● 真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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【浄土真宗の発展と本願寺教団の形成】
当時、浄土真宗は本願寺に一本化されたわけではなく、東国では親鸞の門弟たちの教団によって継承されていく。真仏・顕智の系統をひく高田門徒(専修寺を中心とする)・荒木門徒・和田門徒。他にも鹿島門徒・伊達門徒・横曽根門徒が有力であった。特に高田門徒は非常に盛んであった。また了源の教団は、京都の佛光寺を中心にして「名帳」・「絵系図」によって発展をとげる。
康応2年/明徳元年(1390年)、綽如が「本願寺」を継承し第五世になるも、まもなく寺務は法嗣である第2子の巧如に委任する。綽如は越中(富山県)井波に瑞泉寺を建立する。
明徳4年(1393年)4月24日、瑞泉寺にて第五世綽如が入滅する。
応永元年(1394年)、綽如入滅にともない、寺務を委任されていた巧如が「本願寺」を継承し第六世となる。
第六世巧如も瑞泉寺で北陸への教化を行う。つづく存如の時代により発展し、近江(滋賀県)・加賀(石川県)・能登(石川県)・越前(福井県)などで本願寺教団の形成がみられるようになる。
本願寺は、近江国や北陸地方を中心に徐々に教線を拡張する。
本願寺にも御影堂と阿弥陀堂の両堂が建てられた。この時の無理の影響で、本願寺の財政は逼迫する。
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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【浄土真宗の発展と本願寺教団の形成】
当時、浄土真宗は本願寺に一本化されたわけではなく、東国では親鸞の門弟たちの教団によって継承されていく。真仏・顕智の系統をひく高田門徒(専修寺を中心とする)・荒木門徒・和田門徒。他にも鹿島門徒・伊達門徒・横曽根門徒が有力であった。特に高田門徒は非常に盛んであった。また了源の教団は、京都の佛光寺を中心にして「名帳」・「絵系図」によって発展をとげる。
康応2年/明徳元年(1390年)、綽如が「本願寺」を継承し第五世になるも、まもなく寺務は法嗣である第2子の巧如に委任する。綽如は越中(富山県)井波に瑞泉寺を建立する。
明徳4年(1393年)4月24日、瑞泉寺にて第五世綽如が入滅する。
応永元年(1394年)、綽如入滅にともない、寺務を委任されていた巧如が「本願寺」を継承し第六世となる。
第六世巧如も瑞泉寺で北陸への教化を行う。つづく存如の時代により発展し、近江(滋賀県)・加賀(石川県)・能登(石川県)・越前(福井県)などで本願寺教団の形成がみられるようになる。
本願寺は、近江国や北陸地方を中心に徐々に教線を拡張する。
本願寺にも御影堂と阿弥陀堂の両堂が建てられた。この時の無理の影響で、本願寺の財政は逼迫する。