そんな緊張感を感じずに済んでしまう程の田舎町ではあったのだが、
多少道を逸れたり、反発したりもあったが、
中学卒業後に経験する社会は、想像したものとは随分違っていて、
如何に人間が純粋で真面目に育つに相応しい場所に
居たのかと後々あらためて感じずにはいられない。

・・・つづく

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