行く年を除夜の鐘とともに見送り、
年始は、晴れ着を着て、年に一度、(この日だけは神様に感謝して)、
お参りして、厳かに新しい年を迎えると言うのが、日本であるけれど、
ここ、オーストラリアでは、新年は、ただただ、クリスマスの延長?
クリスマスのお飾りのまだ残る街で、どんちゃん騒ぎをして、
初日の出なんて気にする人もあまりいなくて、
飲みすぎ騒ぎ過ぎで疲れて朝寝する人が多いから、私なんかは、お正月できなくて、
何だか損したような気持ちで、静かな新年の朝を迎えるのです。
オーストラリアの 2006(カッコ内は2001)年の国勢調査によれば、
ローマ・カトリックが25.8%(26.6%)、聖公会が18.7%(20.7%)等を含めたキリスト教徒全体が約64%、
非キリスト教が約5%(4.9%)、無宗教が18.7%(15.5%)、無回答が約12%(11.7%)
と言われていて、圧倒的にクリスチャンが多いのです。
毎週、日曜日の朝ともなると、教会に行く人を、かなりあちこちで見受けます。
ご夫婦で正装なさっていそいそとお出かけなさる様子は、私には羨ましくもあります。
だって、結婚するとき、神の前で "幸せな時だけじゃなく苦しい時も愛しあう”って誓うでしょ?
その通りにして、2人で行くわけですから…ウチなんて、行けたもんじゃありませんが…
教会では、皆は父(神様)の子供だから、
教会の人同士、家族だという設定なのです。
祭祀様に、 ”お帰りなさい、家族たち!” なんて言いわれると、
何となく仲間意識ができて、安心したり、リラックスもしたもんです。
そんなオーストラリアは、教会の中だけじゃなくて、そこら中に神様の存在があって、例えば、
JP (JUSTICE of PEACE) という治安判事みたいな仕事をする人が居るんですが、
書類のコピーを作る時や、誓約書を作る時、身近な話では、スピード違反の請求が来た時、
運転してたのは私じゃなくて、友達だった、という申請書を作った時とか、色々あるけれど、
公的な文書を作る時、官公庁から ”神様の前で誓って来てね” というお達しが来ます。
私なんかは、裁判で使う事情供述書を作った時、
これは嘘じゃないよ、と、JPの前で、聖書の上に手を置いて(聖書は、JP 自分持ちです)
”…うそじゃないと誓います、何とか、かんとか、云々…” などと言わされて、誓います。
そして、ハンコを押してもらって、これは嘘じゃない公的書類になるのです。
これって、神の前では嘘をつく人は居ない、と、いう事が全くの前提? ですよね?
うちの前夫もやったのかなぁ~??? 罰あたるで。
で、嘘ついた人は、”神様、私は弱い人間です。嘘をついてしまいました”
と、あやまって、神様に許してもらって、あとはすっきりするのでしょうか?
それとも、前夫の様に ”神なんてこの世にいないさぁ!”
と、居直るのか?
オーストラリア人にとって、神様って何なんだろうと思うのです。
私は、高校生の頃、思うところがあって、キリスト教大に行きました。
でも、結局、クリスチャンになれずに、今まで来たわけですが、
神様を信じ、自分の人生を放り投げてしまえる、いえいえ、
お任せ出来る友達たちを、本当に羨ましく思ったものです。
だって、どうした良いか分からなくて、あがくのって、結構しんどいでしょ?
離婚したとき、子供に神を畏れない人にはなってほしくなくて、
子供の為に教会に行き始めたわけですが、
”神様は何があっても、私の為であり、私の人生を良くしているのよ”、
と、言う、教会家族の話を行くたびに聞いている間に、私も知らず知らす、洗脳されて
自分の人生をお任せしてもいいかなという気持ちになりかけていた時、裁判に負け、
私たちを見ていた子供たちは、神様に絶望して、教会に来てくれなくなって
ついに私も無意味に思えてしまって、行かなくなったわけですが、
それでも、神様を信じ切って居られる人を、羨ましいと思っていたのです。
でも、ふと思うのですが、教会は一種のコミュニティで、
本当は、神様が自分の思い通りになんて動いてくれないと、わかってるけど、
昔の日本が、年寄を中心にコミュニティを作っていたように、
それで、秩序をたもってるのかもしれない(自分の心に)、と、思ったりもするのです。
写真、何故か大きく、それも逆さまに出たんですけど、消し方が分からないので、そのままです。
ごめんなさい!
年始は、晴れ着を着て、年に一度、(この日だけは神様に感謝して)、
お参りして、厳かに新しい年を迎えると言うのが、日本であるけれど、
ここ、オーストラリアでは、新年は、ただただ、クリスマスの延長?
クリスマスのお飾りのまだ残る街で、どんちゃん騒ぎをして、
初日の出なんて気にする人もあまりいなくて、
飲みすぎ騒ぎ過ぎで疲れて朝寝する人が多いから、私なんかは、お正月できなくて、
何だか損したような気持ちで、静かな新年の朝を迎えるのです。
オーストラリアの 2006(カッコ内は2001)年の国勢調査によれば、
ローマ・カトリックが25.8%(26.6%)、聖公会が18.7%(20.7%)等を含めたキリスト教徒全体が約64%、
非キリスト教が約5%(4.9%)、無宗教が18.7%(15.5%)、無回答が約12%(11.7%)
と言われていて、圧倒的にクリスチャンが多いのです。
毎週、日曜日の朝ともなると、教会に行く人を、かなりあちこちで見受けます。
ご夫婦で正装なさっていそいそとお出かけなさる様子は、私には羨ましくもあります。
だって、結婚するとき、神の前で "幸せな時だけじゃなく苦しい時も愛しあう”って誓うでしょ?
その通りにして、2人で行くわけですから…ウチなんて、行けたもんじゃありませんが…
教会では、皆は父(神様)の子供だから、
教会の人同士、家族だという設定なのです。
祭祀様に、 ”お帰りなさい、家族たち!” なんて言いわれると、
何となく仲間意識ができて、安心したり、リラックスもしたもんです。
そんなオーストラリアは、教会の中だけじゃなくて、そこら中に神様の存在があって、例えば、
JP (JUSTICE of PEACE) という治安判事みたいな仕事をする人が居るんですが、
書類のコピーを作る時や、誓約書を作る時、身近な話では、スピード違反の請求が来た時、
運転してたのは私じゃなくて、友達だった、という申請書を作った時とか、色々あるけれど、
公的な文書を作る時、官公庁から ”神様の前で誓って来てね” というお達しが来ます。
私なんかは、裁判で使う事情供述書を作った時、
これは嘘じゃないよ、と、JPの前で、聖書の上に手を置いて(聖書は、JP 自分持ちです)
”…うそじゃないと誓います、何とか、かんとか、云々…” などと言わされて、誓います。
そして、ハンコを押してもらって、これは嘘じゃない公的書類になるのです。
これって、神の前では嘘をつく人は居ない、と、いう事が全くの前提? ですよね?
うちの前夫もやったのかなぁ~??? 罰あたるで。
で、嘘ついた人は、”神様、私は弱い人間です。嘘をついてしまいました”
と、あやまって、神様に許してもらって、あとはすっきりするのでしょうか?
それとも、前夫の様に ”神なんてこの世にいないさぁ!”
と、居直るのか?
オーストラリア人にとって、神様って何なんだろうと思うのです。
私は、高校生の頃、思うところがあって、キリスト教大に行きました。
でも、結局、クリスチャンになれずに、今まで来たわけですが、
神様を信じ、自分の人生を放り投げてしまえる、いえいえ、
お任せ出来る友達たちを、本当に羨ましく思ったものです。
だって、どうした良いか分からなくて、あがくのって、結構しんどいでしょ?
離婚したとき、子供に神を畏れない人にはなってほしくなくて、
子供の為に教会に行き始めたわけですが、
”神様は何があっても、私の為であり、私の人生を良くしているのよ”、
と、言う、教会家族の話を行くたびに聞いている間に、私も知らず知らす、洗脳されて
自分の人生をお任せしてもいいかなという気持ちになりかけていた時、裁判に負け、
私たちを見ていた子供たちは、神様に絶望して、教会に来てくれなくなって
ついに私も無意味に思えてしまって、行かなくなったわけですが、
それでも、神様を信じ切って居られる人を、羨ましいと思っていたのです。
でも、ふと思うのですが、教会は一種のコミュニティで、
本当は、神様が自分の思い通りになんて動いてくれないと、わかってるけど、
昔の日本が、年寄を中心にコミュニティを作っていたように、
それで、秩序をたもってるのかもしれない(自分の心に)、と、思ったりもするのです。
写真、何故か大きく、それも逆さまに出たんですけど、消し方が分からないので、そのままです。
ごめんなさい!
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