雑記帳

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浄土宗 87

2018-12-15 06:29:17 | 宗教
 浄土宗
◇選択集について
 選択集は、建久8年(1197)に現在でいえば「前総理大臣」という立場にあった九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」という切望に応じられ、建久9年(1198)の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。

【選擇本願念佛集】
 法然上人の選擇本願念佛集を読んでみましょう。 原文は漢文で書かれていますが、今回は書き下してあります。
第一 聖道浄土二門篇
第二 雑行を捨てて正行に帰する篇
第三 念仏往生本願篇
第四 三輩念仏往生篇
第五 念仏利益篇
第六 末法万年に特り念仏を留むる篇
第七 光明ただ念仏の行者を摂する篇
第八 三心篇
第九 四修法篇
第十 化仏讃歎篇
第十一 雑善に約対して念仏を讃歎する篇
●第十二 仏名を付属する篇
第十三 念仏多善根遍
第十四 六方諸仏ただ念仏の行者を証誠したまう篇
第十五 六方諸仏護念篇
第十六 弥陀の名号を以て舎利弗に付属したまう篇
≪第十二章段≫
釈尊定散の諸行を附属せず、ただ念仏を以て阿難に付属したまうの文
 『観無量寿経』に云わく、仏阿難に告げたまわく、汝好くこの語を持て。この語を持てとはすなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。
 同経の『疏』に云く、「仏告阿難汝好持是語」より已下は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明す。上来定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むれば、意衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り。
 私に云く、『疏』の文を案ずるに、二行有り。一には定散、二には念仏なり。初めに定散と言うはまた分ちて二とす。一には定善、二には散善なり。
 初めに定善に付いて、その十三有り。一には日想観、二には水想観、三には地想観、四には宝樹観、五には宝池観、六には宝楼閣観、七には華座観、八には像想観、九には阿弥陀仏観、十には観音観、十一には勢至観、十二には普往生観、十三には雑想観、つぶさには『経』に説くがごとし。たとい余の行無しとも、あるいは一、あるいは多、その堪ゆる所に随って、十三観を修して往生を得べし。その旨『経』に見えたり。あえて疑慮すること莫れ。
 次に散善に付いて二有り。一には三福、二には九品。初めに三福とは『経』に曰く、「一には父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず十善業を修す。二には三帰を受持し、衆戒を具足して威儀を犯さず。三には菩提心を発し深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。」 已上経文。 孝養父母とは、これに付いて二有り。一には世間の孝養、二には出世の孝養なり。世間の孝養とは『孝経』等に説くがごとし。出世の孝養とは律の中の生縁奉事の法のごとし。奉事師長とはこれに付いてまた二有り。一には世間の師長、二には出世の師長なり。世間の師とは、仁義礼智信等を教えるの師なり。出世の師とは、聖道浄土の二門等を教えるの師なり。たとい余の行無しといえども孝養奉事を以て往生の業とす。慈心不殺、修十善業とはこれに就いて二義有り。一には初めに慈心不殺とは、これ四無量心の中の初めの慈無量なり。すなわち初めの一を挙げて後の三を摂す。たとい余の行無しといえども、四無量心を以て往生の業とす。次に修十善業とは一には不殺生、二には不偸盜、三には不邪婬、四には不妄語、五には不綺語、六には不悪口、七には不両舌、八には不貧、九には不瞋、十には不邪見なり。二には慈心不殺、修十善業の二句を合して一句と為す。謂く、初めに慈心不殺とはこれ四無量の中の慈無量には非ず。これ十善のはじめの不殺を指す。故に知んぬ。正しくこれ十善の一句なることを。たとい余の行無しといえども十善業を以て往生の業とす。受持三帰とは仏法僧に帰依するなり。これに就いて二有り。一には大乗の三帰、二には小乗の三帰なり。具足衆戒とはこれに二有り。一には大乗戒、二には小乗戒なり。不犯威義とはこれにまた二有り。一には大乗、謂く八万有り。二には小乗、謂く三千有り。発菩提心とは諸師の意不同なり。天台にはすなわち四教の菩提心有り。謂く蔵通別円これなり。つぶさには『止観』に説くがごとし。真言にはすなわち三種の菩提心有り。謂く行願と勝義と三摩地とこれなり。つぶさには『菩提心論』に説くがごとし。華厳にまた菩提心有り。彼の『菩提心義』および『遊心安楽道』等に説くがごとし。三論・法相に各菩提心有り。つぶさには彼の宗の章疏等に説くがごとし。また善導所釈の菩提心有り。つぶさには『疏』に述するがごとし。発菩提心その言一なりといえども、各その宗に随って、その義同じからず。然ればすなわち菩提心の一句は、広く諸経に亘り、偏く顕密を該ぬ。意気博遠にして、詮測沖(バク=辷-一+貌)なり。願わくは諸の行者一を執して万を遮すること莫れ。諸の往生を求めん人は各すべからく自宗の菩提心を発すべし。たとい余の行無しといえども、菩提心を以て往生の業とするなり。深信因果とは、これに付いて二有り。一には世間の因果、二には出世の因果なり。世間の因果とはすなわち六道の因果なり。『正法念経』に説くがごとし。出世の因果とは、すなわち四聖の因果なり。諸の大小乗経に説くがごとし。もしこの因果の二法を以て遍く諸経を摂せば、諸家同じからず。且く天台に依れば、謂く華厳には仏菩薩二種の因果を説き、阿含には声聞・縁覚二乗の因果を説き、方等の諸経には四乗の因果を説き、般若の諸経には通別円の因果を説き、法華には仏因仏果を説き、涅槃にはまた四乗の因果を説く。然ればすなわち深信因果の言遍く一代を該羅せり。諸の往生を求めん人たとい余の行無しといえども、深信因果を以て往生の業と為すべし。読誦大乗とは、分ち二とす。一には読誦、二には大乗なり。読誦とはすなわちこれ五種法師の中に、転読・諷誦の二師を挙げて、受持等の三師を顕わす。もし十種法行に約せば、すなわちこれ披読・諷誦の二種の法行を挙げて書写供養等の八種の法行を顕わす。大乗とは小乗を簡ぶ言なり。別に一経を指すに非ず。通じて一切の諸大乗経を指す。謂く一切とは、仏意広く一代所説の諸大乗経を指す。而るに一代の所説において已結集の経有り、未結集の経有り。また已結集の経においてあるいは龍宮に隠れて人間に流布せざる経有り。あるいは天竺に留まって、いまだ漢地に来到せざる経有り。而るに今翻訳将来の経に就いてこれを論ぜば、『貞元入蔵録』の中に、始め『大般若経』六百巻より、『法常住経』に終るまで、顕密の大乗経すべて六百三十七部、二千八百八十三巻。皆すべからく読誦大乗の一句に摂すべし。西方を願う行者各その意楽に随って、あるいは法華を読誦して以て往生の業と為し、あるいは華厳を読誦して以て往生の業と為し、あるいは遮那教王および諸尊法等を受持読誦して以て往生の業と為す。あるいは般若方等および涅槃経等を解説し書写して以て往生の業と為す。これすなわち浄土宗の『観無量寿経』の意なり。
 問うて曰く、顕密旨異なり、何ぞ顕の中に密を摂するや。答えて曰く、これは顕密の旨を摂すと云うには非ず。 『貞元の入蔵録』の中に同じくこれを編みて大乗経の限に入る。故に読誦大乗の一句に摂す。
 問うて曰く、爾前の経の中に何ぞ法華を摂するや。答えて曰く、今言う所の摂とは権実偏円等の義を論ずるには非ず。読誦大乗の言、普く前後の大乗諸経に通ず。前とは『観経』已前の諸大乗経これなり。後とは王宮已後の諸大乗経これなり。ただ大乗と云って権実を選ぶこと無し。然ればすなわち正しく華厳・方等・般若・法華・涅槃等の諸大乗経に当れり。勧進行者とは、謂く定散の諸善および念仏三昧等を勧進するなり。
 次に九品とは、前の三福を開して九品の業と為す。謂く上品上生の中に「慈心不殺」と言うは、すなわち上の世福の中の第三の句に当れり。次に「具諸戒行」とは、すなわち上の戒福の中の第二の句の「具足衆戒」に当れり。次に「読誦大乗」とは、すなわち上の行福の中の第三の句の「読誦大乗」に当れり。次に「修行六念」とは、すなわち上の第三の福の中の第三の句の意なり。上品中生の中に「善解義趣」等と言うは、すなわちこれ上の第三の福の中の第二第三の意なり。上品下生の中に「深信因果発道心」等と言うは、すなわちこれ上の第三の福の第一第二の意なり。中品上生の中に「受持五戒」等と言うは、すなわち上の第二の福の中の第二の句の意なり。中品中生の中に「或一日一夜受持八戒斎」等と言うは、また上の第二の福の意に同じ。中品下生の中に「孝養父母行世仁慈」等と言うは、すなわち上の初めの福の第一第二の句の意なり。下品上生とはこれ十悪の罪人なり。臨終の一念に罪滅して生ずることを得。下品中生はこれ破戒の罪人なり。臨終に仏の依正の功徳を聞いて罪滅して生ずることを得。下品下生はこれ五逆の罪人なり。臨終の十念に罪滅して生ずることを得。この三品は尋常の時ただ悪業を造って往生を求めずといえども、臨終の時始めて善知識に遇ってすなわち往生を得。もし上の三福に準ぜば第三福の大乗の意なり。定善散善大概かくのごとし。文にすなわち「上来雖説定散両門之益」と云うこれなり。
 次に念仏とは、専ら弥陀仏の名を称するこれなり。念仏の義常のごとし。今正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明すと言うは、およそこの『経』の中にすでに広く定散の諸行を説くといえども、すなわち定散を以て阿難に付属して後世に流通せしめずして、ただ念仏三昧の一行を以てすなわち阿難に付属して遐代に流通せしむ。
 問うて曰く、何が故ぞ定散の諸行を以て付属流通せざるや。もしそれ業の浅深に依って嫌って付属せずば、三福業の中に浅有り、深有り。その浅業は「孝養父母」、「奉事師長」なり。その深業は「具足衆戒」、「発菩提心」、「深信因果」、「読誦大乗」なり。すべからく浅業を捨てて、深業を付属すべし。もし観の浅深に依って嫌って付属せずば、十三観の中に浅有り、深有り。その浅観は日想水想これなり。その深観は始め地観より雑想観の終るまですべて十一観これなり。すべからく浅観を捨てて深観を付属すべし。中に就いて第九の観はこれ阿弥陀仏観なり。すなわちこれ観仏三昧なり。すべからく十二観を捨てて、観仏三昧を付属すべし。中に就いて『同疏』の玄義分の中に云く、「この『経』は観仏三昧を宗と為し、また念仏三昧を宗と為す」と。すでに二行を以て一経の宗と為す。何ぞ観仏三昧を廃して念仏三昧を付属するや。答えて曰く、「仏の本願に望むるに、意衆生をして一向は専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り」と云う。定散の諸行は本願に非ざるが故にこれを付属せず。またその中において、観仏三昧は殊勝の行なりといえども仏の本願に非ず。故に付属せず。念仏三昧はこれ仏の本願なり。故に以てこれを付属す。「望仏本願」と言うは、『雙巻経』の四十八願の中の第十八願を指す。「一向専称」と言うは、『同経』の三輩の中の「一向専念」を指す。本願の義つぶさには前に弁ずるがごとし。問うて曰く、もし爾らば何が故ぞ直に本願念仏の行を説かずして、煩わしく非本願の定散諸善を説くや。答えて曰く、本願念仏の行は『巻経』中に委くすでにこれを説く。故に重ねて説かざるのみ。また定散を説くことは、念仏の予善に超過することを顕さんが為なり。もし定散無くば、何ぞ念仏特り秀でたることを顕さん。例せば法華の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説無くんば何ぞ法華の第一なることを顕さん。故に今定散は廃の為にしかも説き、念仏三昧は立せんが為にしかも説く
 ただし定散の諸善皆用て測り難し。およそ定善とはそれ依正の観、鏡を懸けて照臨し、往生の願、掌を指して速疾なり。あるいは一観の力能く多劫の罪(ケン=僣-日+心)を(シリゾ=衵-日+去)け、あるいは具憶の功、ついに三昧の勝利を得。然ればすなわち往生を求めん人、宜しく定観を修行すべし。中に就いて第九の真身観は、これ観仏三昧の法なり。行もし成就すればすなわち弥陀の身を見る。弥陀を見るが故に諸仏を見ることを得。諸仏を見るが故に、現前に授記せらる。この観の利益最も甚深なり。然るに今『観経』の流通分に至って、釈迦如来、阿難に告命して往生の要法を付属し流通せしむるに因って、観仏の法を嫌って、なお阿難に付属せず、念仏の法を選んで、すなわち以て阿難に付属す。観仏三昧の法なお以て付属せず。何にいわんや日想水想等の観においてをや。然ればすなわち十三定観は皆以て付属せざる所の行なり。然るに世人もし観仏等を楽って、念仏を修せざるは、これ遠くは弥陀の本願に乖くのみに非ず。またこれ近くは釈尊の付属に違す。行者宜しく商量すべし。
 次に散善の中に大小持戒の行有り。世皆以為らく、持戒の行はこれ入真の要なり。破戒の者は往生すべからずと。また菩提心の行有り。人皆以為らく菩提心はこれ浄土の綱要なり。もし菩提心無き者はすなわち往生すべからずと。また解第一義の行有り。これはこれ理観なり。人また以為らく、理はこれ仏の源なり。理を離れては仏土を求むべからず。もし理観無き者は往生すべからずと。また読誦大乗の行有り。人皆以為らく、大乗経を読誦せば、すなわち往生すべし。もし読誦の行無き者は往生すべからずと。これに就いて二有り。一には持経、二には持咒なり。持経とは『般若』・『法華』等の諸大乗経を持するなり。持咒とは『随求』・『尊勝』・『光明』・『阿弥陀』等の諸の神咒を持するなり。およそ散善の十一人、皆貴しといえども、しかもその中においてこの四箇の行は当世の人、殊に欲する所の行なり。これ等の行を以て、殆んど念仏を抑う。つらつら『経』の意を尋ねれば、この諸行を以て付属し流通せず。ただ念仏の一行を以てすなわち後世に付属し流通せしむ。まさに知るべし、釈尊諸行を付属したまわざる所以は、すなわちこれ弥陀の本願に非ざるが故なり。また念仏を付属したまう所以は、すなわちこれ弥陀の本願なるが故なり。今また善導和尚諸行を廃して念仏に帰せしむる所以は、すなわち弥陀の本願たるの上、またこれ釈尊付属の行なればなり。故に知んぬ。諸行は機に非ず、時を失えり。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐ならんや。まさに知るべし。隨他の前には暫く定散の門を開くといえども、隨自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるはただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意ここに在り、行者まさに知るべし。またこの中に遐代とは、『雙巻経』の意に依るに、遠く末法万年の後の百歳の時を指す。これすなわち遐を挙げて、邇きを摂する。然れば法滅の後、なお以てし然なり。何にいわんや末法をや。末法すでに然り。何にいわんや正法像法をや。故に知んぬ。念仏往生の道は正像末の三時および法滅百歳の時に通ずということを。

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