西日本新聞より
2006年3月25日
「なんか違うよなあ」。今年1月、東京・有楽町であった「第3回ニッポン食育フェア」の会場。
福岡県宗像市のフリー記者、森千鶴子さん(37)は、心に浮かんだ違和感を打ち消せないでいた。
地元の食文化を見つめ直し、漁師料理を通じて都市住民と交流する活動「鐘崎ふれあい食堂・むなかたの食とくらし展」。
自ら手掛けた取り組みが、フェアの食育コンクールで特別賞に選ばれ参加した。
だが、85の食品メーカーや省庁・団体、民間非営利団体(NPO)が設けた展示ブースを見て驚いた。
子どもの料理教室、地域の伝統食、よい歯をつくる啓発活動などとともに、国内でその利用について論議が分かれている遺伝子組み換え大豆で作った納豆の試食など、食品関連企業、業界団体のPRコーナーも並んでいたのだ。
農水省が提唱し、小泉純一郎首相や、猪口邦子内閣府特命担当大臣(食育)がイノシシ汁を試食するなどして盛り上げたフェア。
2日間で2万7000人の人出に事務局は「過去最高」と胸を張った。
しかし、「まるでビジネスフェア。何のための食育なんだろ」。
森さんは、食育の今後に不安を抱いた。
「まただ」。2歳児健診で、前歯が溶けた幼児を見た鹿児島県の保健師(42)は、思わずため息をついた。
問診の結果は、予想通り。母親は、いつも哺(ほ)乳(にゅう)瓶にスポーツ飲料を入れ、寝るときに飲ませているという。
「ボトル・カリエス」。
甘い清涼飲料水やジュースが原因でできる虫歯のことを、歯科医の間ではこう呼ぶ。
むろん、こうした飲料自体は“毒”ではない。
飲ませる量や、飲みながら寝る習慣に問題があるのだ。
赤ちゃんのためのやさしい飲料とうたい、ニプル(ゴム乳首)が取り付け可能なある飲料(糖分5%)のラベルには、小さな文字でこう記されている。
「粉ミルクの調乳に使わないように」
「寝る前にニプルで飲ませることや、だらだら飲みは虫歯の原因になることがある」
だが、消費者は、そのただし書きよりも、人気タレントが一気に飲み干すCMの映像に目を奪われがちだ。
漠然と「体にいい」と思い込み、水代わりに与えてしまう
保健師は嘆く。
「だけど、本当に怖いのは、健診にさえこない親子。そんな人たちにこそ、食育が必要なんだけど、私たちの声は届かない」
× ×
1月、福岡市内の小学校で、一風変わった食育授業があった。
講師役の大手スナック菓子メーカー社員は、「おやつは量を決め、時間を守って食べよう」と呼びかけた。
「スナックスクール」と題された授業のハイライトは、いつも食べているスナック菓子の計量作業。
1日に食べる量をはかりに載せるのだ。
「70グラム」「80グラム」…。
ところが、食べていい量として示されたのはわずかに35グラム。
全員から「うわ、少なーっ」と声が上がった。
この企業は3年前から食育支援プログラムを始めた。
教師アンケートで、「子どもに薦めたくない食べ物」のトップとしてスナック菓子が挙げられたからだった。
他のおやつ(牛乳180ミリリットル)との兼ね合いで決めた「35グラム」は、商品としてはミニサイズの量。
「販売減になる」と営業担当の反対もあったが、食への意識が高まる中で先細りするよりは、「長く付き合ってもらう」方を選んだ。
学校側は、「企業側に売りたいという思惑はあるかもしれない」と思う。
しかし、食育にかける予算がない中、無料の出前授業は魅力だ。
「基本法はできても、食育以外にやらなければならないことはいっぱいある。どうすればいいのか、道筋が見えてこないんです」
無知、思い込み、戸惑い、そして企業の思惑…。
昨夏、食育基本法が施行されて以来、ブームとなった「食育」。
だが、その前途は“五里霧中”だ。
× ×
「何をどう食べようと、個人の自由だ。なぜ私的なことに国が口出しするのか」。
食育基本法については、そんな疑問の声もある。
「そうじゃない。もはや、個人レベルの問題ではないんです」。
長崎大学環境科学部で「食を変えるプログラム」を研究する中村修助教授(48)は、基本法が求められた背景をこう説明する。
かつて、人類の存在を脅かしたのは飢餓であり、赤痢やコレラなどの感染症だった。
これに対し、先進国ではワクチンや栄養改善、衛生管理の徹底といった武器を手にすることで闘いに勝利した。
そして、次に現れたのが姿の見えない敵。
便利で豊かな食と暮らしが主因とされる肥満症、高血圧、糖尿病、高脂血症など、別名“緩慢たる自殺”ともいわれる生活習慣病だ。
わが国の糖尿病や、その予備軍の数は2002年、1620万人(厚労省調査)に達した。
実に、成人男子の27%が肥満に悩んでいる。
子どもとて、無縁ではない。
00年、高松市が小学4年生に行った血液検査で、20%が高脂血症、16%に肝障害があるという恐るべき結果が出た。
このままいけば、国の一般会計予算の4割にも匹敵する総額31兆円(03年度)の国民医療費はさらに膨張。
個人のリスクを増やすとともに、行政の財政を圧迫し、社会の仕組み自体を変えてしまうだろう。
私たちは何をもって、この難敵と闘うのか。
「それは教育しかない。ビジネスありきではなく、明確な目的を持った食育、大人から子どもまで対象にした食育が求められている」。
中村助教授は、力を込める。
× ×
長崎県佐世保市の新田(しんでん)保育園。
給食を食べ終わった園児は食器を流し台まで運び、トレーは自分の手で洗う。
「それがこの園の伝統です」と話す保育士の山内千賀子さん(37)には、忘れられない言葉がある。
園では毎年6月、近くの畑でゴボウ掘りを体験する。
地面に湿り気があると簡単に抜けるが、好天が続くと、大人でも容易ではない。
まして園児なら、三人がかりで十分以上かけて周囲を掘ったにもかかわらず、途中でポキッと折ってしまうことがある。
そうして掘ったゴボウが給食に出たとき、ある年長児が言った。
「先生、昨日ね、スーパーに行ったとよ。そしたらね、ゴボウが二本で百円やった。あんなにきつか思いしたとに、安かよねー」
「簡単に抜けた方が楽でいい」。
気楽に考えていた山内さんはハッとした。
園児の感性は、苦労して掘ったことを通じて、単なる農作業体験を超えた食育の本質をとらえていたからだ。
「何を食べるかだけじゃだめ。食べ物の向こう側に思いをはせられるような教育をしなければ…」
× ×
誰のための、何のための食育か。
そして、どう進めていけばいいのか。
シリーズ第八部「食育 その力」では、各地で展開されている先進事例を交えながら、求められる食育の姿や可能性を探ります。
(この連載は編集委員・佐藤弘、同・重岡美穂、同・田中良治、地域報道センター・簑原亜佐美が担当します)